第十節 琴を抱いて来たれ

 辛悟が泥だらけになりながら「後片付け」を終えて再び門をくぐると、げらげらとうるさい笑声が出迎えた。

「勝利、勝利、大勝利! かような日には勝利の美酒に酔うのが道理、それなのに辛悟ときたら、おみゃ~は何をやっておるんじゃ?」

 どこかから見つけてきたらしい酒瓶を片手に、既に真っ赤な顔の李白が院子の中央に卓と椅子を持ち出してふんぞり返っている。卓にはいつの間に準備したのか酒と肴が隙間なく広げられていた。さし当たり厨房辺りを漁って偽鏢局の仕込んでいたものを拝借し、一人であおっていたのだろう。やれやれ、人がいくつも穴を掘っては埋めを繰り返している間に随分なことだ。――いっそ一緒に埋めてしまえばよかったか。

「ほれほれ、早ぅこっちへ来て、まずは一献傾けぬか」

 並々と酒を注いだ杯を差し出す李白。しかし辛悟はこれを無視してぐるりと周囲を見渡した。

「東巌子はどこだ?」

「んん? その辺におらぬか?」

 いないから聞いているのだ、この役立たずめ。

「祝勝会をやるから消えるなよと言っておいたのじゃがなぁ。しかし消えてしまったからには仕方がない。じゃから、ほれ。さっさと呑まぬか」

「俺は下戸だと言ったぞ」

「つれないのぉ、この男は。だから貴様は辛悟なんじゃ」

「おめーそれはどういう意味だ?」

 辛悟がギロリと睨めつけるのも気にせず、李白は酒杯を掲げたまま卓をうるさくバンバンと叩いた。

「わしはぁ~、とにかくぅ~、酒を楽しく飲みたいんじゃよぉ~。じゃから辛悟もこっち来て一緒に呑もうじぇ~。むしろもう誰でもいいからわしと呑もうじぇ~」

 何だこのウザさは。まるで駄々をこねる子供そのものである。辛悟は当然の如くこれを無視した。相手にすれば疲れるだけなのだ。一々応じてやる必要はない。

 しかしながら、李白のさらに後ろ、正房の方からこの要求に応える者がいた。

「それじゃあ、ご相伴に預かるとしようかしら」

 聞き覚えのない声に、辛悟と李白は同時にそちらへ視線を向けた。

(……誰だ?)

 正房の戸口に、少女が立っていた。見たことのない少女だ。年の頃は二人よりもやや下ぐらいか。顔つきは細いが目はぱっちりと大きく、赤い瞳がはっきりと見える。しかし一番目を引くのはその白髪、そして肌である。雪のような肌などという表現でも足りない、本当に白い肌をしているのだ。それがために、このような人物には今まで会ったことがないと確信できた。しかしながら、辛悟は同時にまさかと思った。その風貌に見覚えはないが、身につけた黄土色の袍と手にした杖、そして背に負った七絃琴には見覚えがある。あれはまさか……。

「おう、東巌子か。随分と若返ったのぅ」

「いや若返ったって程度じゃ済まないだろこれは!?」

 年齢といい性別といい、何もかもが真逆になっているじゃねーか! むしろなぜ李白はそれを一切の疑いもなくさも当然の如く受け入れるのか甚だ疑問である。

 李白は早速浮き足立ってとって返すや少女を院子に引っ張り出し、椅子に座らせ杯を勧める。

「さあさあまずは一献傾けよ。それで初めてわしらは兄弟となり、今後は東兄と呼ばせてもらおうぞ」

「では頂くわ。そして今後は李弟と呼ばせてもらうわね」

 そうしてぐいと一気に呑み干す。李白は拍手喝采して自身の杯も呑み干すと、また別の酒杯をなみなみと満たした。

「さあ今度こそ辛悟の番じゃ。まさかここにきて下戸だ何だと言いはすまいな? さあさあここへ座って、さあさあ呑め。さあさあさあ!」

 さすがにこの流れで否やを言うつもりはない。言われるまま辛悟も椅子に腰を降ろすが、視線はまだ訝るように少女を見つめていた。

「……一応聞いておくが、東巌子なのか?」

 自分でもバカな問いかけだとわかりつつ、そう問うてみた。すると少女はくすりと花咲くような笑みを浮かべ、そうよ、とだけ答えた。本当はもっと聞きたいことはあった。しかしもはや面倒になり、それ以上問い詰めるのは止めにした。

「さあ、呑もう!」

 李白のその一言をかけ声に、三人は一杯、また一杯と杯を重ねた。照らす明かりは月明かりのみ。眺めるのは院子に生えた小さな草花たち。風もないのにゆらゆらと揺れるそれらを、宴を彩る舞妓に据え、リイリイと響く虫の声を楽士とする。

 やおら東巌子は背に負っていた七絃琴を膝に乗せ、緩やかにその絃を弾いた。心洗うような音が響く。それは散々この数日間で聴かされた曲であったが、今はその音色も異なって聞こえる。空虚な胸を埋め尽くす寂寥感と、それを癒す抱擁に似た心地良さ。――唐突に、辛悟の口から一編の詩句が零れ落ちた。

を望んでは其の人を思い、室に入ってはし所を想う。幃屏いへい髣髴ほうふつたること無きも、翰墨かんぼくには餘跡よせき有り」

 これは西晋の詩人潘丘はんがくの「悼亡詩とうぼうし」、亡き妻を悼んだものである。

 家を眺めては妻のことを思い出し、室内に入れば共に暮らした日々を思い出し、帳や衝立の側にもはやその姿はないが、書画衣装の類からは未だに在りし日の姿が蘇る――。

 そのような意を含むが故に、この曲は時に清風のように静かでありながら、悲哀や嘆きのようにも聞こえたのだ。加えて東巌子の演奏は情が込められ心を揺るがすものがある。

(さて、この年若い乙女は誰を亡くしたのか。その儚げな横顔と白髪に、どのような憂いを刻んできたのか)

 酔いが回った辛悟はいつになく感傷的な事を思い浮かべる。そこで東巌子は演奏を終え、そっと絃を掌で押さえてはふうと息を漏らした。

「ようやく、終わりまで聴いてくれたわね。「琴をいだいてきたれ」と言ったのはそちらなのに、聴かせようとすれば逃げ回るのだもの」

「はて、そんな事を誰が言うた?」

 じろっ、と李白を睨みつける視線は二つ。

「お前だ、お前。酒を呑んだ勢いで読み上げた詩があっただろうが。御大層に筆を取り出し、あわや壁に大書するところを俺が止めたのだ」

 んん~? と首を横方向に傾げる李白。考え込むこと五秒、ああと言って手を打ち鳴らす。

「そう言えばそんなこともあったのぅ。いやはや、あれは五柳先生の作も上手いこと取り入れた傑作じゃったわ。どぅれ、ご所望とあれば詠み上げてやろう。東巌子よ、上手く合わせるのじゃぞ」

 言うや東巌子の返答などお構いなしに、李白は自ら言う「傑作」の七言絶句を朗々と吟じた。東巌子も慌てた様子もなくこれに合わせて絃を弾く。


両人対酌山花開

一杯一杯復一杯

我酔欲眠卿且去

明朝有意抱琴来


 吟じ終えるや、ずるっ、と李白の足が滑る。ばたんと地面に転がると、そのままぴくりとも動かない。よもや頭を打って逝ったかと心配する必要もなく、間もなくごおごおといびきをかき始めた。元々一人酒をたんまりとかっ喰らっていたのだ、仕方あるまい。

「私も、少し酔ってしまったみたい」

 琴を傍らに置き、東巌子は額を押さえながらふぅと息を吐いた。血が通っているのかも怪しかったその白い肌もほんのりと赤みが差している。目元もとろんと蕩けて口元も緩んでいる。

 辛悟はその姿をぼうっと見ていた。それに気付いた東巌子は額に当てていた手を降ろし、ふふっと笑みを漏らす。

「……私の身体が、気になるの?」

 唇から首へと這わせた手をそのまま襟元まで下げて鎖骨まで顕わにする。はっとして辛悟の酔いが醒める。危なかった、あと三杯呑んでいれば過ちを犯すところだった。

「いや、別に……」

「白髪に赤い目、白粉みたいな肌。気になるんでしょう?」

 ――あ、そっち?

「ねぇ……こっちに来て、手を貸して。私を奥に……光の当たらない場所に運んでちょうだい」

 そう言いながら細腕を掲げて手を伸べる。辛悟は数秒をかけて思考する。今の言葉は何かを含んでいるのだろうか。それとも単に手を貸せと言っているのだろうか。それともここは、あと三杯の酒を一気に喰らうべきなのだろうか。

「早くしてよ。なぜ前屈みになるの?」

「誰がだ」

 今ので醒めた。タン、と酒杯を置くと東巌子の横に立つ。東巌子は肩を借りると言うよりも腕にすがりつくようにして身を寄せてきた。腕に押しつけられる感覚に、辛悟はふと数日前の嵐の夜に出会った少女を思い出した。年の頃は同じはずだが、東巌子はもっと華奢な体つきをしている。具体的には柔らかみが少ない。

(――何を考えているのだ、俺は)

 人知れず頬を朱に染めながら、ふらつく足取りの東巌子を正房の更に奥の室に運び、長椅子に寝かせる。まもなく東岸子は瞼を閉じてすうすうと寝息を立て始めた。実に無防備な女だ、と辛悟は心中で呟きながら、その顔にかかった髪を払ってやった。そうして近くで顔を見て、眉も睫毛も真っ白であると改めて気づかされる。きっとこれは人為的なものではなく、先天的なものなのだろう。もしかするとあの老人の姿は、これらの特徴を隠蔽するための偽装であったのかも知れない。こんな体質は滅多にないだろうから、周囲からは奇異なものとして見られたはずだ。あるいは山中に隠棲していたのは、そのような理由があってのことか。――所詮は推測だ。考えるだけ無駄なことである。

 立ち去ろうとした辛悟、しかしくいとその服の裾を引かれる。見れば、東巌子の手が裾を掴んでいた。起きているのか? いや、相変わらず東巌子は寝息を立てている。それとも寝ぼけているのか。ぐいと引っ張ってみるが裾はがっしりと掴まれており引き抜ける様子がない。ではこじ開けるか? ……まったく開く気配がない。どんな握力だこいつ。

 辛悟がそうこうもがいていると、ふと東巌子の唇が揺れた。

「行かないで、離れないで。……私を、一人にしないで」

 聞こえるか聞こえないかの境目の声量で、しかし辛悟の耳にその言葉は届いた。その一言でようやく、辛悟は真実を悟ったのである。この娘が何故に自らを追い回し、それでいてその傍らに寄ろうとしなかったのか。その理由と矛盾に。

「仕方ない、か」

 呟き、長椅子の横の床に腰を降ろす。そうすると途端に辛悟も瞼が重くなってきた。彼もまたそれなりの量を呑んでいるのだ。瞬きをするつもりで閉じれば、そのままふっと意識は途絶える。

「……もう、手離さないんだから」

 眠りに落ちる直前、そんな言葉を、聞いた気がした。

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