第四節 悪党退治
程なく、勢いよく戸が押し開かれた。ばしゃばしゃと雨水を滴らせながら、二人分の足音が廟内へと踏み入る。姿は見えないが、祭壇前までやって来たのが音でわかる。
「兄者、どうかしたか?」
「いや、何でもない。……さっきは明かりが漏れていたように見えたのだが、気のせいだったか」
「きっと雷の閃光だろうさ」
そうだな、と兄者と呼ばれた声が答える。次いでぐしゃりと湿った音。二人が床に腰を降ろしたのだろうと思われた。
女神像の裏は割れて空洞になっていた。なるほど蘭香は最初ここに隠れていたのだ。そこに今度は二人で身を潜めながら、辛悟はじっとその様子に耳を傾けていた。どうやらこちらの存在に気づかれた様子はない。
「それにしても酷い雨だ。夕方までは何ともなかったのに」
「山の天気は変わりやすいと聞くからな」
「全くあの憲兵どもめ。無駄な時に居合わせやがる。あいつ等が後少しだけ遅れてくれたなら、こんな山の中へ逃げ込まずに済んだものを」
「運が悪かったのだ。気にするな。捕まらなかっただけ幸運だ」
それもそうだな、と同意する。
――辛悟はいよいよ冷や汗が出始めた。咄嗟に身を隠したのは正解だったようだ。何をやったのかは知らないが、この二人の男達は憲兵に追われるような何らかの悪事を働いてきたところらしい。見つからないようにしなければと、腕の中で身じろぐ蘭香をさらに強く抱き押さえる。声を出さないよう口元は手で覆っていた。
「しかし暗くて仕方ないな。何か明かりは無いのかな」
「さっき稲光に照らされて、そこの祭壇に燭台が見えた気がするぞ。探して見ろ」
「そうか。よっ……と。ん? こりゃ何だ?」
男の一人が何かを見つけたようだ。何を、と辛悟は思い浮かべ、はっとそれに気づいた。
「これは、石か? 何だか妙に切り口が滑らかだが……」
「おい、そんなことより明かりはどうした」
「今探すよ。えっと、この辺かな……?」
すぐ近くでごそごそと音がする。辛悟は気が気ではない。神像を挟んだすぐ向かい側に男達はいるのだ。どくどくと激しい心音が二重になって耳に響く。自分だけではない、蘭香もまた緊迫しているのだ。
「おい、何をグダグダやってるんだ? そこにあっただろうが」
待ちかねた兄者までもが立ち上がって来た。すぐに、ほらあったぞと燭台を手に取る音が聞こえた。聞こえて――瞬間、大きく飛び退いた。
「そこを離れろ!」
緊張した声。辛悟は理解した。あの男、燭台がまだ温かいことに気づいたのだ。それでこの場に自分たち以外の誰かがいるのだと悟ったのだ。
直後、凄まじい閃光が瞬いた。同時に轟音。稲妻がすぐ近くに落ちたのだ。そしてその光に照らされて、辛悟達が隠れる祭壇奥の壁に、仁王立ちになった人影が大きく投影された。
「わしこそは天に代わって正義を行う、生まれながらの大仙人。その名も李白様じゃ! ――どうじゃ、わしのこの華麗な名乗りは」
(何やってんだあいつ――!?)
あろう事か堂々と飛び出していくとは。いや、確かに隠れていることが知れた以上、そのまま身を縮めている理由は無い。無い、のだが。
「ぶっ殺せ!」
「うひょわぁぁぁぁっ!?」
剣光が閃き祭壇から転げ落ちる李白。男達は二人揃って剣を携えていたようだ。鞘走る音が二回。李白はぎゃあぎゃあ喚きながらその凶刃を避けているようだ。
(……まさかあいつ、囮になったのか?)
「うぎゃほぇふおわぁぁぁぁぁぁぁぁ! こら、二対一なんて無茶に決まっておるわ! 黙って神像の裏に隠れておらんで、早ぅ出てきてわしに加勢せんかいスットコどっこいしょが!」
違うのかよ! 辛悟の中で李白に対する殺意がさらに上昇する。上昇しすぎてもはや諦めの境地に入った。こうなっては致し方ない、やるしかないのだ。既に一方の足音が再びこちらの祭壇へ向けて駆け寄ってきている!
素早く蘭香の点穴を解き、その手に柳葉刀を渡す辛悟。
「ここを動くな。だがもしもの時は、自分の身は自分で守れ」
それだけ言って、神像の影から飛び出した。雷光が煌めき廟内を照らす。すぐ目の前には切れ長の目をした中肉中背の髭面の男が。その先、廟の扉付近では右の頬に切り傷のある長身の男と李白とが追いかけっこを繰り広げている。
「クソガキめ、死ね!」
髭面男の剣が襲いかかる。辛悟はこれを跳躍して回避。着地ざま祭壇へ震脚を放つ。バンと内力が走って飛び上がった燭台を手に取った。切り返しの一閃をこれで受け止める。キンッ、火花が散った。そのままずいと距離を詰める。
「やるなっ!」
髭面は剣を奪い取られるより一瞬早く後方へ飛び退いた。暗闇の中、剣に伝わる感触だけでそれを感じ取ったのだ。視界に頼ることができないこの闇の中では接触して初めて攻防が始まる。であれば当然、剣を手にした方が断然有利である。
辛悟は聴覚に全神経を集中させて相手の動きを探る。
「こんにゃろわしを殺す気か!」
「そうだ、さっさと死ね! 俺たちを見たからには生かしてはおけぬ!」
「こんな真っ暗闇で顔なんて見えるかこの極悪面!」
おめーらうるせぇよ! 辛悟は思わず叫んでやりたい衝動に駆られる。どたばたじたばた、李白はわざととしか思えない騒々しさだ。自分はここにいると宣言しているようなものなのに、どうしてまだ生きていられるのか不思議でならない。
(とにかく、だ。あの髭面、俺に悟られないよう息を殺しながら動いているな? 抜き足差し足、死角を取ろうと移動しているに違いない。だが、もうすぐ次の雷が落ちるぞ。その瞬間が反撃の時だ!)
闇を貫く閃光。そして辛悟は自らの予想が大きく外れたことを知った。髭面はその場から一切動いていなかった。剣を大上段に振り上げ、狙うべき相手が露わになる瞬間を待っていたのだ。
「しゃあぁっー!」
「――っ!」
閃光の後に訪れる闇の中、男の気合い声だけが聞こえる。どう応じる? 大上段の斬撃を燭台ごときで受けられるとは思えない。かといって飛び退けば足音で逃げた先を悟られる。こちらが相手の動きを知る術が無い以上、横薙ぎの攻撃など受ければ対処のしようがない。
しかし、男はその瞬間別の物に気を取られた。再び闇が舞い戻る瞬間、その視線が祭壇へと向く。
「悪党ども、覚悟しなさい!」
じゃら、と蘭香の髪飾りが揺れる。彼女までもが神像の裏から姿を現し、柳葉刀を手に祭壇から飛び降りたのだ。
(まずい――!)
髭面は剣を振り上げている。そこへ飛び込んで行こうものならば一刀両断に斬り伏せられかねない。実際、蘭香が武芸に対して全くの素人であることはとうに見抜いている辛悟である。二人を接触させるわけには行かない。咄嗟に燭台を男がいた位置へ向けて投げつける。さらにそれを追うように飛び出した。
ガキン。燭台は叩き落とされた。それはつまり剣を振り下ろしたという事だ。辛悟はさっと身を屈めると、滑り込むようにして男の足元へ迫る。足払いを放つと何かに当たった。
足を払われた髭面男はどうと床に倒れ込む。カランと剣が転がる。そこへ蘭香が着地した。ダンッ、どうやら床に対して垂直な突きを放っていたらしい。
稲妻が光る。剣先は辛悟の腰下、
「うおぉぉぉぉぉぉっ!?」
「ちょっと、何で飛び込んでくるのよ!」
柳葉刀を引き抜きながら蘭香がなじる。全く以て藪蛇であった。そして災難は連続するものである。
「ふはははは、ここまで来てみやがぅわっ!?」
「うごっ……!」
「きゃっ!」
腹を踏まれた。犯人は分かりきっている、李白だ。あろう事か長身男の攻撃から逃げ回り辛悟の腹を思い切り踏みつけ、その先にいた蘭香に衝突したのである。内臓が口から飛び出そうになり悶える辛悟。しかしそんな余裕はない。
「ガキどもめ、まとめて死ね!」
李白を追っていた長身男の突きが襲いかかる。辛悟、李白、そして蘭香はほぼ折り重なった状態である。まさしく一網打尽、動きようがない。もはやこれまでか!?
「そりゃっ」
「むっ!?」
闇の中、李白が何かを長身男に向けて投げた。次いで何かがぼたぼたと床に滴るような音。投げたのは何か液体だろうか。
「おう、貴様ら。「血砂腐毒」という毒薬を知っておるか? 神経と血脈を侵し肉体を内側から腐らせる恐ろしい毒じゃ。一度喰らうと治すのは難儀じゃぞ」
「何……ではまさか、これは」
「どこに入った? わしは貴様の目を狙ってやったぞ!」
「兄者、それはマズいぞ。それが本当なら早く洗い流さなければ!」
長身男は一瞬悩んだようだが、すぐにうむと頷いた。
「まさかガキにしてやられるとはな。だがこうなっては長居は無用。引き上げるぞ」
バン、と廟の戸が開け放たれ、二つの人影が飛び出して行くのが一瞬見えた。李白がさっと駆け寄り、辛悟もそれに並んで木々の間に消える男達の背中を見た。一発逆転、危機は去ったのである。
「ぬははははは! どうよ、わしにかかればこんなもんじゃ!」
両手を腰に当てて呵々大笑する李白。それに対し、辛悟は訝る視線を向ける。
「……それで、だ。お前が投げたのは本当は何だ? まさか本当に「血砂腐毒」なんて持っていたのか?」
「わしはそれを知っておるかと聞いただけじゃ。投げたのは墨汁じゃよ」
「だろうな。貴様のことだから」
辛悟は口ではそう言ったが、内心ではほんの少し感心している。あれだけ騒いでおきながら傷一つ負っていないし、咄嗟に毒を偽るとは大したものである。
「ちょっとあんた達、何をぼけっとしてるのよ!」
そこへ蘭香の声が割って入る。つかつかと二人の方へと歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げかねない勢いで迫る。
「悪党が逃げたのよ。なんでそれを追わないのよ?」
「……はぁ~?」
李白の気の抜けた返答に合わせ、李白と辛悟は顔を見合わせた。
「だって雨が降っておるし」
「俺たち憲兵じゃないし」
「雷も鳴っておるし」
「腹減ったし」
「疲れたし」
「眠いし」
「正直、面倒臭い」
「――あぁっ、もう!」
髪の毛をわしゃわしゃと掻き毟り、憤る蘭香。次いで全く以て信じられないと言わんばかりの見下した視線を向ける。生憎暗闇で二人には見えないが。
「いいわよ、この人間のクズ! ゴミ! ウジ虫! 鳥のフン! 一瞬でも信用しかけたのが間違いだわ!」
いかにも子供らしい悪口雑言を浴びせかけ、そのまま豪雨の中、男達を追うようにして飛び出して行った。――まさか、まだ奴らを追うのか? 辛悟はふと心配になったが、すぐにそれは杞憂なのだと思い直した。蘭香では彼らに追いつくことは出来まい。嵐もじきに収まるだろうから、わざわざ気にすることはないのだ。
「……返すがえすも、騒がしい一日だったな」
呆れたように、しかし楽しげな笑みを浮かべながら、辛悟は廟の戸を閉めた。
――全て、闇の中だ。
(了)
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