第二節 神童の幼馴染

 元々誰に武芸を習ったわけでもない蘭香に、壁の絵が真の武芸か紛い物かの区別がつくはずもない。結局壁画の真贋は見極められず、とりあえず描かれた通りに修練してみることにした。毎晩大量の蝋燭を持ち出すので母親がその減りが早いことを気にかけていたが、特別高価なものでもないために見逃された。

 壁の絵は半月周期で描き換わった。満月と新月の日に何者かが先回りして描き変えているのだ。蘭香は一度、いつもより早めに家を抜け出して誰が壁画を残しているのか確かめようとした。昨日までの絵が残されている事を確認してから近くの茂みに身を潜め、じっと誰かがやって来るのを待った。しかし待てども待てども人はおろか獣の一匹も通り過ぎる様子がない。痺れを切らして中へ入ってみれば、壁画はとうに新しい物へと描き変わっていたのである。これにはさすがの蘭香も空恐ろしく感じたものだ。以後、描き手の正体を暴くことは止め、ただひたすらに修練を積むことにした。

 一つだけ、大きな問題があった。壁画は左右の壁に描かれるのだが、一方の絵の意味が全く理解できないのである。左側の絵は剣を手にしてこれを揮っているため武芸の型だとすぐにわかる。しかし右側の絵は武器を持たず拳足も繰り出さず、ただ静かに座する様を示していたのである。決して攻防の型ではないことに蘭香もすぐに気づき、しばらくしてようやくこれが内功を鍛えるための導引術であることに思い至った。

 武芸の中でも筋骨を鍛え、攻めと守りの技術を身につけることを外功と呼ぶ。これに対し、気息を整え肉体の内部を鍛錬し掌握するものが内功である。どちらか一方に精通しただけではその武芸は不完全なものにしかならないのだ。蘭香も幼少期に読み聞かされた侠客物語でそのことは知っていたが、図示されただけでは体内を鍛える内功は会得できない。壁画にはそれらの解説と思われる文言が併記してあったが、これを前にして蘭香は思い悩んだ。彼女は文字が読めないのだ。

 漢民族の娘であれば、将来の我が子に学問を教え込んで官僚とするために最低限の手習いは受けるものだ。しかし異民族出身でたかが平民の小娘である彼女に学問の心得はない。いくら自分に才能があると思い込んでも、できないことは逆立ちしたってできないのだ。修練図を前に悩んだ蘭香は、ある日近所の家を訪ねることにした。

「よっ! ご機嫌いかが?」

 庭で静かに読書に耽っていた少年の前に飛び出し、相手が驚いた瞬間にその手にあった本をひょいと取り上げる。

「うわ、まーたこんな難しそうな本を読んでるのね。よくも飽きないものだわ。将来の学者サマは大変ね」

「なっ、何をするんだよ! 返せよ!」

 少年が取り返そうとするのをひらりと避け、ぱらぱらと項を繰る。

「良いじゃないの、ちょっとくらい見せてくれても」

「君が見たって読めないじゃないか。何の意味があるんだよ」

「何って、嫌がらせ?」

 ぺろっと舌を出してみせ、少年が面食らったところでその胸に投げ返してやった。

「ほら、これで良いんでしょ? 今日はあんたをからかいに来たんじゃないのよ」

「……いつもはからかい目的なのかい?」

「え? それ以外に何かあるの?」

 けろりと言って先ほど少年が座っていた席の向かいに椅子を引き寄せ勝手に座る。少年はやれやれといった様子で息を吐き、肩を落として元の席に腰を降ろした。卓を挟んで向かい合い、うんざりした様子を隠すこともなく、

「それで、今日のご来訪の用件は何でしょうかね?」

「あんたにちょっと読んで欲しいものがあるのよ。ちょっと紙と筆を貸してご覧なさい」

「読めもしない字が書けるのかい?」

「つべこべ言わないの! ほら早く!」

 ばんばんと卓を叩く蘭香に気圧され、少年はせっかく座った椅子から立ち上がって家の中へと取って返し、数枚の紙と硯と筆を持ってきた。それらをひったくるようにして受け取った蘭香は、得意気に昨夜何度も見て覚えた壁の文言を書きつけた。その手並みはひらひらと優雅さを気取っているが、少年はこれを見て眉を顰める。

「……何だい、それ?」

「何って、読めないの? あんなに勉強してるのに?」

「いや、そうじゃなくて。それはもしかして、文字のつもりなのかい?」

 知らぬ言語は聞いたところで等しく発音するのは困難だ。覚えているからと山水画をそっくりそのまま描ける人間もそうおるまい。ましてや凡人の蘭香の場合はそれに同じく、壁の文字とは似て非なるもの、欠字や増画はともかく、左右反転や編と作りの分離もおびただしく、極めつけに勝手なくずし方で書いたために到底まともに読める代物ではなくなっていた。

「何だって良いわ。とにかくこれを読んで、どんな意味なのかあたしに教えてよ」

「そう言われてもこれじゃ無理だよ。それにこんな物、一体どこで見たんだい? 僕に直接それを見せてくれれば早いじゃないか」

「どこの何だって良いでしょ。他の誰にも見せられないのよ。それよりも読めるの? 読めないの?」

 蘭香の我が儘っぷりは少年も昔から思い知っていることだ。いくらこれでは無理だと言ったところでがえんぜないだろう。少年はしばし頭を抱えて悩み、やがて顔を上げて一つの提案を示した。

「それじゃあこうしよう。余っている筆と紙を君にあげるから、それで今度は少しずつで良いからもっと正確に書き写して来ておくれよ。それならもう少し僕も協力できると思うし、文字は実際に書いてみないと覚えられないものなんだ。文字の意味も教えるよ。自分で読めるようになったらわざわざ僕の所まで来なくても良くなるし、もっと深くその文章の意味するところも理解できると思うのだけど」

 面倒臭いなぁ。蘭香はそう言いかけたのを我慢する。実際のところ、彼女自身もうろ覚えだったことは内心認めるところなのだ。それに今後使う場面があるかどうかはさておき、多少の読み書きができるようになるのも悪くない。あれは他人に見せたくないものだし、彼の手を借りずに済むようになるなら良いことだ。

「良いわ。そうしましょう」

 そうして翌日から、蘭香は暇を見つけては少年の家を訪ね、前日に書き写してきた内容について二人で吟味し合うようになった。初めのうちこそ写し間違いなどあったものの、懇切丁寧に修正していくとすぐに改善された。普段は我が儘放題で家の仕事もサボりがちな蘭香だが、どうしてもこの武芸は身につけたいと思えばこそ、熱心に学んだのだった。とは言え、少年の家に入り浸るだけ家の手伝いは余計にしなくなっていったのだが。

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