第十二節 石ころの意地

 鮮血が散った。羅珠の頬は真っ赤に染まった。どろりと生暖かい液体が顔を濡らす。羅珠には何が起こったのか理解できなかった。

 羅珠がちんから転がり出ると、即座に風児が動いた。羅珠の体は亭の屋下を出た。すなわち嫦娥の庇護の及ばぬ位置。羅珠を飛び越えつつ懐から匕首を抜き放ち、その背中から心臓目がけて振り下ろす。が、風児はその手を寸でのところで引っ込め後方へと飛び退いた。月圓が帯の下から抜き放った腰帯ようたい軟剣なんけんの一撃を回避するためだ。月圓もまた亭から飛び出した勢いのまま羅珠を飛び越え、そのまま三歩風児を後退させる。

 鮮血が散ったのはその直後だった。その血は羅珠のものでなければ風児のものでもなく、また月圓でもなかった。

「私は言ったはずよ! この亭の屋根の下で武器を振るう者、誰であろうと私が許さないと!」

 噴水のように血を噴き上げたのは章逸だ。その首を一掻きにされ、どくどくと血を迸らせている。その手には抜身の剣があり、その足は未だ亭を出ていなかった。彼は羅珠を亭から押し出し、襲いかかって行った風児の背後を狙って剣を突き込もうとしたのだ。この状況において彼にとっての第一は刺客風児の抹殺であった。そのために羅珠を囮にしたのだ。だが気が急くあまり、踏み出しが足りなかった。亭の屋下で剣を抜いてしまった。そして宣言通り、嫦娥は屋下で武器を執った者を斬り捨てた。カランと剣が地面に落ちた。

「一体どういうことなの!?」

 状況を把握できていない月圓に風児が襲いかかる。匕首を振るって喉に斬りつける。月圓は軟剣を薙いでこれを弾いた。

「どうしてこの子に刃を向けるのっ!」

 月圓の軟剣が軌跡を描いて風児を遮る。あくまで相手を退ける守りの手だ。風児はそれを見抜き間合いのギリギリに立つ。剣先が鼻をかすめても一切動じない。少しでも剣の勢いが弱まれば即座に踏み込むつもりなのだ。

「それは鬼子母神の息子にして傀儡よ。命じられたことをただ遂行し、阻む者には容赦しない狂人よ!」

 嫦娥は愉快痛快とばかりに天を仰いで哄笑を発する。血濡れた剣を手に、己の仕掛けた罠にまんまと獲物がかかったことを心底喜んでいるようだ。

 鬼子母神の悪名は月圓も知っている。今目の前にいる少年がその右腕と知り動揺した。剣が鈍る。風児は即座に踏み込んだ。手にする武器は間合いの短い匕首であるものの、風児はそれをものともせずに連撃を繰り出す。たちまち月圓は劣勢に追い込まれた。風児の狙いが自分ではないことに月圓は気づいている。風児の狙いはあくまで羅珠だ。ここで軟剣を振るうのは自ら災いに手を出す行為でしかない。しかし月圓は退かなかった。

「李妹、もうあと何手も持たないでしょう? 諦めて手を引いてはいかが? なにもその子を庇ってあなたが死ぬ必要はないのよ?」

 羅珠はゾッとして息を呑んだ。嫦娥の言う通りだ。月圓は見るからに押され始め、長くは持つまい。そして羅珠と月圓との間には何の縁も無いのだ。どうして赤の他人のために命を賭けよう? いつ剣を投げ出しこの場を逃げ去るかわからない。

「あなたも今のうちに早くこっちへいらっしゃい。この屋根の下なら私が守ってあげるから!」

 嫦娥が囁く。そうだ。他人は利用するものだ。石牢を抜け出すためにその他大勢の奴隷たちを囮にした。章逸も羅珠を犠牲にして風児を討とうとした。今ここで見知らぬ胡人の娘をにえにすることに何の躊躇いがある? 自分が生きるためならばそうすべきだ。どれだけ他人を犠牲にし踏み台にしてでも、自分一人が生きられるならそれで良いではないか。どうして他人のことなど気にしていられる?

 羅珠はぐしょぐしょに濡れてしまった裾に足を取られながら立ち上がった。早く亭の中へ入らなければ。亭に入りさえすれば安心だ――。

 目の前に、死体が一つ。

 羅珠の体がぴくりと震えて硬直する。亭の中で剣を抜いた。それ故に彼は死んだのだ。自身を守ってくれると信じていた相手に――嫦娥によって殺された。

(誰を信じれば良いの? 私は誰に守ってもらえば良いの?)

 羅珠はいつだって守られていた。中天幇会が健在のころは両親によって守られていた。範琳に攫われてからはその範琳によって庇護されていた。石牢に移ってからは章逸が支えてくれた。では今は?

 風児を抑えきれない李月圓は頼るに値しない。しかしながら章逸を斬り捨てた嫦娥もまた羅珠にとっての絶対的な味方ではあり得ない。信じるに値しない。

 ――そうだ、誰も彼もが敵なのだ。この世で唯一信じて良いのは、己以外にあり得ない。

 羅珠は屈み、そして地面に転がっていた剣を拾い上げた。くるりと身を転じ剣刃を交える月圓と風児に向かい突進する。そして剣を振り下ろしたのは月圓の背中であった。まさかの背後からの強襲に月圓は咄嗟に軟剣を振るってこれを受け流し後退する。すると羅珠は次に風児へと剣を薙ぎ付けた。まさか羅珠が剣を手に襲いかかるとは風児も予想していなかったらしく、匕首を立てて受けつつこちらも後退した。

「もう誰も信じない! 誰にも頼るもんか! また希望を打ち砕かれるくらいなら、今ここで死んでやる!」

 羅珠は中天幇会の要を務める一舵主の娘であるが、武芸は基礎しか学んでいない。剣筋は素人そのもので隙だらけだ。当然ながら風児は初手こそ警戒したものの、即座に反撃を繰り出す。匕首の刃が羅珠の首筋を掻こうとした。が、それをヒュンと風を斬って飛んできた軟剣が遮る。

「危ない、下がって!」

 月圓が叫んだのは羅珠に対してだ。しかし羅珠はそれを聞いているのかいないのか、なおさらに剣を振り回して風児に迫り、時にはあろうことか月圓に対してもその刃を向けた。

「嫌だ、嫌だ! もう誰にも私の人生を任せるもんか! ――どいて! 私がそいつを殺す! 鬼子母神だって私がこの手でぶっ殺してやるんだ!」

 叫び続ける羅珠の言葉で、意味あるものはこれですべてだった。あとは何の意味もなさない悲鳴とも雄叫びともつかないものばかり。無茶苦茶に剣を振り回しながら風児にも月圓にも襲いかかる。ただ月圓が風児の攻撃を阻むので何とか命を繋いでいるのだ。

 笑声が山間にこだまする。玉を鳴らしたかのように美しいその声は、恐ろしいほどに残酷な響きを含んでいた。嫦娥が笑っている。それはそれは愉快そうに、喜びを全身で表さんばかりに天を仰いで。

「いいわ、いいわ! 私はそんな姿が見たかったのよ! 絶望に心打ち砕かれた人間のなんと可憐で儚いこと!」

 その頭蓋が突如弾けた。

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