第二十八節 仇敵との対面

 斐剛は足を叙修の胸から下ろすと、銅鐘が直撃した後頭部を撫でさすった。常人であればいざ知らず、硬気効で守られた体には瘤一つ無い。ふん、と斐剛は鼻を鳴らした。こんな罠で自分を仕留めようなどとは――。

「むっ?」

 気配を感じて、再度三重塔へと踏み込もうとした足を止める。向けた視線の先、裏門の塀を飛び越える小柄な人影が見えた。

「何者だ!」

 斐剛とその人影は同時に互いを誰何した。

 現れた人影の正体は、むろん不空である。軽功で塀を一足で飛び越えた彼は、目の前の光景を見て一瞬状況を掴みあぐねた。

(梁家甘処を襲ったのは五人と聞いていたが、二人しかいないぞ? しかも、どうして叙修は血を吐いて倒れているんだ? 他の三人はどこへ?)

 迷ったのは一瞬。どのみち叙修と一緒にいるのなら、この見知らぬ男が翡蕾を殺した一味の一人であることには間違いなかろう。それにあの長い顎鬚は少年から聞いた人相と一致する。

「よくも翡蕾を!」

 言うなり右掌を打ち込もうとする。斐毫もさっと右腕を掲げてこれを受ける。バァンッ! 互いの内力が衝突し、凄まじい破裂音を生んだ。不空は着地後も勢いを殺せずずるずると後退し、背中を裏門の扉に打ちつける。一方の斐剛はその場から微動だにしていない。

「なるほど、貴様があの小娘に武芸を仕込んだ寺男だな? 俺は今からお前の持つ紅袍賢人の武芸書を頂くが、この世に同じ武芸を有する者は不要だ。お前が未熟な内に、禍根は断たせてもらうぞ!」

 斐剛はシャッと剣を鞘抜き、間合いを詰めて斬りかかる。不空は飛び退こうとして、足先に何かがコツンと触れたのを感じた。見れば、門側に立て掛けていた竹箒だ。咄嗟に蹴上げて手にするや、突進する斐剛に向けて突き出す。

 以前は武芸など知らぬままに箒を突き出し、李白を痛い目に遭わせたことがある。今は武芸を学び、確たる攻撃の型でこれを突き出している。斐剛がざっと穂先を薙ぎ払おうとするや、ひらりとそれをかわして胸を狙う。斐剛は咄嗟に地を蹴ってこれを回避した。もしもこれが本物の槍やそれに類する武具であったなら、下手をすれば心臓を一突きされているところだ。

 斐剛の顔に、ニヤリと笑みが浮かんだ。

「上等ッ!」

 剣が煌めき、怒濤の攻撃が不空を襲う。後退できない不空は慌てて横に移動しながらこれを打ち払った。一歩間合いに踏み込んで首を狙った斐剛の斬撃を箒の柄で受け、空いた脇腹に突き出された剣指を歩法で距離を取って避ける。返しざまに下段から振り上げると、斐剛は一瞬飛び後退ってから今度は脚を狙う。箒で受け止めると、ザクッ、と五分の一ほど穂先が落ちた。

 しかしながら、これで不空は地の不利を脱した。むしろ、位置を入れ替わったことで今度は斐剛が後退し辛くなっている。びゅうんと箒を振り回すや、一転して攻勢に出た。二回連続で顔面に突きを繰り出す。斐剛は剣でこれを払い、その度に寸断された穂先が宙を舞う。これが斐剛の視界をかき乱し、なおかつ前進を阻んだ。踏み込んで万一穂屑が目に入ってしまえば視力を失いたちまち劣勢に陥るからだ。

「小賢しいッ!」

 ビュン! ――一陣の烈風。不空はどっと冷や汗を流す。斐剛は蹴りを空打ちして宙を舞う穂屑を吹き飛ばしたのだが、その蹴りはあまりにも早すぎて阻む隙がなかった。

(あれを攻撃として放たれたなら、一撃で倒されてしまう。いいや、一つでも食らえば命が危ないぞ!)

 箒を握りしめ、更に攻撃の手を早める。が、焦りは技を不完全なものにする。斐剛は不空の繰り出す技が早くも崩れ始めたのを見て、その隙をすかさず突いた。ぎょっとした不空はその度に後方へ飛び退き、みすみす斐剛の背が門から離れることを許してしまった。

(落ち着け、落ち着け! 脚よりも剣の方が間合いが広い。剣の間合いである限りは脚技は届かない。二つを同時に危惧することはないんだ)

 気を落ち着けた不空は焦りを抑え、一つ一つの技を丁寧に繰り出す。不空の隙が減ったので、斐剛はチッと舌打ちした。二人は更に三十合を交わした。一進一退、どちらも譲らない。箒の穂先はみるみる削れていったが、むしろ余計な重りが減って不空の技は一層冴え渡った。斐剛が間合いを詰めようとする度、悉くそれを阻む。

 突如、斐剛の剣が今までにない動きを取り始めた。型を変えたのだ。今までは力強く剣風を唸らせていたのが、今度は清流のように静かでしなやかな剣裁きになっている。斐剛のいかつい風貌には似つかわしくない剣法だ。実のところ、これは斐剛自身の技ではない。義妹である沙春昭の「騰蛇剣法とうだけんぽう」である。一幇会の中で技を他者に明かすことは義兄弟でもまずあり得ない。なぜならば武芸こそが江湖に生きる彼らの物種であり、他人にそれを教えるというのは自らの命を差し出すも同然なのだ。ところが、斐剛と沙春昭は愛人関係にあり、互いに技を教えあったことがあった。斐剛は不空の守りが堅いのを見て、一か八かでその時の技を思い出し手を変えたのだ。

 果たして不空は動揺し、一気に劣勢に陥った。最初は爽やかな涼風のように感じた剣の動きが、次第に武器にまとわりつく蛇のように思えてくる。剣先は常に不空の急所を狙い、いくら振り払おうとしても逃れきれない。しかしながら、この剣にはどうにも隙が多い。先ほどまでと比べれば技の完成度に雲泥の差がある。

(そうか、中々攻められないものだから技を変えたな? だけど普段修練していないものだから荒が出ているんだ。これは好機だ!)

 斬り下ろされた剣を受け掲げた箒で受けつつ、その下をくぐり抜けるように足を踏み出す。するりと剣刃は背後に流れ、不空は斐剛の懐に潜り込んだ。くいと手首を返して箒の柄の端を斐剛の手首に引っかけると、一気にこれを振り下ろす。斐剛の手から剣がもぎ取られて吹き飛び、裏門の門扉にドスンと突き刺さった。武器を奪い取った不空は、そのまま斐剛の左肩を打ちにかかる。

 ――そして、不空は自らが罠に誘い込まれたことを知った。肩を打たれた斐剛は、しかしながら獲物を捕らえた猛獣の目をしていた。

 打たれた斐剛の肩が手応え無く沈む。体が捻れていく。ざっと地面を蹴って飛び上がると、まず右足で不空の手首を蹴り払った。箒が不空の手を離れる。この時斐剛はほぼ体の正面を地面に向けた状態である。それが右足の着地と共に横を向き、その影から左足が姿を現す。それはさながら引き絞られた弩弓のように、がら空きとなっている不空の脇腹めがけて打ち出された。

 斐剛の武芸は蹴り技にその神髄があった。例え剣を手にしていても、決め技は常に脚技である。しかしながら長兵器相手では分が悪く、しかも不空は専ら防戦に勤めた。それでろくに修練もしていない「騰蛇剣法」を使って隙を見せ、不空にわざと攻め込ませたのだった。剣を奪われたのは想定外であるが、一撃さえ叩き込めればそれだけで再起不能に出来る。

 その目論見は見事成功し、不空の体は糸の切れた凧のように吹き飛び、そのまま三重塔の向かい側、厨房の窓を突き破って行った。直後、ガラガラとけたたましい音が鳴る。呻き声の類は聞こえない。当然だろう、斐剛は蹴りを放った瞬間、確かに骨が砕ける感触を得ていた。即死せずとも胸板は折れたはずだ、声など上げられるはずがない。

 パンパン、と手を打ち鳴らし、斐剛は息を吐いた。やれやれ、余計な時間を喰ってしまったな。そんなことを心中で呟きながら、いよいよ目的の物を手に入れるため、自慢の長髭を整えながら今一度三重塔へと足を向けた。

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