第三節 低俗な辱め
少女は自らを
壁に背を預けるように座らされ、乱れた着衣も整えてもらった蘭香だが、先ほどの乱暴狼藉に対する怒りがそれで消えるはずもなく。名前を名乗った後は一切の素性を口にしようとしなかった。
まあ、当然の反応だろうと辛悟も同情する。何せ貞操の危機に瀕したのだ。おそらく彼女本人は幼さ故にその具体的な内容を理解していないようだが、いずれにせよ身の危険を感じたのは間違いない。完全にこちらが悪人である。もはや悪党呼ばわりされても致し方なかった。
「おんどりゃ何を
「紅顔? 厚顔の間違いでしょ」
「きぇーっ! 言いおるわこの小娘が!」
李白は顔面の筋肉を余すところなく使って般若面のような表情を作る。今は燭台に火も灯っているためはっきりとそれが見えた。蘭香が暴れたとき、その懐に入っていた火打ち石と稲藁がこぼれ落ちたのである。おかげで今はわざわざ近づかずとも互いの顔を見ることが出来た。
「おい、李白。恨み言を言いたいのはわかるが落ち着けよ。あんまり度が過ぎるとまた点穴するからな」
「阿呆、これが落ち着いておれるか! それにじゃな、小娘とは言えこんな山奥にこんな夜中にこんな場所におるなど、不審極まりないわい。きっと何やら企みがあるのじゃ。それをわしらは暴き、打ち砕かねばならぬ! さあクソガキよ、貴様の腹の中を洗いざらいぶちまけよ!」
「嫌よ。死ね」
蘭香の容赦ない言葉に李白は額に青筋を浮かべる。ほほぅ、と先ほどまでの様子とは一転して冷たい視線を注ぐ。
「小娘が、貴様はよっぽどその顔に未練がないと見えるな?」
ずいと顔を寄せる李白。蘭香の顎をがっしりと掴み無理矢理前を向かせる。
「な、何をする気よ!?」
「なぁに、苦しいのは一時じゃ。精々心地よく泣き喚くが良い……」
そうして懐から何やら取り出してみせる。その手にある物を見て、蘭香はさっと顔を青褪めさせた。
「い、嫌……やめて。やめてよぅ……」
「ぐひょうひょほほほ。泣け泣け、雨音をかき消すほどにな」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「……何やってんだお前ら」
辛悟は一人呆れ果てて呟いた。しかし李白はそんな言葉など聞いているはずもなく、わめき散らす蘭香の顔面にげらげら笑いながら筆を走らせる。見る見るうちに少女の白い肌が墨汁で黒く侵されて行った。
(バカだ、こいつら二人とも)
外ではさらに強くなった雨足が容赦なく廃廟の屋根を叩いている。闇で見えないが、数カ所漏っているらしい音も聞こえる。遙か遠くからは落雷の音も聞こえてきた。嵐が来るようだ。
騒ぎ立てる二人を余所に、辛悟はすぐ横に置いていた黒鞘の柳葉刀を手に取った。燭台の火に翳して造りを見る。鞘は黒く、それ以外の金属部品は全て銀で出来ているようだ。すらりと引き抜いてみると、これも真っ黒な刀身が現れた。
辛悟は何となく、本当に何の意図もなく、余った稲藁を一つ手に取りその刀身に当ててみた。――はらり、と落ちた。
(――え?)
もう一度別の藁で。これもやはり、はらり、と落ちた。
(いやいや、そんな莫迦な。一閃して振り抜いた訳でもないのにこんなにあっさりと物が切れるものか!)
今度は火打ち石を引き寄せた。狙いを定め、軽く振り下ろす。カキンッ。真っ二つになった。
(やっぱりだ! これはとんでもない利刀だぞ。一体どんな素材で出来ているんだ? いやそれより、こんな物をどうしてこの娘が持っている?)
「おい、何をしておるんじゃ?」
切断音に気づいたらしい李白が訝るように首を傾げる。辛悟は咄嗟に燭台を動かして真っ二つになった火打ち石を闇に隠した。なぜかそれを気づかれてはいけないという気になったからである。
「いや、何でもない。……気は済んだのか?」
「おう、見てみよ。素晴らしい出来じゃろうが」
言って披露する蘭香の顔面は、無意味な文様や口に出すのも憚られるような卑猥な言葉がこれでもかと書き殴られていた。蘭香は目元に涙を浮かべていたが、零すまいと必死に堪えているようだった。喚き散らしたものの泣きはせず、これだけの恥辱を受けてまだ心は折れていないようだ。
はぁ。辛悟は立ち上がり、懐から手拭いを取り出して廃廟の入り口へと向かう。隙間からそっと手を差し出して手拭いを濡らすと、少し絞ってから蘭香の前に膝を突く。李白は「いやぁ、満足満足」と言いながら反対側の壁にもたれ掛かった。
「……すまないな、あいつに代わって謝罪する。許してくれるとは思っていないが」
「――」
黙り込む蘭香の汚れた顔を、辛悟はそっと手拭いで拭いてやった。まだ乾ききっていない墨はそれで簡単に落ちた。辛悟はガラス細工を磨くように、優しく丁寧に他の部分も拭き取ってやった。
「……こんな事したって、あたしはあんた達を許したりしないからね」
蘭香が視線を合わせないまま苦々しげに告げる。
「期待していないと言った」
「そうね。……耳の後ろ、そこにも何か書かれたわ。拭いてよ」
言われるまま辛悟は耳の後ろを拭いてやる。そうしてまた、玉のような瓜実顔が戻った。拭われたために髪や睫毛が濡れ、一部毛先が寄って束になっている。それを見た辛悟は何だか気恥ずかしさを感じて顔を背ける。そんな彼に蘭香は、ねぇ、と声を小さくかけた。
「解いてよ、点穴。本当にすまないと思っているならまずそうすべきじゃないかしら? 自由にしてくれたら、あんたの事だけは許してあげても良いわ」
確かにそれが謝意を表すのに最も有効だろう。だがそれには些か問題があった。
「では仮に点穴を解いたとして、それからどうする?」
「当然よ。あの吐き気を催すド変態を
これである。悪いのは李白なのだから李白を点穴して転がし、蘭香を自由にしてやるのが当然だろうし辛悟もそうしたいところである。だが李白は何をどうやっているのかはわからないがすぐに自力で解穴してしまうし、蘭香がこの様子では彼女を抑えるためにこうするしかない。むしろ意外にも李白の方が簡単に恨みを水に流してくれたのだ。……やり方はアレだったが。
「その点穴は放っておいても明日の朝には勝手に解ける。俺たちはそれよりも少し早くここを去ることにするさ。本当は今すぐにでも出て行った方が良いのだろうが、生憎のこの雨だからな。せめて夜が明けるまではそのままでいてくれ。それまでは一切、君には触れないし、あいつにも指一本触れさせないと誓おう」
「……信用ならないわ」
「信じてもらうしかない」
それだけ言って辛悟は燭台を手に取り、それを祭壇の中央、女神像の正面に置いた。そこが左右の壁際を照らすのに良いからだ。そのまま辛悟は床に寝転んだ李白へと歩み寄る。隣に腰を降ろすと、ぐうぐうと寝息が聞こえた。
「何だ、もう寝たのか」
「うおわぁぁぁぁぁぁぁ」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
突如起き上がって胸ぐらを掴んできた李白を、辛悟は渾身の力を込めて殴りつけた。今宵二度目の鼻が曲がる音。
「脅かすんじゃねぇ! 殺す気か、いや殺させる気かこの莫迦!」
拳骨から返り血を滴らせながら言う辛悟に、李白はぼたぼたと流血する顔面を押さえて反論する。
「ほけほんが、おまへにははひもひほへんほか」
「人間の言葉を話しやがれ」
「莫迦者が、お前には何も聞こえんのか。と言うたのじゃ!」
言えるなら最初から言えば良いじゃねーか。心中で吐き捨てる辛悟だが、言われて彼も確かにそれを聞いた。豪雨の中、誰かの声が聞こえる。雨音と雷鳴をかき消すように大声で話している。
「おおい、兄貴。待ってくれ」
「お前が遅いのが悪いんだ。さっさと走れ」
野太い二人の男の声だ。豪雨の音に負けぬ声は内力に満ちており、彼らが武芸者であることは明白であった。次第にこちらへ近づいてくるようだ。
「さてはこの娘、仲間がいたか!」
李白はばっと蘭香の前に飛び出し指先をその額に押しつけた。一瞬きょとんとした蘭香は、
「え、何の話――ハハハ、そうよ。オマエ達なんてこれで一網打尽ヨー」
凄まじい棒読みである。今そのノリは要らねーから、と辛悟は小さく毒吐いたが、現に誰かがこちらへ向かってきているのは確かだ。
「こんな嵐のこんな夜中に、こんな場所を訪れるなど真っ当な輩であるはずがない」
李白の言う通りである。こればかりは辛悟も同意せざるを得ない。そして、すぐ近くで男達の声が聞こえた。
「おい、あそこに何かあるぞ。廟のようだ、あそこで休むとしよう」
この廃廟の存在に気づかれた! 辛悟と李白は同時に顔を見合わせる。このまま彼らの到着を待つか? 否、それは二人の直感に反することであった。
「――祭壇の後ろに隠れろ」
おう、と言って李白は素早く祭壇の後ろ、壁とのわずかな隙間に身を踊らせた。辛悟は柳葉刀を拾い上げ、もう一方の腕で蘭香の身体を抱え上げる。ひょいと祭壇に飛び乗って女神像の後ろに身を隠しざま、袖を打ち振るって燭台の火を消した。廟内は再び闇に包まれる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます