第三節 とんでもない勘違い

 がたがたと身近で発せられる物音で意識が戻る。東巌子はうっすらと瞼を開き、目に映る天井が見慣れたものでないことから、てっきり宿にいるものと考えた。

(辛悟が戻ったのかしら? 一体どこへ行っていたのやら)

 問い詰めてやろうとして唇が動かないことに気づく。猿轡を噛まされているわけでもないのに唇は痺れ、喉も震えない。唖穴が完全に塞がっているためだ。

 どうして――そこでようやく、東巌子は直前の記憶を思い出した。辛悟を探すために夜の城市へ出たこと、妙な女に出会ったこと、そして点穴を施されて動けなくなってしまったこと……。

(ここはどこなの? 私は一体どうなったの?)

 声も発せぬ、指先一つ動かせぬ。出来ることは呼吸とまばたきと、せいぜい眼球を動かす程度。東巌子は視線をさ迷わせ、己の身がとある一室の寝台に寝かされていることを知った。左側には壁と丸窓、そして右側では何やらごそごそとやっている後ろ姿が。角度の関係で何をしているのかは何も見えない。見えるのはただまげった後頭部だけ。

 東巌子ははっとして胸躍らせた。まさかそこにいるのは辛悟なのでは? どこをほっつき歩いていたか知らないが、夜が明ける前に動けなくなっていた東巌子を見つけてどこぞへ運び込んだに違いない。宿からあんなに離れてしまっていたのにしっかり見つけ出してくれるだなんて……。

 そこでふと、傍らの何者かが振り向いた。喜びもつかの間、東巌子はぎょっとする。そこにいたのは辛悟とは似ても似つかぬ、見知らぬ男であった。

「あっ、織女しょくじょ様! お気づきになられたのですね!」

 男はそう言って東巌子の枕元に手を突いて顔を覗き込む。いきなり息も吹きかかろうかという距離に顔を近づけられ、東巌子は驚きのあまり唯一動かせる瞼をまん丸に見開いた。

 面長な輪郭にやや垂れ気味ながら大きい目、かすれたような眉尻。歳は辛悟よりも十は上だろう。醜男ぶおとこではないが、それ以外に目立った特徴のない凡庸な顔つきだ。男はじっと東巌子を興奮気味に覗き込むと、ややあって天を仰いだ。

「ああっ、なんて美しい人なんだっ! やっぱり貴女は天女様、織女様に違いない! それが……ああ、なんて悲運なんだ。羽衣を失って天に帰れないだなんて!」

(こいつは誰? 仙女様? それって私のことかしら? 羽衣ってなんの話よ?)

 東巌子にとってはわからないことだらけだ。しかし男は一人勝手に、やれ災難だ、やれ盗人めと並べ立てながら寝台横を行きつ戻りつする。口を挟みたくても声は出ない。五体が動くならばすぐにでも背を向けて出て行くところ、今の有様ではどうにもできない。

 男はまた身を翻して寝台横に膝を突くや、東巌子の右手を取ってぐっと握り込んだ。東巌子は育ちの関係から男女の隔てに疎い部分があるが、さすがに初対面の相手にいきなり手を握られてはかっと頭に血が昇る。もしも片腕でも動けるならばその両肩を打ち砕いてやるところだ。

 しかし男はそんなことなど気にもせず、東巌子の腕をぶんぶんと振る。

「織女様、失意のあまりに声も失ってしまったのですか? ――しかしご安心あれ! 織女様が羽衣を織り上げられる一部始終を、この郭翰かくかんめはすべて目にしております。天上世界の技を見せていただいたお礼です。この私めが新たな羽衣を織り上げて見せましょう!」

(さっきから羽衣羽衣って、一体なんのことかしら?)

 わからないことだらけで、いい加減に腹が立ってきた。取り敢えずこの郭翰とか言う男は、東巌子のことを仙女だとか織女だとか呼んで勝手に勘違いしている。その上いい歳のくせに言動にあまりにも落ちつきがない。

 こんな輩には到底付き合っていられない。東巌子は直ちに体の自由を取り戻すべく、全身の経絡に気を通そうとした。――が、塞がれた要穴はびくともしない。通常、点穴は時間の経過とともに弱まって最後には自然と解けるものだ。だがこの点穴はかけられた時とまったく威力が変わらない。これほどまでに強力な点穴術がこの世に存在するとは。

 東巌子が心中驚嘆を浮かべまた愕然としていると、不意に部屋の外からどんどんと地面を踏み鳴らしながら近寄る足音が聞こえた。それとほぼ同時、女の怒鳴り声が響き渡る。

「兄さん! 私の造った花畑が気に入らないなら、私に直接言えばいいじゃないの! あんな当てこすりみたいなことをする必要なんてないじゃない!」

 声の主はもう間近に迫っている。怒鳴り声を聞いてびくっと直立していた郭翰は慌てて身を翻し、次の瞬間には東巌子の視界は黄色に染まった。郭翰が東巌子の上に大量の衣類を投げ被せたのだ。東巌子の顔の部分にはちょうど黄色の紗がかかり、うっすらとその先の様子を見て取ることができた。

 郭翰が寝台に背を向け、後ろ手を組みながらひゅうひゅうと口笛を吹いていると――あまりにも下手くそな知らぬふりだ――部屋の扉をバンと両開きにして、女が一人入って来た。襟元に二条の白線が入った薄青のはだぎに薄緑の半臂はんぴ、それらを包むようなスカートはさらに色の薄い藍白で、さらに緑糸で柳の刺繍が入っている。着ている服は柔らかな色合いの中に気品を感じさせるのに、女はそれ以外の装飾品を身に着けず、また顔面は怒気で真っ赤になっていた。

「私がせっかく丹精込めて造った花畑を! よくも踏み荒らしてくれたわね! 兄さんの院子にわが少しでも華やかになればいいと思ってやったのに、あんな仕打ちはあんまりよ!」

 言うなり両手で郭翰の胸ぐらを掴み上げる。女は背が高めで郭翰とほぼ身長は変わらないが、膂力があるようには見えない。なのに掴み上げられた郭翰はついとつま先立ちになってあわあわとみっともない声を上げる。

「ぼ、僕じゃないって! 夜の間に盗人が入って、そいつが踏み荒らしたに違いないよ!」

「こんな貧乏さが外まで滲み出るような家に、どこの間抜けな盗人が入るって言うのよ!」

(……あ)

 東巌子には思い当たる節がある。そういえばあの嫦娥とか言う女と手を交えた際、後退した勢いで院子の花を踏みつけた覚えがある。女はそれを郭翰がやったものと思い込んでいるらしい。

 郭翰はつま先立ちのまま反論する。

「貧乏だなんて言うなよ! それに、郭翰の名前はこの成都じゃ有名だってこと、えいメイだって知っているだろう?」

「ええ、そうね。みんなが知っているわ。郭家のせがれは女みたいにお針が得意だって」

「おいっ、僕をバカにする気か?」

「あら違うの? だったら自分がやったことは潔く認めたらどうなのよ」

 女は容赦なく郭翰を攻め立てる。着ている服とはまったく正反対の性格のようだ。苛烈で色が強い。こうだと決めたら絶対に曲げない部類の人間だ。しかしそれは郭翰も同じらしい。吊り上げられて明らかに劣勢なのに、一向に屈する気配がない。

「何度言ったらわかるんだ。僕じゃないってば!」

「この家には兄さん一人、他に誰がいるのよ? それとも――女でも連れ込んだかしら?」

「そ、そんなっ! それは……」

 途端に郭翰の歯切れが悪くなる。どうやらこの男、嘘も吐けないたちらしい。何を隠そう背後の寝台には衣装の山に埋もれた東巌子がいるのだ。はっきりとは否定できないでいる。

「と、とにかく! 院子を荒らしたのは僕じゃないんだ。わかってくれよ」

 無理矢理に話を終わらせようとかかる郭翰。その顔をじぃっと女は見つめ、ややあってからふぅと息を吐く。ぱっと手も放して郭翰はよろよろと二三歩後退った。

「……甲斐性なし。むしろそうしてくれた方が、伯父様にも顔向けができたのにね」

「え? なんだって?」

 ぼそっと呟いたその一言は郭翰には聞こえなかったようだが、東巌子の耳には聞き取ることができた。

「なんでもないわ。――それにしても、また散らかしたのね」

 ぐっと体を傾けて、女は郭翰の後ろ、東巌子の横たわる寝台へと視線を向けた。郭翰がびくっと身体を震わせる。

「あっ、それは」

 郭翰が言うのも聞かず、女はすたすたと寝台に近寄って腕を伸ばす。郭翰が息を呑む音が聞こえるかのようだった。先ほど女など連れ込んではいないと言った手前、ここで東巌子が見つかればどうなるか。その様は想像に難くない。だが女の手を止めることも出来ず、その手はさらに伸びて――ぱっと丸窓の戸を開いた。今度もまたわかりやすく胸を撫で下ろす郭翰。

「お、脅かすなよぉ……」

「なんの事よ?」

 そう言って女は何の前触れもなく、さっと東巌子に被さっていた衣類の山を持ち上げた。郭翰はもちろん、東巌子も心中であっと声を上げる。そして女もまた驚きの声を上げ、固まった。

 沈黙数秒。

「――このっ、ろくでなし!」

「むぐぅ!?」

 女は大きく振りかぶって、衣類の塊を郭翰に向けて投げつけた。せいぜい五歩の距離しかなかったのを避けられるはずもなく、郭翰はそれを顔面に喰らって真後ろに転倒した。それだけでも盛大な音を立てたのに、女はさらに追いすがってもぞもぞ動き回る衣服の山を滅茶苦茶に殴りつけている。

「この裏切り者! ろくでなし! 大ばか者! 能無し! 薄情者! 甲斐性なし! 愚図! のろま! 軟弱者! 恥晒し! 腰抜け! おたんこなす! 親不孝者! カボチャ頭! うすらとんかち! 犬畜生! 傻蛋くされたまごあたま! 狗雑種のらいぬ! 傻瓜くされのうみそ! 忘八蛋アンポンタン! 瘋子イカレポンチ!」

 およそ思いつく限りの罵詈雑言を浴びせながら追いかける。這いつくばりながら頭に被った衣服を取るのも忘れ、郭翰は逃げ回る。第三者からしてみれば耳は覆いたくなるものの見た目には滑稽なことこの上ない。

 ところが東巌子にはそんな痴態劇に意識を向ける余裕などなかった。女が衣装を持ち上げた瞬間から、右手に激痛が走っていたのだ。眼球を動かせる限りに動かしてその原因を知る。女が最前開いた丸窓から日光が差し込み、掛け布団から覗いていた右手に降り注いでいる。マズい! そう思ったものの東巌子の意思では腕はぴくりとも動かない。次第に白い肌は真っ赤に腫れあがり始めた。このままでは取り返しのつかぬことになるだろう。

「いっぺん死んで来い!」

「ぎゃふんっ!」

 直後、凄まじい炸裂音と共に郭翰の体が吹っ飛んだ。女が渾身の力を込めた張り手を喰らわせたのだ。郭翰の体はそのままきりもみ回転しながら東巌子のいる寝台に落下する。右手の危機に意識を取られていた東巌子は、不意に腹部に重りが落ちたことで五臓六腑がひっくり返る思い。しかも、その衝撃で寝台の脚がバキッと音を立てて折れた。先ほどこの家は貧乏だとか言っていたがこれほどまでに老朽化していたとは。ズダーンッ! と埃を巻き上げながら寝台が落ちた。度重なる衝撃に東巌子は目が回りそうだ。また間髪入れずに女の怒号が飛ぶ。

「ちょっと! 何をどさくさにまぎれて胸なんか触っているの!」

「えっ、これは胸なのか?」

 確かに郭翰の左手は東巌子の胸を鷲掴みにしている。頭に女物の長裙を被っているため見えていないのだ。――悪かったわね、あるのかどうかもわからないような平面で。東巌子は心中吐き捨てる。

 郭翰は女に首根っこを掴まれて東巌子から引き剥がされる。すると、女はあっと声を上げて東巌子の横に屈み込んだ。右手の火傷に気が付いたのだ。寝台が落ちたことで日光からはすでに逃れていたが、すでに火ぶくれが生じている。

 大変、と女は呟いて床に転がった郭翰へ

「なにをいつまでふざけているの! 早く薬箱を取って来て!」

「えっ、織女様が怪我したのかい? それは大変だ」

 郭翰はさっと立ち上がって部屋を飛び出――そうとして、ゴツンと鈍い音を立てながらひっくり返った。頭に裙を被った彼は、それをはぎ取ることも忘れて駆け出し、戸に激突して頭を打ったのである。

 女は呆れてため息を吐きながら頭を振る。これには東巌子も同感を禁じ得なかった。

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