第六節 討伐勝負

 新婚の夫婦がある朝、無残にも惨殺された姿で発見される――そんな事件はもう数年前から散発していた。始めは獲物に餓えた獣の仕業と思われたが、それにしては発生個所が離れすぎているし、何より被害者に「新婚である」との共通項があるのは不可解だ。そこで遺体を繋ぎ合わせてみれば、なんと欠けたところが一つもない。獣が襲ったのであればその身を多少なり胃袋に入れるはず。それがすべて残っている……それはつまり、彼らはただ殺すためだけに殺されたことを意味していた。

 その動機も犯人像も、長らく不明だった。だがそれはある日突然明らかとなった。とある良家の婚礼の宴に彼らは堂々と姿を現したのだ。一匹の巨大な猿と、その肩に腰掛けた女と。女は巨猿を「袁嘯えんしょう」と紹介し、自らはその妻「袁夫人」を名乗った。そして、新郎新婦を始め参列者の大多数をその場で八つ裂きにしたのである。

 その袁夫人が、なぜ壬龍鏢局の白龍杖を求めるのか。中天幇会の張飛鉾を有しているのか。それはこの場の誰にも理解できない。しかしただ一つ明らかなことがある。

「こやつの悪行は江湖に知れ渡っている。討たれるべき大罪人、極悪非道の悪女だ。ならばこの大敵を討ち果たした者こそ、壬龍と紅衣とを背負い立つに相応しかろう!」

「好し! その勝負、乗った!」

 壬烈華の提案に、李客も李白も同時に応じた。李白はさっそく腰の黒剣を抜き放ち、袁夫人へと突っ込んだ。チィン! 鉾と剣とが火花を散らす。

「ではこちらは袁殿に手合わせ願おう!」

 李客はぐるりと回り込み、巨猿に対して掌を掲げて打ち込んだ。「流花落葉掌りゅうからくようしょう」の技だ。

「壬家と李家の勝負なら、私も李家の一員よ!」

 月圓が腰帯の下に手を差し入れたかと思えば、瞬く間にすらりと剣を引き抜いた。その剣身は紙のように薄く、重力に沿ってたわんでいる。腰に巻いて携行する腰帯軟剣ようたいなんけんだ。それをピシッと振り抜きながら、月圓も李白と共に袁夫人へと斬りかかる。

「数にたのむとは、情けない人たちね!」

 袁夫人は吐き捨てるが、それは彼女らが劣勢に回ったことを意味していた。さしもの悪女もこれだけの武芸者を相手に凌ぎきれなくなったのだ。特に李白と李月圓が彼女にとっては天敵であった。この二人、袁夫人が繰り出す技の一つ一つを完全に理解しているとしか思えない動きを見せるのだ。先刻も李白は繰り出す技の一つ一つ、その欠点と対処まで言い当てていた。疑うべくもない、この兄妹は己と同じ武芸を修めている!

 分が悪いどころではない。ここは一度撤退を――そこへ月圓の軟剣が襲いかかる。張飛鉾で受けたところ、勢いで曲がった剣身が鉾を絡めとった。動きを封じられた。そこへ李白の黒剣が突き込まれる。

「もらったぁぁぁぁぁぁ!」

 ガァン! 耳元で発生した轟音に袁夫人は顔を歪めた。が、その一瞬で巨猿が飛び退き、李白の剣が遠退く。何が起こったのかと見やれば、すぐ目の前に白銀の龍がいた。

「壬のジジイめ、何をする!」

 壬烈華が割り込み、李白の剣撃を妨害したのだ。壬烈華は李白の叱責を無視し、返す勢いで白龍杖を振るう。掲げた張飛鉾が軋んだ。並みの兵器ではへし折られていたところだ。しかし武器は平気でもそれを持つ袁夫人の手が無事ではない。痺れを堪えて何とか放さないでいるが、親指の付け根が裂けて血が流れ出た。

「オオオオオオオオォォォォォォォォォォォ!」

 巨猿が咆哮を発し、その巨躯からは想像できない速度で拳を振るう。はっとして白龍杖を掲げた壬烈華は反対側の壁まで吹き飛ばされた。袁夫人の負傷を察して怒りに燃えたのか?

 感情に突き動かされて行動したとき、その直後が無防備となりやすいのは人も獣も変わらない。急に大振りの拳を放ったため、巨猿の右脇腹が大きく空いている。壬克秀が床に落ちていた仲間の剣を拾い、刺突を送る。が、しかし。直前で横から掌打を受け、剣が逸れた。邪魔をしたのは李客だ。

「まあまあ、そう急くな」

「くっ……!」

 巨猿が腕を振り戻す。両者同時に飛び退き間合いを取った。千載一遇の機会は斯くして失われたのだ。

 これが何を意味するのか、袁夫人はたちどころに理解した。思わず笑声が喉を突いて出る。

「アハハッ! そうなのね、それならば遠慮なく!」

 李家と壬家は共闘しているように見えて、その実互いを牽制しあっている。どちらかが決め手を繰り出そうとすれば、もう一方がそれを阻害する。であれば何を恐れる必要がある? 決定打は決して届かないのだから!

 乱闘はすでに壬龍鏢師たちが脱落し、残るは壬烈華、壬克秀、李客、李白、李月圓の五人だけだ。それぞれ猛攻を仕掛けるも、巨猿の剛腕には抗えず、また間合いの遠い張飛鉾を相手に苦戦する。加えて前に飛び出せばすぐさま妨害が入るのだ。これでは勝負がつかない。

「壬烈華! 老齢に長期戦は辛いでしょう? 早々に白龍杖を渡すのが身のためではないかしら!」

 音なく鉾の三連撃が壬烈華を襲う。音がないのは軸に一切のブレがなく、大気を鋭利に斬り裂いているからだ。壬烈華はこれを何とか受けたものの、二歩後退させられる。そこへ巨猿の腕が襲いかかり、回避が間に合わず左腕を掻かれた。血肉が裂け鮮血が飛ぶ。よろめいたところを壬克秀が慌てて受け止めた。

「わしに構うな。奴らを止めろ!」

 李家三人が同時に攻勢に移る。まず月圓が巨猿の腕へ斬りつける。強靭な獣の皮膚は容易に斬れぬが、確かに傷を負わせた。巨猿が一歩引くのへ李客が踏み込む。巨猿はこれを押し潰さんとばかりに拳を薙いだ。が、李客はこれをポンと押さえて飛び越える。

「白児、今だ!」

 そこへ李白が飛び込んだ。空中で李客が掌を突き出す。これを足場にして李白はさらに跳躍。袁夫人の遥か頭上を飛び越え、背後を取る。

「いただきぃぃぃぃぃぃ!」

 李白は直上やや後ろの位置から落下の勢いで剣を振るう。袁夫人はぐいとその場で仰け反るようにしながら鉾を一直線に突き出した。「黄塵烈風こうじんれっぷう」の用法でその勢いは凄まじい。が、李白の黒剣がさっと直線の軌跡を描く。すっぱりと張飛鉾の柄が二つに分かれた。白龍杖の一撃を受けても折れなかった張飛鉾が、こうも易々と!

 もはや回避も防御も打つ手はない。ここまでか! 袁夫人が敗北を覚悟した瞬間、横合いから壬克秀が飛び込んだ。

「そうはさせぬぞ!」

 突き出した剣が李白の黒剣を逸らす。次いで壬克秀の剣が袁夫人へ向かおうとしたが、その転換の一瞬が袁夫人に立て直しの猶予を与えた。断たれた張飛鉾の柄を壬克秀の腹に打ち込み、吹き飛ばす。そしてもう一方の掌で李白へ掌打を見舞った。剣を弾かれた李白は、しかしまだ掌打を放っていたのだ。

 袁夫人の掌打は李白の脇を捉えた。ゴキ、肋骨に手応え。しかし同時に袁夫人の左胸を激痛が襲った。

「うひゃあっ! これはなんとまあ吸い付くような極上の柔らかさ!」

 あろうことか李白は、袁夫人に届かなかった掌でそのまま彼女の左乳房を鷲掴みにしていたのである。そこを袁夫人が打ったので、李白の体に引っ張られて袁夫人の胸にも荷重がかかったのだ。もぎ取られんばかりの激痛に加え、度し難い恥辱である。

「下郎めっ!」

 張飛鉾の柄を、乳房を鷲掴む親指の根本に突き入れる。ギャッ、と呻いて手を放す李白。そこへ巨猿が旋風の如く身を翻し、大木の如き足を振り上げる。強風を巻いて繰り出された蹴りが李白の体を直撃する。壁をぶち抜き、李白の体は一瞬にして見えなくなった。

「兄さん!」

 月圓が血の気を失って悲痛な声を上げる。あのような一撃を受けて、果たして人間は生きていられるのか? 通常であればまず無理だ。直撃した時点で全身の骨は砕け、五臓六腑が破裂し、ただの肉塊へと変じる。生きているはずがない。――しかし。

「うへぇ、これはまた強烈じゃ。その猿め、お主にぞっこん惚れておるのじゃな」

 壁の向こうから李白が答えた! 月圓が喜びに息を呑むのと同時、袁夫人の顔面に殺気が漲る。

袁郎あなた! まずあの不埒者を八つ裂きにするわよ!」

「キィィィィィィィィィィィアァァァァァァァァァァァッッッッッッッ!」

 耳をつんざかんばかりの奇声を発し、巨猿は壁の穴を殴り広げて外へと飛び出した。たちまち李白の「わっ、来るな来るな!」との叫び声と、巨猿の咆哮とが遠く離れて行く。次第に小さくなっては、とうとう聞こえなくなった。

 危機は去ったのだ。壬烈華も壬克秀も、壬龍鏢局の面々は皆一様にその場に頽れ、安堵の息を吐いた。疲労困憊に満身創痍、あと少し長引けばどうなっていたことやら。

「――さて、勝負の行方だが」

 そんな彼らへ、無粋にも水を差す者がいた。くたびれ果てた壬親子が見やれば、李客がニヤニヤと立っている。その背後に立つ月圓もまた、腰帯軟剣を収めながら口元を綻ばせていた。

「この第三の勝負、先に袁夫人を退けた側の勝ち、ということだったな? であれば、敵を退けこの場から引き離したのは白児の手柄。すなわち――李家の勝ちだ」

「なにッ!?」

 疲労など一瞬で吹き飛ばし、壬烈華は飛び起きた。が、それ以上は何も言えない。確かに袁夫人を退けた決定打は――あれを決定打と呼んでよいのかどうかはさておき――李白である。であればこの第三の出題の勝者は李白であり、三番勝負も二勝を収めた李家の勝利である。

「壬鏢頭、壬公子。そして鏢師の方々。どうぞお引き取りを」

「お引き取りを!」

 李客と李月圓、二人並んで腕を掲げる。「招迎客手」の構え。しかし今は、「追送客手」とでも言うべきか。

 苦汁を噛み締めながら出て行く壬龍鏢局。最後に壬親子が並んで出て行こうとするのを、月圓はふと思い出して呼び止めた。

「壬鏢頭、賭けをお忘れなく!」

 壬烈華は双眸から火を噴かんばかりに月圓を睨みつけたが、月圓はどこ吹く風だ。ニコニコとしながら上体を揺らし、むしろこちらの反応を楽しんでいる節がある。

「……親子揃って、ろくでもない奴らだな!」

 白龍杖を壬克秀へ投げ渡し、身を翻して壬烈華は去った。この李家からではない。江湖からもその名を消したのだ。


(了)

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