第二十二節 緋面駆虎と大力鉄虎

 その震える肩に、二姐が手を掛けた。

「三弟、もういいだろう。こんな奴らは放っておけ。あたしらがここへ来た理由はこんな愚図どもを仲間にするためじゃあない。それを忘れるんじゃないよ」

「わかっている……わかっているさ。かつてのよしみで声をかけてやったのに、莫迦な奴らだぜ」

「――それに、あたしらを侮辱する言葉も言ったねぇ?」

 ぎょっとして叙修は振り向いた。同時に二姐の手に力が入る。

「躾のなっていない義兄弟じゃあないか。少し痛い目を見たほうが良いんじゃないかい?」

「二姐、たった今俺たちは兄弟の縁が切れた。構うことはない」

「……三弟、まさかとは思うけど、こいつらを庇っていないだろうね?」

 言葉に詰まる叙修。そのやり取りを聞いて、馬参史と閔敏は自然と身構えていた。二姐は逃げない二人を見て、ニヤリと微笑んだ。

「白銀白虎を悪党呼ばわりしたね? 腰抜けの叙三弟に変わってこの「緋面駆虎ひめんくこ」こと春昭しゅんしょうが、お前たちに白銀白虎とは何かを教えてやろうじゃないか。――閻四弟、溟五弟、来な!」

 呼ばれた閻厖は慌てて最後の「桃果醇香」を飲み込むと、どてどてと卓を回り込んで二姐こと沙春昭の隣に立った。しかしながら溟五弟は椅子に座ったまま動こうとしない。

「溟弟、どうした。なぜ来ないんだい?」

「……二人に対するならば二人が良いでしょう。私たちは数に任せて弱い者苛めをするわけじゃない」

 至極真っ当な意見である。ふん、と沙春昭は鼻を鳴らし、馬閔に向き直った。閻厖も八稜錘を取って身構える。

「取り敢えず謝って許しを請うなら、何もしないでやろう。さもなければその不憫な顔がもっと酷いことになるよ?」

「それってあたしに言ってるの、おばさん?」

 瞬間、沙春昭の顔面が真っ赤に染まった。彼女の異名「緋面駆虎」とは、怒りを発するとたちまち血が昇って緋面となること、そしてその素早さに由来しているのだ。瞬きする間に間合いを詰め、閔敏の顔面に向けて拳を突き出す。はっとした閔敏は後方へ仰け反って間一髪これを回避――したかと思いきや、拳が突如開き、そのまま真下へと掻き下ろす。バリッ! 服を破られ、閔敏の首元から胸の中心までが露わになった。その肌には三本の爪痕が残ってぷつぷつと血の珠が浮かび上がる。

「閔妹!」

 横から割り込もうとした馬参史だが、唸る風音に遮られる。胸元に掲げた腕に強い衝撃が加わり、そのまま吹き飛ばされた。客のいなくなった卓に背中から叩きつけられる。

 店内に残っていた客たちが、一斉に蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

「お前の相手は、俺だっ!」

 振り抜いた八稜錘を今度は真上に振り上げて襲い掛かる閻厖。ごろりと卓上を転がって馬参史はこれを回避するが、卓は一撃で真っ二つになってしまった。もしも直撃を受けたなら臓物を撒き散らしていたことだろう。馬参史はごくりと唾を呑んだ。その姿を見て、閻厖は笑みを浮かべる。

「俺の異名は「大力鉄虎たいりきてっこ」。お前はひ弱そうだから、俺には勝てないね」

「いいや、お前も勝てないさ」

 そう言って馬参史はくるりと背を向ける。タンッ、と地を蹴り距離を取る。

「あっ、待て!」

「誰が待つか。お前は俺に追いつけず、自慢の一撃が届かなければ勝てもしない!」

 客が離れた卓と椅子を軽く蹴って馬参史は店の奥へ向かう。閻厖はその後を追おうとするが、卓を飛び越えられずに力任せにこれを薙ぎ払う。当然、それでは馬参史に追いつくことはできない。

 そうこうしているうちに、店の奥へ消えた馬参史がまた戻って来た。手には二つの細長い布包みを持っている。襲い掛かる閻厖をひょいと避け、また店の外、徒手空拳の攻防を繰り返す閔敏と沙春昭の元へと向かう。

「閔妹、受け取れ!」

 言って包みの一つを投げる。沙春昭はこれを打ち落とそうとしたが、閔敏の手が一瞬早くその端を掴み取っていた。

 バサッ、沙春昭の手が意図せず包みを解く。中から現れたのは三節棍、閔敏の得物である。

「さあ、無礼なお客には退散願おうか!」

 馬参史もまた包みを解く。その中身は二振りの鉤剣、彼の得物だ。構えるなり沙春昭の首と腰を狙う。さらに閔敏の突きが下腹を狙い、これには後退して距離を取るしかなかった。

「二対一かい、卑怯者め!」

「いいや、二対二だ。そちらの一人が使い物にならないだけさ」

 沙春昭は堪らず、腰の剣を引き抜いて二人の猛攻を受け止める。

 その様子を見ていた叙修はほっと息を吐き、次いで慌てて口元を押さえた。ちら、と坐したままの溟五弟を覗き見る。するとぴたりと視線が合った。

「――叙三兄、座ったらどうです?」

「お、おう……」

 他に返す言葉もなく、言われるまま腰を降ろす。叙修はとにかく、この溟六弟――「双牙幽虎そうがゆうこ」こと溟封子めいふうしが苦手だった。その名の通り幽霊のようで気味が悪く、それでいてこちらの胸中を見透かしたかのような物言いをするのだ。いかに普段から兄弟として呼び合っても、仲良くできる相手ではない。おそらくは今の安堵の声も聞かれてしまったに違いないのに、それを聞かなかったかのように話しかける。

「あの田舎者、なかなか上手く立ち回るじゃありませんか。三兄がそのように育てたので?」

「あ、ああ……あいつらの武芸はあいつら自身の我流だが、基本となる部分は俺が教えたものだ」

「さすがですね。沙二姐と閻四兄のどちらにも及びませんが、だからこそ真っ先に沙二姐一人に狙いを絞っている。さすがに二人で攻められては沙二姐も危うい」

 言っているうちに、沙春昭と馬閔の攻防にようやく閻厖が割り入った。すると馬参史は一度戦線離脱して距離を取り、閻厖はまたその後を追う。十分に距離をとってから、また馬参史はぐるりと回り込んで閻厖を置き去りに、沙春昭への攻撃を再開する。確かにこの有様では一方的に沙春昭が攻められるだけだ。

「……加勢するのか?」

 まさか、と溟封子は嗤った。それは不安を見せたことに対してか、先見の明がないことに対してか。

「必要ありませんよ。沙二姐もこれぐらいお見通しだ。それならここは、奥の手でしょう」

「奥の手?」

 叙修が問い返すのと同時、沙春昭が叫ぶ。

醜女しこめ醜男ぶおとこが、このあたしを追いつめるとはやるじゃないか。でも閻厖はほったらかしで良いのかい?」

「放っているんじゃない。あいつが追いつけないだけさ」

「……どうして、追いつけないんだい?」

「あんな太っちょ、この馬参史の軽功に追いつけるはずがないだろう!」

 言った瞬間、馬参史は沙春昭の口元に笑みが浮かんだのを見た。あれは、何だ? ――考えるより早く、後頭部に激痛が走る。

「兄さん!」

 閔敏の声が遠い。落ちそうになる意識を何とか掴み取り、馬参史は背後を振り向いた。そこにいたのは紛れもない閻厖の姿だ。莫迦な、と心中で呟く。今までのやり取りから見積もっても、こいつが追いつくまであと五秒はあったはず。それがなぜ、既に目の前にいて、こんなにも目を血走らせているのか。

「俺が、何だって!?」

 びゅうん! 八稜錘が唸りを上げる。馬参史は間一髪でその殴打から逃れる。が、沙春昭との距離は開いてしまった。つ、と後頭部からの出血を感じる。

「俺のことを、太っちょだとかぬかしたなテメェー!」

 猛追。先ほどまでとは明らかに早さが違う。まるで猪の如き突進力だ。咄嗟に馬参史は背後にあった卓の縁を蹴って上方に飛び上がり、これをやり過ごす。ドカッ! 直撃を受けた卓が粉々に砕け散った。

(なんだこいつ、さっきとは全然動きが違うっ!)

 思った瞬間、振り向きざまの薙ぎ払いが襲い掛かる。馬参史の驚くまいことか、これほどまでに素早い連撃は予想外だ。加えて、まだ足が地についていない。当然受けられるはずもなく、脇腹に強烈な一撃を食らう。パキンッ、挟まれた鉤剣が圧し折れる。打ち飛ばされた馬参史の体は壁に激突し、ずるずるとその場にずり落ちる。

「兄さん! 貴様っ、この肉団子め!」

 閔敏が沙春昭の元を離れて閻厖を背後から襲う。首筋へ向けて突きを送り込む。しかしぐるりと振り向いた閻厖は、血走った眼で閔敏を睨みつけた。閔敏が一瞬気圧された瞬間、その腹を八稜錘が直撃した。閔敏の体は振り抜かれた勢いのまま打ち上げられ、「梁家甘処」の扁額に激突。諸共に地面へ叩きつけられた。うえっ、と一声、どっと鮮血を吐き出す。遠巻きに様子を見ていたやじ馬の中から、わっと悲鳴が上がった。

「う……あぁ、痛い……痛いよぉ。助けて、兄貴……助けてよぉっ!」

 蹲りながら上げた顔、血と涎と涙と泥に塗れた閔敏の視線が叙修に向く。咄嗟に叙修は立ち上がろうとした。しかし動けない。見れば、溟封子の握った剣訣が卓上に置いた叙修の手、その「陽池穴」を押さえていた。まるで縫い止められたかのように動けない。

「溟弟、何をする! ……くそっ! 二姐、もう良いだろう。あいつらの負けだ。閻弟を止めてくれ!」

 無茶を言わないでおくれ、と沙春昭は剣を納めながら嘆息する。

「ああなってしまった四弟は誰にも止められない。それは三弟だって知っているだろう? それにもう三弟とあいつらの間にはもう何の繋がりもないんだ。放っておけば良い」

 そんな、と声を漏らし、叙修は助けを請うかつての義妹の姿を見る。しかしその間に閻厖の巨体が割って入った。一切の慈悲を見せる様子もなく、高々と八稜錘を頭上に掲げた。それを見上げる閔敏の顔に浮かぶのは絶望。今から自分の頭は西瓜のように叩き潰され、脳漿を撒き散らすのだという確信。逃げられない――死。

「やだ……嫌だっ!」

「俺を、肉団子とか、太っちょだとか、そんな風に侮辱しやがったヤローはっ! 生かしておかねぇ!」

 閻厖の腕が、八稜錘が、振り下ろされる――その瞬間。その背後、沙春昭や叙修、溟封子らよりもさらに背後から何かが飛来し、その後頭部に直撃した。閻厖は驚いて振り返り、そして地面に転がったそれを見た。自分の邪魔をしたそれは、編み籠だ。

「――何をしているの!」

 振り返りかけた叙修と沙春昭の頭上を何者かが飛び越えた。ざっと降り立ったその後ろ姿は少女である。

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