月影玉兎

第一節 月明かりの壁画

 桃蘭香とうらんかは今夜もまたいつも通り、母親が寝静まった頃にこっそりと家を抜け出した。彼女の家は飯店を兼ねてはいるが宿屋は営んでいない。加えてその母親は一度眠るとなかなか起きないので、大きな物音さえ立てなければ抜き足差し足の必要もなかった。

 家を出てまずは周囲を見渡し、衛視の姿がないことを確認する。長年この宿場町で暮らしてきた彼女にしてみれば、彼らの巡回経路などとうの昔に把握済みだ。……まあ、それで良いのかと思わないこともないが。

(ま、見つかったところで捕まえられるはずもないんだけどねー。だってあたしは俊足だから)

 ふふん、と鼻を鳴らし、得意気に隠れていた物陰から飛び出す。多彩な色合いの布を継ぎ当てたその衣服は色彩豊かな曼荼羅のようである。襟縁には蓮の花を模した飾りまで縫い取られて華やかだが、なぜか二の腕部分はざっくりと切り取られてしまっており袖は肘から先の分しかない。腕を見せるだけでも世の娘は赤面ものなのに、蘭香はさらに太腿の半分までしか丈のないやけに体に対してぴったりとしたズボンを履いていた。当然そこからは白い肌があられもなく覗いている。頭には薄緑の長布をぐるりと巻き付け、余った長い両端をひらりと風に舞わせている。その布には蜻蛉の羽根に似た藍色の玻璃細工が一緒に巻き付けられ、キラキラと月明かりを受けて輝いていた。――実に闇夜に乗じるつもりなど毛ほども感じられない装いだ。そして手に携えるは一振りの刀。

 今宵は満月。少女は迷いなく歩を進め、やがて宿場町の裏にそびえる山の中へと分け入って行った。もう何度も通った道なのか、目印もない道なき道を迷いなく進んで行く。そうしてしばらくした頃、ぽつんと小さな道観が現れた。

 もう誰にも省みられなくなって久しいようだ。壁面は蔦に覆われ、破れた部分さえある。廟内は人が数人並んで寝転がる程度しかない。奥には申し訳程度の祭壇が設けられ、顔のない女神像と、その左右の侍女像だけが奉られていた。

 道中で身についた枝葉を払い落とし、蘭香は廟内へと踏み入る。神像に拝礼し、そしてすらりと刀を抜いた。

 滑らかな曲線を描くそれは柳葉刀りゅうようとうと呼ばれる物だ。少女はそれを片手にひゅんひゅんと振り回し始めた。端からみればただ適当に振り回しているように見えるが、実際適当に振り回している。武芸の修練をしているつもりなのは本人だけだ。

 蘭香がこの廃廟で独自に武芸の修練を積み始めたのは、まだ一年前のことだ。当時彼女は十二歳だった。母親に言われて納屋で捜し物をしていた折り、崩れ落ちてきた荷物の中からこの一振りの柳葉刀が転がり出たのだ。

(あたしには武芸の才能があるから、それを十分に発揮せよと天が与えてくださったんだわ)

 根拠のない妄想を疑いもなく信じ込むのは彼女の最も得意とするところだった。その夜密かに家を抜け出した蘭香は、人気のない場所を探して裏山に入り、この廃廟を見つけたのだ。これが余計に思い込みを加速させた。以来毎晩夜中に寝床を抜け出しては剣を振り回し、その挙げ句に昼間に居眠りするのが習慣と化した。母親からは何度も怒鳴り散らされたが、内心で「いずれあたしが江湖に名を馳せる大英雄になった時に後悔するわよ」と呟いては適当に反省した振りをするばかり。おかげで近所ではすっかり「ダメな不良娘」の扱いだが、それを知らぬ本人はいい気なもの。自分は強さと美貌を兼ね備えた女傑の卵だと信じて疑ってはいなかった。

 ――要するに、この桃蘭香という少女は思い込みの激しい、端的に言ってしまえばイタい娘なのである。

 ヒュンヒュンヒュン。剣風が更に勢いを増す。いつにも増して殺気立っているようだ。それもそのはず、先日、彼女はこの廃廟で二人の男たちに出会った。彼らは蘭香より少し年上と思われたが、その武芸の腕前はそれよりも更に上だった。散々な目に遭わされ、それを思い出す度に怒り心頭なのである。

「マジであいつら、ムカつくわ。見てなさいよ。あの時あんたたちは卑怯な手であたしをもてあそんだけれど、あたしは正々堂々とあんたたちをやっつけてやるんだから。怖じ気づいてないで、出てきなさいよ。二度と顔も見たくないわ!」

 ヒュンッ! 大きく一振り、鞘に収める。少し上がった息を整えるため蘭香はすとんとその場に座り込んだ。

 それまで薄雲に遮られていた満月が、その時ゆっくりと姿を現した。破れた壁の隙間から、ゆっくりと月光が差し込み廟内をほんのりと照らし出す。

 この時ようやく、蘭香は異変に気づいた。いつもと違う光景だ。何が違う? 三秒考え込んでからその違和感の正体に気づく。

 壁一面に、昨夜までは存在しなかった奇怪な文様が描かれていた。白い、これは石灰か何かだろうか? 月光を遮らないように近づいてその文様を観察する。すぐにそれが人の姿、それも剣を携えた人間の絵であることに気づく。蘭香は祭壇へと飛んで行き、割れて欠けてしまった丸鏡を持って戻った。月光を誘って更に観察するとそれらの絵が連続した一つの動き――武芸の型を演じるものであると知った。

 はっとして振り返る。さわさわと外で木々の葉がさざめく音が聞こえたが、人の気配はない。次いで祭壇の女神像を見やり、この奇妙な壁画の意味を探った。これは初めからあったものではない。確かに昨日まではこんな絵はなかったのだ。それがどうして突然現れたのか。

「――簡単だわ、そんなこと。天があたしに武芸を授けて、この世の悪を討てと望んでおられるのだわ。ならばこの桃蘭香、必ずご期待に応えて見せましょう! まずはあの悪党どもを討ち取って、然る後に江湖に蔓延る悪人どもを一人残らず斃して見せましょう!」

 ひざまづき、額を床に押し当て三回叩頭する。これは弟子入りの礼である。彼女は本当に神託を受けたと考えているのだろうか? 否、そうではない。その胸中では未だ疑念が渦巻いていたのである。

(何かの悪戯だと考えるのが妥当なんでしょうけれど、こんな場所を知っているのはあたししかいないはず。それに壁一面というのは尋常ではないわ。あたしだって莫迦じゃないんだから、明日良く調べてみて、本当に使えそうな武芸であれば遠慮なく学ばせてもらいましょう)

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