第二節 それぞれが生きる世界

 娘が立ち去りその後姿を見送ると、蘭香はふぅんと鼻を鳴らした。

「あれはあんたのい人……って感じじゃないわね。使用人みたいなものかしら?」

「まあ、そんなところだね」

 そう答えながら王恭は握っていた手を名残惜しそうに放す。それでようやく蘭香も顔を正面に向けた。ぱっちりと大きな碧眼に王恭自身の姿が映り込む。

「使用人を侍らせるなんて、随分な身分になったのね。会うのは何年振りかしら?」

「八年ぐらい、かな? でもそんなに長くは感じないな。君の噂をよく聞くから」

「へぇ、どんな?」

金砂幇きんさほうを潰しただろう? それこそ君がいなくなってすぐのことだ。賭場を仕切って荒金稼ぎをしていた連中だが、若い女侠客が蹴散らしてしまったと聞くよ」

 しかし蘭香は目をぱちくりさせ、こくりと首を傾げた。

「金砂幇? そんなの知らないわ」

 蘭香は嘘が吐けるような人間ではない。王恭はそれを知っている。本当に身に覚えがない蘭香の様子に、王恭は苦笑を漏らすしかなかった。

 実際のところ、蘭香は確かに金砂幇を壊滅させている。飯店で大乱闘を演じ、鉄槍使いを倒した、あの時の相手が金砂幇だ。しかし蘭香は彼らの名前を知らなかったし、あの程度の有象無象など記憶するにも値しない。そんなわけで、蘭香の中では金砂幇など会ったこともなく、ましてや関わり合いになったはずもないのであった。

「その女侠客は自らを「無双むそう美少女びしょうじょ天上てんじょう仙女せんにょ」と称していたそうだけど、それでも知らないかい?」

「なによその変な名前は! きっと別人よ。私はいつも……えっと「超絶ちょうぜつ美貌びぼう稀少きしょう美女侠びじょきょう」と名乗っているもの」

「そうか。それならきっと人違いなのだろう」

 王恭はそれ以上を追求しなかった。その女侠客の自称する二つ名が毎回変わることも、しかしながらその衣装が常に極彩奇抜であることも彼は知っている。口ではそう言いつつも、それが蘭香であることは確信していた。

「当然よ。賭場の元締めなんてやっつけたところで何にも面白くないわ。私はもっともっと極悪非道の悪人どもをやっつけて、この名を万人が知るものにしてやるのよ!」

 むっふーん。鼻の穴を広げて胸を張る。せり出した双丘がカツンと茶器を揺らした。性格は相変わらずだが、確かに彼女も成長したのだ。やれやれと頭を振りながら王恭はカタカタと揺れる茶碗を押さえた。

「近頃この辺りは物騒な事件が多いと聞くからね。君はとても強いから心配無用だろうけれど、市井の人々は不安に怯えているよ」

「そうらしいわね。ねえ、知ってる? 最近聞いたんだけど、蒼渓そうけいってところのって人の家に盗人が入ったらしいの。その魏家ってのが先祖代々の武術家の家柄で、宝剣を受け継いでいた。それがある日盗まれてしまったのよ」

「金環剣だろう? 有名な宝剣だ」

「そうそれ! その盗みの手口ってのが酷いのよ。夜中にボヤ騒ぎがあって、魏家の人たちはみんな大慌てで外に飛び出したの。不始末なんかじゃないわ。何ヶ所から同時に火が出たの。絶対に放火よ。幸い火はすぐに鎮火したんだけど、翌朝になってまた大騒ぎ! 宝剣が盗まれていたのよ。わざわざ放火して、それを消して油断したところを狙ったの。やり口がセコいわ」

 蘭香は盗難自体を否定しない。奪われないよう守りを固めることが所有者としての責務であり、欲するものがあれば法に触れても手に入れて良い、そんな江湖の気風に晒されて来たのだろう。だからこそ、事を成す美しさを大事にする。盗みとは強固な守りをすり抜け、獲物だけを掠め取り、その足跡を一つも残さず、飄々として行われるものなのだ。蘭香の中では。

「魏家の金環剣は確かに有名な宝剣だ。でもだからこそ、魏家では誰にも盗まれないよう厳重に隠していたはず。その盗人は魏家の主人に自ら剣を持ち出すよう仕向けたんだよ。人間は危急の際、最も大切なものを守ろうとするから。そして後になって戻された剣を盗んだのさ」

 蘭香はハッとして王恭の顔をまじまじと見つめ、うぅんと唸って考え込み、しかる後にパチンと指を鳴らした。

「その通りだわ! きっとそうに違いない。あんた、やっぱり凄いのね。あたしはそんな企みがあったなんて思いもしなかった。あんたは本当に、昔から頭が良いわ」

 すっと蘭香の手が伸び、卓上の書を手に取る。ちらりと中を覗いてから、やれやれと肩を竦める。

「こんな難しそうな本を読んで、未来の学者サマは大変ね」

 それはかつて、蘭香が王恭の自宅へ来るたびに口にした言葉。あの頃の蘭香は文字を解せず、奇々怪々な図形を読み解く王恭を違う世界の住人のように見ていた。しかし今は違う。本当は蘭香もこの書の内容を読み、理解することができる。今の一言は単純に、懐かしさから溢れ出たものだ。

「でも、もう違うわね。あんたはもう、立派な学者サマなのよね」

「――え?」

 王恭の漏らした疑問の声を、しかし蘭香は聞いていない。くるりと身を翻しながら立ち上がり、視線を遠くへ投げる。王恭がその視線の先を追ってみれば、そこには同じ年頃と思われる若い男が一人。紫色の道士服、両手には大きな饅頭をそれぞれ持っている。

「私、行かなきゃ。今日は楽しかったわ。またいずれ、どこかで会うこともあるかもね。それまではお役人のお仕事、頑張ってね!」

 蘭香はいつでも行動が急だ。手綱を付けたところで御すことなど不可能だろう。王恭が何を言うよりも先に、もう駆け出して行ってしまっている。道士の側へ駆け寄ると一度ちらりと振り返り、手を振りながら雑踏の中へと消えて行ってしまった。

 王恭はふと、己が片手を掲げていることに気づいた。無意識に手を振り返そうとして、しかしもう彼女の背中が見えなくなってしまったことで行き場を失ってしまったのだ。頭を振りつつそれを降ろし、半ば自嘲を含んだ息を漏らす。

「僕は役人になんかなっちゃいないよ。そんなものになったところで、君の近くにはいられないじゃないか」

 ぼんやりと両の手の平を見つめる。ついさっき彼女が握ってくれた暖かさと柔らかさが、まだそこに残っている。そうしてまた顔を上げる。その唇には、ただの呟きではなく、決意を乗せて。

「僕は、君と同じ世界に生きることを決めたんだ。……君と向かい合うために」

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