第二十九節 真っ黒な罠

「わーはっはっはっはっはうひゃひゃひゃひゃうえうぇっふごっほ、うきょきょきょきょきょきょー!」

 奇怪な笑声を挙げつつ李白が駆ける。軽功を駆使し、戴天山の森を枝から枝へと渡り歩く。時には枝にぶら下がり、時にはくるくると回りながら。その後を怒りに燃えた白銀白虎の面々が追う。

「待て、待たないか!」

「待てと言われて待つと思うのなら、貴様らの頭を叩けばさぞ良い音がするのじゃろうな!」

 既にどれだけ走ったか分からない。李白との距離は一向に縮む気配を見せないが、白銀白虎の間では次第に軽功の力量差による遅れが見え始めていた。先頭は沙春昭だ。彼女の異名は「緋面駆虎」、その名の通り白銀白虎随一の軽功の使い手なのである。その次に続くのは、意外にも閻厖だ。沙春昭ほどではないが、その肥満体からは想像できない快速っぷりである。末弟の溟封子は既に姿が見えない。

「はっ! しぶとい奴じゃ。であればそれ、これならついて来れようかな?」

 李白が更に速度を上げる。沙春昭は自身の軽功の腕前に絶対の自信を持っていたが、こんな片田舎の山奥で無名の若僧に追いつけないだけでも屈辱なのにわずかに距離が開き始める。当然、負けじと速度を上げてぐいぐい追い上げた。その結果としてとうとう閻厖も置いてけぼりを食らう羽目になった。

「おっひょひょひょひょひょ、まだついてくるか! そんなにわしの尻を追い回すとは、さては貴様は変態痴女じゃな? キャー怖いー!」

「バカを言うんじゃないよこのクソガキめ! 今に貴様の五体を引き裂いて、その粗末なものを犬に喰わせてやる!」

「うひゃあっ、それは勘弁じゃ!」

 ぶるっと肩を震わせ、両手で股間を押さえながら逃げる李白。沙春昭は上着の合わせ目に手を差し入れると、さっと暗器を三つ放った。しかし木々の枝葉が邪魔をして李白の背中には届かない。振り向き、李白はにやっと笑った。

「ほっ! やれるものならやってみぃ」

 枝を掴み、ひょいと地面に対して水平に体を寝かせながら李白が飛ぶ。怒り心頭の沙春昭は更に強く前に蹴り出して――。

 バギィッ!

「うっ……ごあッ!」

 目の前の「何か」に顔面を強打し、自らの鼻柱が砕ける音を聞いた。そのまま駆けてきた勢いのままぐるりと縦回転、腹這いの形で地面に叩きつけられる。グキッ、と今度は肋骨が砕ける音を内側から聞く。叩きつけられた地面は岩だらけの河原だったのである。肉体が壊れる音の後は、ざあざあとただ水の流れる音だけが聞こえて来る。

 沙春昭はまず顔面を押さえ、ぬらりとしたものが手のひらにこびりつくのを感じ取った。その手を眼前に持ってくると、真っ赤な血と、黒い何かがべっとりと付着していた。

(これは……墨か?)

 それでようやく、李白の罠に気づいた。いつの間に仕掛けていたのかは知らないが、黒く墨汁を塗られた枝が紛れていたのだ。李白はわざとそこまでの道のりで無駄な動きをして挑発し、そして何の違和感も抱かせずに己はその枝を通過した。ただ追いつくことだけに集中していた沙春昭は、闇に溶け込んだ黒染めの枝に真正面から衝突したと言うわけだ。

「よくもあたしの顔を……貴様、このっ!」

「さぁぁて、犬に喰われるのは果たしてどちらじゃろうなぁ?」

 李白の声と同時に、何かが闇の中から唸った。はっとして沙春昭が身を起こすと、月明かりの下、いくつもの凶悪な眼光が彼女を取り囲んでいた。血の臭いにかなり興奮しているのがその荒々しい息遣いから分かる。そして悟った。李白が仕掛けた罠の、本当の意味に。

「ちょっと、まさか、そんな――」

 その問いかけに答えるように、狼の群れは一斉に襲い掛かった。

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