第三節 太白の受胎

 翌朝、朝堂は大騒ぎとなった。それは太史監が何者かによって重症を負わされ昏睡状態に陥ったからではない。

 あの国老が、狄仁傑が、この世を去ったのだ。

「朝堂が、空になった!」

 悲痛な色とともに、史上唯一の女皇は嘆いた。あの才覚は国家のためになくてはならないものであった。その腹の中で周朝を廃し唐の復活を望んでいると知りながらも、辞去の申請を握り潰して側に置いた。それほどまでに、武則天は彼を信頼していた。国を夷狄から守り、民を豊かにするには国老無くしてあり得ないと知っていたから。

 それが失われた。この皇帝の許しもなく、勝手に天へ帰ってしまった。これからこの国はどうなるのだろう? 天は何故に、国老を奪ってしまったのか。

 玉座にて百官の議論するを聞く。しかし、もはやそれらは何の意味も持たぬ雑音にしかならなかった。彼らの議論は議論に非ず、ただ延々と終わりの見えぬ屁理屈を捏ねあっているだけだ。そこには道義もなければ合理性もない。どれだけ詮議を重ねたところで結論など出ることはないだろう。

 武則天は嘆息を堪えきれなかった。


 同日、蜀のとある邸宅にて。

 男は頬に触れたヒヤリとした感触で目を覚ました。ふと手を伸ばせば、そこにいるはずの身体がない。視線を向ければ、女は衣服を素肌に被せただけの姿で窓の前に立ち、開いた窓から未だ明けやらぬ東の空を見上げていた。頬に感じた冷気は窓から流れ込んだ夜風だ。

 何をしているのだ、と男は問うた。すると女は腕を延べ窓外を指す。

「李客様、ご覧ください。明けの明星が、ほら、あんなにも輝いて」

 男、李客も衣を羽織って女の隣に立つ。並んで外を見れば、確かに曇り一つない薄闇の中、金色に輝く惑星がそこに。

「ああ、実に美しい」

 そう言いながら女の赤髪を指でくしけずる。女は李客を見上げ、そしてその胸に頭を預けた。

「夢を、見たのです」

「どのような夢を?」

 李客の腕が女の身体を抱き締め、そのまま二人は寝台へ戻ってその縁に腰掛ける。

「どのように申し上げれば良いのか、わかりません」

「見たままを、ありのままに話せば良い」

 女は暫し考えるようにして、それから口を開く。

「夢に、輝く星を見ました。それは欠けることのない真円で、曇り一つない金色でした。それが、はるか空の彼方から迫って来るのです。私はそれをじっと見つめておりました。逃げようとか、恐ろしいとか、そんな感情を覚えて不思議ではないはずなのに、私は何もせぬままに立ち尽くしておりました」

「それで? その星はどうなった?」

「消えてしまいました」

 頭を振って女は答える。

「突然、ふと、気がつけば消え去っておりました。ただ、なぜだか分かりませんが……愛しさが残っていたのです。そこで、目が覚めました」

「それで外を見ていたのか。そして、あの明星を見つけたのか」

「仰る通りにございます。私、それが何かの暗示に思えて……」

 うむ、と頷く李客。そしてふと、女が無意識にか腹に手を添えていることに気づく。

「腹が痛むのか?」

「いえ、そんなことは……」

 答えてから、女はようやく自分が腹を押さえていることに気づいたようだ。ふむ、と頷く李客。

「これは、そのような予兆なのやも知れぬな」

 首を傾げる女を、李客はまた抱き寄せた。

「世に稀な聖者英傑の出生は、女人が星や竜を夢見てより始まると聞く。お前はきっと、明星の化身を身籠ったのだよ」

 はっとして女は李客の胸板を押し距離を取る。その顔は一瞬喜びの色を見せたが、すぐさま何かに気づいた様子で青褪める。

「そんな、そんな! 私が李客様のご子息を?」

 怯えたように身体をかき抱き、固く閉ざした瞼の間からは雫が溢れる。李客はそんな女の背中を優しく撫でてやる。彼は知っている。女が何に恐れおののいているのか。

「お前が気にすることではない。気にしたところで、どうしようもない」

「でも、でも! これでは私、紫陽しよう姐様に申し訳が立ちません! あの人は李客様のことを本当に、心から――」

 そこまで言い差した女の唇をそっと指で押さえ黙らせる。黙りはしたもののまだ何か言いたげな女に、李客はただただ頭を振った。

「あいつも自分で言っていたではないか。己が子を望めぬ体となったのは己の不始末によるもの。余人がその責を負う必要はないのだと」

「李客様は、それがあの方の心からの言葉だとお思いで?」

「まさか。そんなはずはあるまい。しかし我々が奴に気を遣って接したのでは、あいつはより一層心苦しく思うだろう。あいつは他人の幸福を願う、よくできた人間だからな」

 それは、そうですが。女は呟いたきり黙り込む。納得したわけではあるまい。現に未だ反論の余地を探すような表情をしている。李客はそんな女の頭に手を乗せ、

「――もしもお前が本当に懐妊して、そして無事に産んだなら。太白星を夢に見て授かったのだ。その子供の名ははく、字を太白たいはくとしよう。そしていずれ、紫陽の元へ送り弟子入りさせよう」

 女はその言葉の意味に気づくのに数秒を要した。思い至ってから、たちまちぱあっと表情を明るくさせる。

「弟子入りすれば、親子も同じ。李客様のご子息を紫陽姐様の弟子にすれば、それは血の繋がりにも等しい絆となりましょう。実に良いお考えです」

 女は喜びのあまりか、腰を上げて李客の首に抱き着いた。そのままの勢いで二人とも寝台に倒れ込む。乱れた着衣の合間に、するりと女の手が滑り込む。

「おい……」

 李客が言い咎めようとするのを、今度は女が接吻で封じた。そのまま息の根を奪ってしまうのではないかと思えるほどの時間の後、ようやく女が唇を離して背を反らす。ぺろり、舌なめずるように舌先が動いた。

「そうとなれば、ぼんやりしている暇はございません。李客様、もう一回……いいえ、あと三回はできますわね?」

 ビクッ、李客の頬が引き攣った。口元が笑みを浮かべるが明らかに作り笑いに失敗している。衣服を剥ぎ取りにかかろうとする女の手首をやんわりと掴んで押し留めた。

「あ、焦ることはない。俺もお前も、起きたばかりだ。まずは朝餉にしようじゃないか」

「いいえ、なりません。あの明星が東の空にある間に、明星の化身を、あなたの御子をこの身に宿さなければ。昨夜のあのような営みでは到底足りませぬ。――さあ、思う存分、私に李客様の子種を注ぎ込んでくださいませ!」

「お前はもう少し羞恥心を覚えよう! な?」

 李客の反駁など耳に入る様子もなく。女は李客の服を剥ぎ、自らの着衣も脱ぎ捨てて。まるで血に飢えた獣のような眼光で李客の首筋に喰らいついたのであった。

 結局、その閨房ねやの扉は三日三晩開かれることはなかったという。


(了)

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