第二十七節 銅鐘落とし

 斐剛の一喝を皮切りに、白銀白虎の一行は大明寺に向けて出発した。叙修を先頭に立たせ、ぞろぞろと山道を連なって歩く。叙修は途中で何度も起死回生の手を考えたが、遂に何も思いつくことはできなかった。遠く夜の薄闇の先に大明寺の影を見るや、声を発せぬままに長嘆した。

「武芸書はどこにあるんだ? 本堂か? それとも別の場所か?」

 閻厖が問うのへ声を発することが出来ない叙修はそっぽを向いてこれに答える。斐剛はそれを見てフンと鼻を鳴らすと、迷わず正門前へと歩を進めた。

「長兄、正面から行くつもりかい?」

 沙春昭の問いかけに、斐剛は「もちろんだ」と答える。

「白銀白虎がどうして裏口からこそこそと入らねばならん? それに、叙修めは道は知っても武芸書の在処は知らんそうだ。であれば中の坊主に在処を聞かなければな」

 言うなりどんどんと荒々しく門戸を叩く。暫くするとぱたぱたと誰かが駆けて来て、カコンと閂が外される。

(莫迦野郎め、何だってそんなに簡単に門を開けちまうんだ!)

 叙修は悪態を吐きたかったが、口に布切れを突っ込まれているため喋れない。「方丈、お帰りなさい」と言いながら開かれた門戸を、斐剛はいきなり蹴り開けた。

 バァンッ! と凄まじい音を立てて門が開いた。向こう側にいた僧侶は顔面を打ちつけて吹っ飛ばされ、地面に転がっている。すかさず閻厖が駆け寄ってその襟首を掴み上げた。

「おい、紅袍賢人の武芸書はどこだ? 言わねば殴るぞ!」

 言いながら既に腹に拳を叩き込んでいる。おえぇっ、と若い僧侶は涎を垂らして呻いた。

「ぶ、武芸書……? 書物であれば蔵書閣に……。いや、そもそもお前たちは一体何者――」

「俺たちは白銀白虎だ。無駄口は良いから、さっさとその臓物煮込みとやらに案内しな!」

 言うなりどかっと僧侶の尻を蹴り上げる。まるで鞠でも蹴ったかののうに僧侶の体は跳ねた。どさっと地面に落ちるとわたわたと逃げ去ろうとする。しかし当然ながら逃げられるはずもなく、閻厖にはっしと襟首を掴んで宙吊りにされてしまった。これですっかり僧侶は肝を潰してしまった。がくがくと顎を揮わせながら、「蔵書閣はどっちだ」との問いにゆるゆると腕を掲げ、三重塔を指差した。

 白銀白虎の一同は僧侶をぽいと投げ捨てると、一直線に三重塔を目指して駆けた。大明寺の敷地は対して障害物もなく、武芸に秀でた彼らにとっては駆け抜けるのに造作もない。揃って三重塔の前にやって来ると、斐剛がずいと前に出た。

「いよいよだね、斐剛」

「ああ。いよいよだ」

 沙春昭の言葉に深々と頷く。喜色満面、斐剛は両掌に力を込めるや、ばんと大扉に打ちつけた。閂は一瞬早く蹴り上げて外してある。扉は左右に大きく開いた。――その時だった。

 ――ガァンッ! けたたましい金属音が夜の静寂を切り裂いて響いた。何事が起こったのか、誰もが一瞬呆気に取られて理解できなかった。目の前では斐剛が、何と白目を剥いて気絶している。隣にガランと転がったのは、銅の鐘だった。

「何が――」

 叙修は思わず一歩前に踏み出していた。それでようやく、鐘の吊り紐が地に落ちた閂に繋がっているのに気づいた。おそらくは何も知らない輩が閂を外せば鐘が鳴る仕掛けだったのを、誰かが釣瓶落としの凶悪な罠に改変したのだ。しかし誰が、何のために?

 疑問を思い浮かべたのと同時、顔面にひゅうと風が吹き付けた。はっと顔を上げた時にはもう襲い。眼前には既に、誰かの靴底が広がっていた。

「悪、滅、脚――!」

「ごぶぅっ!?」

 三重塔の中から突如として現れたその人物は、両手を上げて叙修の顔面に「着地」した。顔面を蹴られたままに地面に叩きつけられた叙修は手足をびくびくと痙攣させていたが、やがてばたりと動かなくなった。死んだのか気絶したのか判然としない。

「いよっぉぉぉぉぉぉしゃぁぁぁぁぁ! 見事に決まったぞ。いやぁ、見事見事。こんなチンケな罠と技にかかるとは、これはよっぽど間抜けな盗人に違いないわい。――で、お主ら一体何者じゃ?」

 叙修の顔面をぐりぐりと踏み躙りながら言うのは、老人言葉に似合わぬ赤い髪の年若い少年だ。言わずもがな、李白である。

 突然の出来事に残された白銀白虎の面々は目を白黒させた。あまりのことに理解が追いつかないのだ。その様子を見て李白はげらげらと指を差して笑った。

「間抜けな面じゃ。ほぅれ、悔しかったらこのわしを捕まえてみよ。もっとも、間抜けな盗人どもにはそんな事は出来まいがな!」

 言うなりぱっと飛び上がるや、塀を飛び越え姿を消す。年の割に見事な軽功だ。それでようやく、沙春昭らも自らが侮辱されたことに気づいて唇を噛み締めた。

「追うよ!」

 沙春昭が先陣を切り、その後に閻厖、溟封子と続く。立っている者が誰もいなくなり、騒がしかった蔵書閣前は一転、シンと静まりかえった。残されたのは気絶した斐剛と叙修のみである。

 ――どれほどの時間が経ったのか。あるいは大して経過もしていないだろう。先に目を覚ましたのは叙修だった。李白に踏み躙られた顔面を撫でさするが、意外にも軽傷である。と言うのも、李白は確かに蹴りを放ったが軽功を使って跳躍したために体重を乗せることなく叙修の顔面に降り立ち、叙修は単に地面に後頭部をぶつけたに過ぎなかったのだ。

 上体を起こした叙修は、周囲を見回して首を傾げた。斐剛は扉前で伸びたまま、他の奴らの姿が見えない。気絶させられていた彼には李白の存在など知りようもなかった。

 ここでふと、叙修は今一度地面に伸びた斐剛に視線を移した。今ここには白銀白虎の他の面々はいない。両腕の点穴も解けている。――今ならば、易く斐剛を葬れる。

 ぶるっと体を震わせる。叙修とて今まで一度も人を殺めたことが無いわけではない。とは言え、それは皆技を競い合った果てでのこと、意識のない相手を闇討ちのように襲ったことなど一度もない。しかも、今目の前にしているのは曲がりなりにも兄と仰ぎ見ていた相手だ。卑怯な手で討ち取ったところで、それは江湖の誰からも後ろ指を差される行為となる。

(後ろ指を差されることが何だ? こいつを生かしておけば紅袍賢人の武芸を得てもっと大きな災いをもたらすだろう。それを事前に討たないこと方がどうかしている!)

 もはや江湖での評判だとか自身のこれからなどについては度外視だ。叙修は決意すると、近くにあった大岩を持ち上げた。これを頭に投げ落とせば、それだけで片が付く。後はどこへとなり逃げれば良い。沙春昭たちが追って来たら? 一人ずつならまだ返り討ちにも出来ようし、出来なければ死ぬだけだ。

「斐剛、覚悟っ!!」

 大喝一声、頭の上に岩を振り上げる。その瞬間、斐剛がカッと目を見開いた。真っ直ぐ叙修を見返している。今まさに目を覚ましたのか、それとも既に気がついていたのかは定かではない。叙修はぎょっとして振り下ろしかけた腕を止めた。それが全てを分けた。

 斐剛は地面に寝転がったまま、叙修の脚を蹴り払った。常ならばそれぐらいで動じはしないのだが、驚いたのと岩を振り上げていたのとで叙修はどさっと横倒しになってしまった。入れ替わるように斐剛が飛び起き、叙修の胸板を踏みつけた。

「役立たずが、臆病風に吹かれたか? 貴様はもう用済みだ!」

 ぐいと足裏に力を込める。傍目には体重を載せ替えただけのように見えるが、実際には激流のような内力が叙修を襲っている。たちまち叙修は体内の血が沸騰するかのような思いがして、がっと血を吐くや昏倒した。

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