天衣無縫

第一節 怪しい影を追って

 部屋の窓をそっと押し開くと、東巌子はするりと流れるような動きで宿部屋から出て屋上に上った。夜空を見上げてみれば上弦の月は薄雲に隠れておぼろげ、夜闇も深い。ここ成都の城市まちはすっかり寝静まっているようだった。

 ざっ、ざっ、ざっ。東巌子の耳に、何者かが歩く足音が聞こえた。屋根の縁から身を乗り出してみれば、すぐ下を提灯を携えた衛兵が二人歩いていた。おそらくは夜間警邏の者だろう。やれどこそこの酒は上手いだの、どこそこの妓女は歌が上手いだのと雑談しながら歩いている。東巌子は二人の歩く姿を見て小さく鼻を鳴らした。やれやれ、あんな武術の心得も無い歩き方でよくも衛兵など勤まるものだ、と。

 もとより散歩目的で外に出たわけではない東巌子、衛兵などには目もくれず、身を翻して行こうとした。が、その時衛兵たちが「あっ」と叫ぶ。

「誰だ、そこにいるのは! おい、待て、待たないか!」

 ばたばたと音を響かせながら衛兵たちが走る。東巌子も気になってもう一度視線を向けると、衛兵たちが走って行く先、暗がりの角へ何者かが姿を隠したところであった。

(もしかして辛悟かしら?)

 夕方ごろ、辛悟は「すぐに戻る」と言い残してどこぞへと姿を消し、そのまま夜になっても帰ってこなかった。心配になった東巌子はすぐにでも探しに行こうとしたのだが、あいにくといつもの老爺の変装は解いてしまっていた。東巌子のあまりにも白過ぎる肌と毛髪は人目に晒すには都合が悪い。かと言ってもう一度老爺に化けるには手間がかかる。それでこんな夜中にこっそりと外に出たのである。

(こっそり宿へ戻ろうとして、うっかり衛兵に見つかったのかしら? 辛悟ったら運が無いのね)

 心中でくすくすと笑いながら、東巌子は衛兵たちが追いかけて行った方角へ走り出した。先ほど人影が姿を消した角に着いてみれば、衛兵たちは早速相手を見失ったのか「どこへ行った?」をぎゃあぎゃあ喚きながら四方八方を見渡している。東巌子はそんな彼らの頭上を飛び越え、勘を頼りに数区画先へ進んだ。すると、案の定また人影が物陰に消える瞬間を目撃する。

(どこまで逃げるつもりかしら? 衛兵はとっくに撒いたのに)

 もしかして、まだ衛兵が追ってきていると思い込んでいるのだろうか……。ふと、東巌子の頭に悪戯心が芽生えた。にやっと口元を歪めると、屋上から降り、わざと足音を大きくして声を上げる。

「待て、待たないか! 夜中にうろつく怪しい奴め!」

 普段から老爺の姿を取っている東巌子にとっては変声術などお手の物、その声は先ほどの愚鈍な衛兵たちのそれとうり二つであった。このまま追いかけ回し、辛悟をからかってやろうと考えたのだ。なに、辛悟は自分を置いて行き散々心配をさせたのだ、これぐらいの仕打ちは許されて然るべきだ。

 人影は東巌子が角を曲がる度、また少し先の角に身を潜めてを繰り返す。東巌子が止まっていた宿は城市の外れにあったが、もう大分と中心部に近づいて来ていた。この辺りはいくらかは金のある低級役人たちの家が散在する地区のようだ。塀の高さが変わり、路面の舗装もしっかりしてきている。

 さすがにここまで追い回しては悪戯が過ぎると思った東巌子、変声を止めて元の声で先を行く人影に呼ばわった。

「辛悟、安心して。私よ、東兄よ」

 しかし人影はなおも走り続け、止まる気配を見せない。まさか聞こえていないはずはあるまい。気が動転してそれどころではないのか? それはそれで、可愛げのあることだが。

 区画を分ける城門を抜けると、そこは広場であった。おをらく日中は行商人たちが露天を開く市場になるのであろう。だがこんな夜更けでは行商人の姿などあるはずもなく。

 ――ただ一人が、その中心で東巌子を待っていた。

「ただの衛兵にしては脚が早いと思ったら、まさかあなたみたいな可愛らしい娘とはね」

 広場の中心に立つその人物は、まるで陶器を鳴らすかのような澄んだ声で東巌子を出迎えた。濡れ羽色の髪、白磁のような玉の肌。身に着けたのは道士服のようだが、生地が薄くその肢体の豊満さを見せつけるようだ。

(なによ、気が動転していたのは私の方じゃない!)

 その人物を目にするなり、東巌子は心中で悪態を吐いた。自分が追いかけていたのは辛悟ではなかった。それどころか性別も違うし姿形も違う、似ても似つかない相手ではないか。それを早とちりで辛悟と思い、声音も変えて追い回すとは。なかなかに恥ずかしい行いをしてしまったとあって東巌子は顔面が熱くなるのを感じた。特に今は顔面に何も貼りつけていない。東巌子自身が自覚する通り、その白い頬は薄闇の中で真っ赤に染まっていた。が、東巌子はそれを感じさせない態度で応じる。

「あなたは誰? こんな夜中にうろつくなんて、ろくな人間ではないでしょうけれど」

 女は僅かに目を見開いたかと思うと、次いでくすりと微笑んだ。

「あなたに他人のことが言えるの? そうね……私は嫦娥じょうがよ。あなたは?」

 嫦娥とは月に住む仙女の名、真の名ではあるまい。本名を明かさないとはやはり何らかの企みのある人物なのだろうか。

「東巌子よ」

 答えてから、これでは自分も同様に企みある人間のようだと思い至る。だが仕方ない、東巌子は己の真の名前を知らないのだから。

 女は、ふ~んと興味があるのかないのかよくわからない反応を見せる。

「何をしていたの?」

 質問しているのはこちらだ、と言い返したい東巌子だが、答えてやらない理由もない。

「人を探していたのよ。辛悟という十七歳ぐらいの男なのだけれど」

「あら、恋人探し?」

「友人よ。夕方に出て行ったきり帰らないの。あなた、知らないかしら? 辛悟がどこにいるのか」

 ふぅ~ん、と指先で口元に触れて考える素振りを見せる女。素振りだけだ。実際に考えてなどいまい。そして案の定、どうにもならない答えを返す。

「知っているかもしれないし、知らないかも知れない」

(知らないわね、この様子だと)

 これ以上この女に関わる理由はない。それに、なんだかこの女は苦手だ。よくわからないが、自分はこのような類の人間とは気が合わないと思えた。

「知らないのなら結構。私はあなたを辛悟と見間違えたのよ。ほら……こんなに暗い夜だから。あなたが何をしようとしていたかなんて、どうでもいいわ」

 女は、そう、とだけ返して身を翻す。東巌子もまた踵を返して立ち去ろうとした。が、ふとその動きが止まる。女が腰に佩いた、一振りの剣が目に留まったからである。

 細い柳腰にはいささか不釣り合いな、漆黒の剣。留め具だけが銀の光を発している。他には一切の飾り気がない無骨な剣だ。しかしそこから発せられる覇気のようなものは尋常ではない。東巌子は以前にもあれを見たことがあった。

 待って――気づいた時にはもう言葉を発した後だった。

「それは私の友人の剣よ。なぜあなたが持っているの?」

 ピタリと嫦娥は動きを止め、再び東巌子に正面を向ける。カチャ、柄頭に手を触れて小さく揺らす。ああこれは、そう言い差してから一度口をつぐみ、ややあってまたにこりと微笑む。

「さあ、どうしたのかしらね」

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