第三節 急な話
そうして、瞬く間に一年が過ぎた。
蘭香はもう十四歳になっていたが、その生活は昼に習った内容を夜に実践し、また少し書き写して翌日持参するのが日課となっていた。一文字毎に解説を求めていたのも今ではすっかり減り、問いの内容も文の意味、要訣に迫るものへとなって行った。
「本当に、君はこれをどこから持ってくるんだい? 易学や医学の知識まで持ち出してやっとそれらしい解釈ができるかどうかじゃないか」
「何よ、迷惑だって言いたいの?」
「まさか、むしろ逆だよ。これだけ多岐に渡る知識が要求される学書なんてそうそう見当たらないよ。どんな面倒かと最初は思ったけれど、今じゃ本当に感謝したいぐらいさ」
「あらそう。なら心おきなく感謝なさい」
蘭香は昨夜書き取ってきた文章を読み解くのに集中して明らかな生返事だ。やれやれと少年は肩を竦めるが、その口元には笑みがあった。ちらりと蘭香の横顔を見つめ、またすぐに自分の勉強へと向き直る。しかしいくらも読み進まぬうちにそれも卓上に投げてしまった。
「――話があるんだ」
何の前触れもなく、唐突に切り出した。
「うん?」
蘭香は声だけ返して顔を向けようとはしない。手にした文と「黄帝内経」の文言を見比べるのに集中している。少年は構わず話し続けることにした。
「明日、この家を出ることにしたんだ。もしかすると、今日が君と一緒に勉強できる最後の日かも知れない」
「へぇ……はぁ!?」
ようやく蘭香も驚いて顔を上げた。
「ここを出るって、なんでよ? お兄さんとは仲も良いんでしょ?」
「もちろん兄弟仲は良好さ。お互いたった一人の肉親だもの。でも、だからこそなんだ。僕がこうやって毎日勉強に集中できるのも、兄さんが働いて僕を養ってくれるからさ。そろそろ恩返しをする時なんだ。今度の郷試を受けるつもりなんだよ」
郷試とは官僚登用試験の科挙における、まず初めに受験する地方試験である。その後、中央の会試で合格すれば年齢如何に関わらず官僚として朝廷に迎え入れられるのだ。この時代、官僚になるとはすなわち栄華を手にすることと同義であった。
「あんた、官僚になるつもりだったの……?」
「むしろ、ならないとでも? そうでなければ勉強なんてしないよ」
蘭香はぽかんと少年を見つめた。昔から知った仲ではあったが、そんな大望を抱いていたとは。
少年はそれをどのように受け取ったのか、鼻の頭を掻きながらやや照れくさそうに、
「まあ、幸い僕らはお互い読み書きができるんだ。だから手紙を送るよ。勉強は見てあげられないけど、君も君のことを教えてよ。それでもしも科挙に及第できたなら――」
「何言ってんの?」
蘭香の声は、しかしぞっとするほどに冷たかった。予想もしていなかった言葉に少年は言い掛けたものを飲み込まざるを得なかった。一瞬視界に映った蘭香の緑の瞳は、とても正視できない冷たさだった。
「あんたがいなくなったら、あたしは誰にこれの解釈を聞けば良いのよ? 読めない文字が出てきたらどうするの? そんなに大事なことを、なんで今になって言うのよ?」
「それは……」
「莫迦じゃないの? 世の中にはあんたなんかよりもずっと出来の良い奴が山ほどいるのよ。自分ができる奴だと思い込んでいるのなら滑稽だわ」
「そればっかりは君に言われたくないなぁ……」
ぎろりと眼光を発すると少年はそれ以上なにも言わなくなる。蘭香は「黄帝内経」を卓上に叩きつけると、無言のまま席を立った。
「どこへ行くんだい?」
「帰るのよ。もうそろそろ戻らなきゃ母さんに叱られるわ。――じゃあね。もう二度と来ないわよ」
少年は咄嗟に呼び止めようとした。呼び止めようとしたが、言葉が出なかった。それはもはやおこがましい行為であると思えたからだ。走り去る蘭香の後ろ姿を、少年は静かに見送るしかなかった。
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