第二節 師父の名

 言うや否や、身を翻して走り出す。間違いない、あの女は李白の行方について何か知っている。

(李白がどこへ行こうが私にとってはどうでも良い。でも手がかりを目の前にしておきながらみすみす逃したとあっては、辛悟に申し訳ないわ)

 東巌子も一歩遅れて走り出す。先ほどまでの追走劇とは比べ物にならない速度だ。それはさながら一陣の風、城市内を吹き抜ける疾風のようである。長年山中で暮らしながら武芸を磨いた彼女にとって、人工的に整備された都市は障害物などあって無いようなものだ。それなのに、先を行く嫦娥との距離は一向に縮まる気配がない。加えて東巌子は投擲武器の類を持っていない。果たしてどうやって足止めさせようかと考え始めたとき、嫦娥はさっと跳躍して一軒の邸宅に飛び込んだ。

 しめた! 東巌子は内力を総動員して地面を蹴る。おおゆみから放たれた矢の如く一直線に突き進み、その背面に肉迫し脾愈ひゆ穴へ突きかかる。しかし嫦娥は振り返りもせずに体を捻ってこれを受け流した。まるで背面に眼があるかのような自然な動きだ。東巌子はすかさず技を変え、手首をぐるんと回して後頭部を打ちにかかる。が、振り返った女の掲げた剣指に先端を弾かれるや、狙いは逸れて空を斬った。杖先から飛び出したばね仕掛けの剣先が虚空に銀色の軌跡を描く。

「危ないわね。もう少しで斬られるところだわ」

 こちらは元より斬るつもりであったのだ。何を的外れなことを。東巌子は嫦娥から十歩の距離を開けて塀の内側に降り立った。

 塀の内側は開けた院子にわだ。すぐ側にはいくつか木が植えられているが、手入れされていないのかどうにも活力がない。しかしその代わり、その根元には様々な花が植えられて色鮮やかだ。どうにもちぐはぐな造りである。嫦娥の背面には薄汚れた柱と壁の回廊。ここの住人、それなりの身分はあるのかも知れないが裕福ではないようだ。全体から貧相さがうかがえる。

 が、そんな事は今はどうでも良い。

「凄いわね、あなた。私の軽功に付いて来られるだなんて」

 嫦娥はうんうんと頷き感心した様子だ。だが東巌子はぐっと眉根を寄せて彼女を睨みつけた。あの女、あれだけの速さで駆け続けたのにまったく息が上がっていない。口先ではこちらを褒めそやしているが、内実は息を乱しているこちらを貶しているのではないか。

「それじゃあ、次。技の方はどうなのかしらね?」

 言うなり嫦娥はついと足を踏み出し――次の瞬間には東巌子の目前に迫っていた。十歩の距離はどこへ消え失せたのか、まるで縮地の術でもかけられたかのようだ。咄嗟に杖を逆手に持ち替えつつ胸の間に掲げる。バシッ、と嫦娥の左掌が胸の中心を打った。受け止めたとは言え衝撃は凄まじい。数歩後退するあまり右足がぐしゃっと花を踏みつけてしまった。

 嫦娥が追撃の手を振るう。東巌子は横に飛びながら杖を払う。嫦娥は追わず、この一閃を動かずしてやり過ごす。

 今の一撃は不意を突かれたからだ。東巌子は心を落ち着けると嫦娥の手首を打ちにかかる。嫦娥は半身になってこれを躱した。すかさず突きに転じて喉を狙う東巌子。だが嫦娥はまたしてもこれを剣訣で弾く。さらには逆に東巌子の眉間を突きに来た。東巌子はさっと身を伏せるや後掃腿こうそうたいを繰り出す。足首を払われた嫦娥は大きく体勢を崩す。その一瞬を逃さず杖先を突き込む東巌子。まさか背面を向けた相手の腋下から攻撃が現れるとは思うまい。――通常の相手ならば。

 タンッ、杖先に強い衝撃が返りむしろ東巌子までもが体勢を崩す。咄嗟に前方向に一回転して転倒を回避する。一体何が起こったのか? 考えるまでもない。信じられないことだが、嫦娥はこちらの奇襲攻撃を正面から突き返し、その反動で自身の体勢を立て直すどころか、むしろこちらを突き転がしたのだ。まるでこちらの技をすべて見透かしているかのような的確な対応だ。

 はっと顔を上げれば嫦娥がもう迫っている。こちらはまだ膝立ちの状態だ。咄嗟に東巌子は杖を地面に突き立て、これを支柱に体をぐいと持ち上げた。両足で連続の蹴りを放つ。嫦娥は直接これを受けようとはせず、両掌をひらひらと舞わせて蹴りを巧みに逸らす。一撃ならばまだしも、連続五回をすべて受け流してしまった。

 東巌子は内心舌を巻く。この女、できる。だが最初の一撃以降の攻撃が無いのは、こちらの攻めを防ぐので手一杯だからか。ならばもっと攻め立てるまでだ。

 着地すると同時、杖を十字に斬りつける。横の一閃を後退してやり過ごしたところへ、中心を裂くように縦一直線。この短い瞬間に二度は後退できない。完全に捉えた――はずが、強烈なしびれが手中に走って軌道が逸れる。バカな、と漏らす東巌子。あの一閃、その杖先は目にも留まらぬ速度であったはず。それを指で弾き飛ばすとは……。

 愕然とする東巌子。それに対し、嫦娥は両手をパシンと打ち合わせて飛び上がらんばかりに喜んでいる。

「凄いわ、凄い! その歳でそこまでできるだなんて驚きよ! ねえ、私の弟子になるつもりはなぁい?」

 くいっと首を傾げて覗き込むように視線を向ける。まるで欲しいものをねだる女児のようだ。痺れる右手を押さえながらも東巌子は吐き捨てるように返す。

「私の師父は師父だけよ。あなたの弟子になるつもりはない」

「へぇ、やっぱりあなたは白衣聖人はくいせいじんの弟子なのね。あいつにこんなに年若くて可愛い弟子がいるとは思いもしなかったわ」

 東巌子ははっと息を呑んだ。今、この女は何と言った?

「い、今……師父の事を言ったの? は、白衣聖人……それが師父の名なの?」

 驚きのあまりに目を見開き、唇が震えている。無理もないことだ。東巌子を物心ついたときからたった一人で育て上げ、武芸を教え込んだその人は、自らを「師父」とだけ呼ばせていた。師父亡き今、もはやその名を知ることはできないと思っていたのに。

 嫦娥としてもまさかそのような問いかけを受けるとは思っていなかったのか、ぽかんと呆気に取られている。――が、ややあって笑みを漏らす。

「さあ? そうかもしれないし、そうでないかも知れないわ」

「――っ!」

 次の瞬間、東巌子は嫦娥の懐に飛び込むやその胸倉を掴み上げ、逆手に持ち直した杖で腰を打ちにかかる。胸元を掴まれては距離を置くことができない。しかし嫦娥は慌てる素振りもなく左掌で杖を受け止める。東巌子は即座に技を変え、今度は胸倉を掴んだ左腕の下を潜らせ杖の手元でこめかみを狙う。

 ところが、嫦娥はあと一寸のところで杖を掴み取って東巌子の攻撃を阻止してしまった。それどころか、ぐいと杖身を押し込んで東巌子の右首筋に掛ける。まずいと思った時にはもう遅い。ぐいと引き寄せられ東巌子の体は左斜め前に傾いだ。まさか自身の技をこうも鮮やかに返されるとは。

 左足を踏み出して堪えつつ、東巌子は胸倉を掴んでいた左手を放し、さっと頭の後ろに回して杖先を掴んだ。背面を射出台代わりにして掌で突き込む。嫦娥は「わぁっ」とわざとらしい声を発しながら杖を放して一歩下がる。その間に東巌子は逆手で杖を掴んでいた右手を順手に握り直し、上体を後方に傾がせている嫦娥の喉元目がけて薙ぎつける。嫦娥の腕が持ち上がりこれを掴み取ろうとする。その瞬間、東巌子は杖を勢いよく引き寄せた。引き戻される勢いで先端から剣身が飛び出し、杖を掴み取ろうとした掌と、そして喉を斬り裂く。

 ――はずだった。実際にはそうならなかった。嫦娥はあろうことか、杖先から飛び出た剣身を二本の指で挟み取ってしまっていた。

「ちょっと、殺気に過ぎるんじゃないかしら? 白衣聖人の弟子にしては物騒過ぎよ」

 今まで微笑を崩さなかった嫦娥が、この時ばかりは顰め面を浮かべている。まさかの事態に動きが止まってしまった東巌子の要穴を手早く点穴し、体の自由を奪う。意に反して体が脱力した東巌子はその場にどっと倒れ伏した。

「やっぱりあなた、私の弟子になるべきよ。私を生き埋めにした兆望ちょうもうは憎いけれど、あなたの才能は捨て難い。私の弟子になってしっかり修行すれば、もっともっと強くなれるわ」

「誰がお前なんかの弟子に――」

 悪態を吐こうとした東巌子の唖穴を塞ぐ嫦娥。これで東巌子は一言も発せなくなった。

「否やは無しよ。手始めにこの点穴を自力で解いてみなさい。それができなければ私の目も節穴だったと諦めるし、あなたは一生生きたお人形よ」

 恐ろしいことを耳元で囁く。声も発せず、首を巡らせることもできない東巌子にはどうしようもできない。くすくすと笑いながら、嫦娥がどこへ去ったかすらも定かではない。

 誰もいない場所にただ一人。東巌子はぞっと恐怖を覚えた。このまま自分はどうなってしまうのだろうか。身動き一つ取れず、助けを呼ぶこともできない。嫦娥の言った通り、これでは生きた人形だ。このまま誰にも知られることなく朝を迎えるのか。誰か見つけ出してくれるのだろうか。辛悟にも二度と会えないのだろうか。

(誰か、誰か、私を見つけて。私に気づいて。私を――私を一人にしないで!)

 この世界にただ一人取り残されたかのような。無限の闇に放り込まれたかのような。大海を漂流するかのような。死して地中に埋められてしまったかのような。そんな言い知れようのない虚無感が東巌子を包み込む。

 それから一体どれほどの時間が経過しただろう。底なしの恐怖に心が限界を迎え、気が遠退きそうになったその瞬間、後ろの方で誰かが小さく呟く声を聴いた。そんな気がした。

「――仙女様」

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