第十三節 朝暘の射す頃に

 どくどくと鮮血で顔面を濡らしながら、ぎょろりと嫦娥の両目が李月圓を捉える。彼女が拾い上げ、そして投擲した石が嫦娥の頭を吹き飛ばしたのだ。

「――わかった。あなた、外道ね」

 月圓が再び羅珠と風児に向き直ったとき、嫦娥の体は脳漿を撒き散らしながらその場にどうと崩れ落ちたのである。

 軟剣を握り直し、月圓は防御の構えを取った。軟剣は剣に似てしかしその用法は鞭に近い部分がある。剣先を振り込む力を加減することで羅珠をも取り込んだ防御円を描く。これにより風児から自身と羅珠とを同時に守るのだ。羅珠も初めの数手こそ無差別に月圓にも斬りかかってきたが、彼女にも順序がある。まずは風児を倒そうと躍起になって攻め立てる。風児が隙に乗じて反撃しようとすればそれを月圓が遮るのだ。羅珠にとっては図らずも攻守分担の形が出来上がっていた。

 しかしそれでも風児を制するには足りない。ただ防御するには足りたとしても、倒すには攻めに決め手が欠けている。

 羅珠の剣技については早々に見抜いた月圓であったが、この状況でようやく風児の武芸について観察する余裕が生まれた。守りの手を繰り出しつつ風児の匕首を扱う技を見極める。そして一つの確証に至った。

(この動きはいずれの流派にも属していない、それどころか獣のように反射的。花法みかけだおしがなく洗練されているけれど、その反面術理もない。だとすれば、もしかすると)

 風児は超人的な反射神経によって敵の技を見切り、隙を見ては手を伸ばしているだけだ。誘いや仕掛けなど一切そこには存在しない。ゆえに神速。ゆえに純粋。

 付け入るならばそこしかない。

 羅珠の背面を位置取っていた月圓だったが、ここにきてさっと横へ飛び出した。風児は即座に逆側の守りが薄くなったと見て匕首を突き入れる。しかし月圓が羅珠の襟首を掴んで引き寄せたためその刃は空を突く。突如引っ張られた羅珠は喚きながら剣を横薙ぎに振るったが、月圓はさっとその手首を掴むと後方へと送り出す。入れ替わるように前へ出るが両腕とも背面に回っており正面を無防備に晒している。これを見逃す風児ではない。引き戻された匕首がまた矢のように突き出される。

 ぶつり。風児の胸に剣尖が突き立つ。無表情な風児の顔に、初めて驚愕の色が浮かんだように見えた。さしもの風児も、両脚の間をスカートを貫いて軟剣が飛び出すとは予見できなかったのだ。これは月圓がしなる軟剣を用い、そして裙を穿く女性であるからこそできたこと。海千山千の武芸者ならばあからさまな無防備を晒した時点で逆に警戒するところ、風児の純粋無垢な性根が仇となったのだ。

 もちろんこれは月圓にとっても賭けであった。剣を背後から振り込んで敵に届かせるには、相手により深く踏み込んでもらわなければならない。相手が懐に潜り込むからこそこの奇策は効力を発揮するのだが、それはこちらの身も危険に晒すことを意味する。風児の武器は匕首であったから間合いの点からいえば有利だが、それでもあの神速だ。躱しきれるとも限らない。

 そして実際のところ、月圓は風児の攻撃を回避できなかった。その匕首は帯を巻いた胴に突き刺さっている。だが出血はない。それどころか、風児の体がぐらついて匕首が捩じれると、パキンと刃が折れてしまった。匕首の刃は腰帯剣の鞘に突き刺さっていたのだ。

 風児は匕首の柄を投げ捨て大きく飛び退いた。胸を抑えた指の合間からだらだらと血が流れ出した。剣の刺さりは浅かったが胸は急所だ。

「殺してやる! 殺してやる!」

 羅珠がまた前へ走り出て遮二無二剣を叩きつけようとするのへ、風児はさっと身を翻して駆け出した。深手を負い武器も失った。戦況不利と見て撤退を選んだのだ。引き際を悟るのはなかなか難しいことであるが、彼はそれをしっかりとわきまえていた。

(同じ手が二度も通用するとは思えない。傷を負わせて武器も破壊できたのは僥倖と言うより他にないわ)

 羅珠はまだ風児を追いかけようとしたが、風児の足が圧倒的に早いのと、剣を振り回し過ぎてへとへとになっていたのとで数歩も行かずに転倒してしまった。戦いの最中は忘れていた疲れと痛みが一挙に押し寄せ、起き上がることもままならないようだ。

「殺してやる……殺してやる。お父様とお母様の仇は、この私が討つんだ……ッ! 私がやるんだ。みんなみんな、殺してやるんだ!」

 泥を握り締め呪詛のような言葉を繰り返す。手を伸ばして掴もうとする剣を、しかし月圓の足が蹴り飛ばす。何をするのかと睨め上げる視線を受け止め、月圓はその手を取って羅珠の体を引き起こした。

「もう大丈夫よ。もう誰もあなたを苦しめたりしない。あなたは一人じゃないのよ。一人で苦しまなくて良いの」

 そう耳元に囁いて抱き締める。強張っていた羅珠の体から、ふっと力が抜けた。

 この世の誰も一人では生きていけない。独立独歩のように見える英雄でさえも、誰かに守られ誰かに縋りながら生きている。さもなければこの広い世界の中、どうして生きられよう。誰にも求められず誰に捧げるわけでもなく、己一人のためだけに生きられる人間などいようはずもない。誰もが支え合い、寄りかかり合って生きている。それは決して、忌避すべきことでも恥ずべきことでもない。

 羅珠は泣いた。その涙が枯れ果てたとき、長い夜は明けていた。


(了)

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