無悪餓鬼

第一節 魔境の噂

 その山には妖魔が住むと噂されていた。

 初めは猟師が奇怪な声を聞いた。そんなバカげたことをと嘲笑う輩が確かめに行き、やはり奇妙な声を聞いた。それは背筋が凍るような嗤い声だったという。

 何人かの物好きが面白がって度胸試しに使うようになった。すると今度はある時戻って来ない者が出た。遭難したか、事故に遭ったか、あるいは――。

 捜索隊が出た。しかし見つからない。それどころか、その捜索隊の一部もまた行方知れずとなった。それを探しに出て、また還らぬ者が出た。これはいよいよ怪しい。どうやら山のある一角だけ、踏み入れたが最後、誰も戻らぬようなのだ。

 人々は恐れ慄いた。やはり妖魔が住まうのだと信じて疑わぬ。いつしかその地は「魔境」と呼ばれるようになったのだ。

 げん林宗りんそうはそれを聞いて、特段どうこうしようとは考えていなかった。悪鬼妖魔の類を祓うのはなるほど道士の役目かも知れぬ。が、その妖魔が積極的に人に害を成すならまだしも、近づかなければ良いのなら無理に除くこともない。つまりは単純に、近づかなければ良いだけのことだ。その先へ行きたいのなら迂回すれば良いだけのことだ。わざわざ関わる必要もない。

 しかしながら、とう蘭香らんかはそうではなかった。こちらは嬉々としてその噂話に耳を傾け、身を縮めて怯えているようでありながらその目を好奇の色に輝かせる。ああもしかしてと思う間でもなく、蘭香は元林宗の腕を引っ張った。

「林哥哥にいさん、その妖魔とやらの正体、私たちで暴いてやりましょうよ!」

 蘭香が勇んで魔境の方角へと歩を進めるのへ、元林宗は何事か言おうとして口を開き、しかし何も言わないまままた閉ざす。一度ああなってしまった蘭香は何を言っても事をやめようとはしない。ではどうするべきかと言えば、気の済むまで付き合ってやるしかないだろう。

 さて、蘭香の長所にして短所は、周囲など一切顧みることなく突き進むところだ。引き返すことなど毛ほども考慮していない歩調でどんどん奥へと進む。そもそもが正確な「魔境」の位置も聞いていないのに、まるで行く先を知っているかのように迷いがない。しかしそれは道を知っているからではなく、自身が迷っているのだと認識していないが故のことだ。元林宗は短刀を片手に所々目印を刻み付けて後に続いていたが、途中からそれも諦めた。引き返そうと言ったところで蘭香は聞きもしないのだから、印を残すだけ無駄というものだ。

 二人は山中をさ迷った。途中、渓流を見つけては水遊びに興じ、雀や兎などの禽獣を見かけては餌を撒いて戯れ、珍しい草花を見かければ嬉々として眺め入った。そんなことをしているから、気が付けばとっぷりと日も暮れ、辺りには夜の闇が訪れていた。

「今日は綺麗に真二つの月ね」

 夜天を仰ぎながら蘭香が呟く。それで元林宗も頭上を見れば、確かに半分の月だ。が、細い三日月や真円の満月を美しいと賛美する者は多いが、半月を愛でる者はあまりいない。蘭香のそのあたりの感性の違いを元林宗は面白いと感じていた。

「あの月は、これから満月になるのかな。それとも、新月に向かって欠けていくのかな」

「それがわからないから良いのよ」

 元林宗の意図するところは「もしも新月に向かっているなら、しばらくはこんな無茶はやめてほしい。道が見えなくなってしまうから」なのであるが、蘭香にそんな裏の意図を察してもらおうなど牛に琴楽を解させるようなもの。それどころか蘭香は腹をさすって、

「ああ、なんだか月餅が食べたくなってきたわ」

 などと暢気なことを言う始末。しかも半月を見て満月を模した月餅を連想するとは、どれだけ食い気が旺盛なのだろう。元林宗は心中苦笑をかみ殺す。

 それにしても――ふと足を止めた蘭香が腰に手を当てむすっと肩を落とす。

「いつになったらその魔境とやらに着くのかしら? 何も襲って来ないし、奇怪な声なんて何も聞こえないじゃないの。あいつ、適当な嘘を言って私たちを騙したのじゃないわよね?」

 さりげなく「私たち」などと言って巻き込むのはやめてほしい、と思いつつ、元林宗は蘭香の肩に手を置いた。

「魔境はともかく、夜の山は危険だよ。どこか安全な場所を探して休むとしよう」

「……ん、そうね」

 蘭香としても夜通しで山中を徘徊するつもりはない。しかしこれから休む場所を探すとなるとそれも苦労しそうである。二人は揃って周囲を見渡し、そしてほぼ同時にあっと呟いた。

 谷の下に小さな明かりが見える。一緒に煙も出ているようで橙色の靄がかかって見えるが、しかし野火ではなさそうだ。

「誰かいるのかしら? ねえ、あそこに行ってみましょうよ」

 元林宗の返事は案の定待つことはなく。蘭香は早くも軽功で斜面を下り始めている。

(こんな山中に民家があるのか……? どうにも怪しいな)

 疑念を覚えながらも蘭香を一人で先には行かせられない。諸々考えるのはひとまず後にして、元林宗も谷下へと向かった。

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