第五節 勝負の意味
地面を踏み抜きながら李客が降り立つ。あの高さから飛び降りて苦も無く着地するとは、内功の深さがうかがえる。
「ここまでにしておくとしよう。これ以上は少侠の命を取りかねん」
おそらくは本当に、ただこちらの身を案じているだけなのだろう。しかし元林宗の耳には、お前は取るに足らぬ相手だと宣言されたようにも思えた。どれほど足掻こうがお前は足元にも及ばぬのだと。そしてそれは事実であった。
紅袍賢人、李客の実力は己のはるか上を行っている。元林宗はその事実を痛感していた。一連の攻防で一度でも優位に立てただろうか。答えは否だ。終始あちらに主導権を握られ、ただの一手も先んじることができなかった。これでは到底勝ち目があるとは思えない。
元林宗は立ち上がろうにも腕に力が入らない。全身が痛む。壊れた椅子の破片で全身いたるところを引き裂いてしまい、何か所も血が滲んでいる。額も切ってしまったようで血が一筋流れて視界を赤くする。だが肉体の痛みなど大したことではないのだ。立ち上がることができないのは、このままでは引き下がれないからだ。ここで負けを認めてしまっては、自分は一体何のためにここまでやって来たのだ? 師父の元を離れ、長い旅路を歩み、その結果がこれなのか――。
(……何をバカなことを考えているのだ、私は。そうではないだろうに!)
ダンッ! 地面を突き、一挙動で元林宗は立ち上がる。李客の眉間にしわが寄る。目元に垂れた血を拭った元林宗の表情、その双眸に未だ闘志が宿っているのを見て取ったからだ。
「まだ続ける気か? 言っただろう。これ以上続けると命の保証はできんぞ」
「構いません」
即答する元林宗。ほう、と言葉を漏らす李客。
「老いぼれに敗北したことがそんなに悔しいのか? 焦らずとも再戦ならばいつでも受け付けてやるものを」
「そうではありません。この勝負、私に勝ち目がないことぐらい悟っております」
「ではなぜ続ける?」
「信じていただくためです」
元林宗はそこで一度目を伏せた。
「……私は師父に誓ったのです。必ずや師伯を見つけ出し、飛鼠の野望を打ち砕くと。必ず師伯を奴の毒手からお守りすると。しかし、師伯が私の言葉を信じてくださらないのであれば、私は師父に申し訳が立ちません。師伯にはなんとしてでも、私が胡紫陽の弟子であると認めていただかなくては。もとより
即座に右足を引いて腰を落とし、左肘を前に突き出し右掌は顔の正面を守る構えを取る元林宗。
「信じていただけるまで、挑ませていただきます!」
「
先手を打とうと一歩踏み込む李客へ、元林宗は鋭い左足刀で斬り込む。李客は急停止しつつこれを交差させた両腕で払い上げた。
ふっ、と李客が息を漏らす。
「ようやく本気で来おったか。妙な手心が消えて技に鋭さが増したな」
「不肖の弟子が十全の力で向かったとて、師伯には及びますまい」
李客は元林宗にとっての師伯、そして飛鼠の毒牙から守らねばならぬ相手である。それがために己が怪我を負わせてしまわぬようにと全力を出せていなかった。しかしながら今、元林宗は自身の武功が李客に到底及ばぬことを知った。ならば、こちらが遠慮をする必要もない。
この場において最も重要なのは、師父から学んだ武芸を余すところなく見せつけることにあるのだから。
元林宗の右足が地面を蹴る。李客の掲げた腕を足掛かりにその直上へ駆け上がる。李客がさっと腕を払うと同時に二連撃。李客がこれを掌法で受けると、その反動でまた跳躍と連撃を繰り返す。羽の生えた仙人であるならばいざ知らず、軽功の達人でさえも空中に留まり続けることはできない。しかし元林宗は小さな跳躍を繰り返すことで常に李客の頭上を占めているのだ。それそのものは武技と言うよりも曲芸に近いが、容易に真似できぬ絶技であることに違いはない。
「なるほどこれは――「
元林宗はその言葉を聞くや、さっと大きく跳んで距離を取る。
「いかにも今のは「神仙脚」にございます。では、こちらの技もご存知でしょう」
一歩踏み出す元林宗。李客の右斜め前の位置。李客は即座にそちらへ体を向けるが、元林宗の姿はすでにそこにない。一体どこへ消えたのか? 李客は慌てる様子もなく、振り返りもせずに背面へ向けて掌を打ち出した。バシッ、と音を発して元林宗の蹴りを打ち返す。
「知っておるとも。「
「ではこれは!」
元林宗の体が高速回転を始める。竜巻のような渦を巻きながら、李客を取り巻くように大きく円を描いた。完全に李客を渦中に取り込んでから、上中下段に攻撃が飛び出す。逃げ場はない。
「知らぬはずがなかろう。これこそ紫衫天人の絶招「
元林宗の攻撃を弾き飛ばす李客。「北極紫微」は敵を中心に取り込み全方位からの攻め手を繰り出す絶招ではあるが、その反面で一撃の威力が分散されているところに弱点がある。李客はおそらくそれを知っていたのだろう。一点突破の力を加えられ、元林宗の体は数歩後退する。そこへ間髪入れずに李客が間合いを詰めにかかる。
「少侠は確かに胡小妹の技を学んでおるようだ。しかし一つだけ、腑に落ちぬことがある」
李客の左膝がぐいと元林宗の股下に押し込まれる。元林宗はさっと一歩引いて間合いを取ろうとする。が、ここで李客は不意に両足を上げて跳躍すると、その足裏で元林宗の膝に降りる。はっとした瞬間、その足は元林宗の両脚を滑り降りて足の甲を踏みつけていた。
「――少侠はなぜ、足技しか用いぬのか」
李客の掌がうなりを発する。咄嗟に顔面を守った元林宗、その腕にドスンと重い一撃が圧し掛かる。後退したくとも足を踏まれ動けない。上体がぐらりと傾いだ。
「くっ……!」
咄嗟に拳を突き出し反撃を試みる元林宗。だがそんなものが李客に通用するはずもない。この超接近距離でありながら、李客の掌はするりと元林宗の拳を受け流す。そのまま肘を胸の真中に打ち込む。ぐっと折れた元林宗の体へ、容赦なく左右からの打撃を与えた。
「どうした? これは紫衫天人の「
元林宗の両眼が大きく見開かれた。無理もない。本当に元林宗はこの掌法を知らなかったのである。なぜ師父はこの技を伝授しなかったのか? それともこれが師父の技であるなど李客の大嘘で、こちらを試しているのでは?
いずれにせよ、この技を防ぐ手立ては元林宗にない。木偶人形のごとく滅多打ちにされるがままだ。反撃しようにも李客をかすりもせず、防御しようにも易く破られてしまう。顎を打ち上げられ、そのまま腕を曲げて胸に肘が入る。それと同時に李客が踏みつけていた足を退かす。元林宗の体は後方に吹き飛び、屏前の椅子に叩きつけられるようにして収まった。
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