第八節 紅袍賢人の神髄

 バカな、とうわ言のように呟く飛鼠と蘭香の間に李客が割り入る。

「さて、そろそろ私とも遊んでくれぬかね」

 ぎょっとした飛鼠が飛び退こうとするよりも早く、李客が間合いを詰める。掌打の一撃が肩を打ち、飛鼠をよろめかせる。

「ふらふらするな。それ、行くぞ!」

 瞬く間に李客の掌が舞い、飛鼠の顔面、肩、胸、腰に腹を打ち据える。用いているのは先ほど元林宗にも使った「流花落葉掌」、しかしその速度は先刻の比ではない。はた目から見ればゆったりと緩やかな動きに見えるのだが、それは素早い掌打が残像を残しているに過ぎないのだ。それを見て元林宗は、李客が手心を加えていてくれたのだと知った。あの強さのまだ上があるとは、紅袍賢人の武芸は果てが知れない。

 武装を失った飛鼠がこれを受けられるわけがない。ドシンと胸の真中に一撃を喰らい、扉を突き破って外まで飛ばされた。ゴロゴロと無様に三回転。うっと呻いた唇の端からは鮮血が零れた。内傷を負ったのだ。

「わしの天問牌など狙ったところで何になる? 手に入れたとして、そのあとは? 無駄なことだ。やめておけ」

「貴様に何がわかる!」

 声を荒げたことで内息が濁り、飛鼠は咳き込んで一塊の血を吐く。しかし睨め上げた両眼には憎しみの色が光る。

「師父も師兄も蔑ろにした貴様は、その不徳の報いを受けずにあろうことか天問牌を手に入れやがった。俺様はそれが気に入らねぇ、断じて許せねぇ! だから俺様は、貴様から天問牌を奪い取ってやるのさ。必ずな!」

 ここで言う師父とは飛鼠自身の師父であろうか。その名を「夜天蝠王やてんふくおう」と言ったか。貧民に施しを与える侠客として知られながら、他派の武芸を盗み江湖を追放されたと聞く。それであれば自業自得、憐れとは思えども同情の余地はない。しかし、紅袍賢人がそれを蔑ろにしたとは如何なる意味だろうか。

(いずれ我らが飡霞楼さんかろうに忍び込んだ盗人の言。ただの遠吠えに過ぎるまい)

「飛鼠! 妄言を吐くのは勝手だが、師伯を侮辱するならこの元林宗も黙ってはいないぞ!」

 元林宗が椅子を立ち、李客の隣に並びながら指先を突き付け恫喝すると、飛鼠は頬を引き攣らせ奥歯を噛み締めた。

「何が妄言だと? 小僧めが、お前こそ何も知らない無知蒙昧じゃねぇか!」

 さらに言い返そうとする元林宗を李客が腕を掲げて制した。

「言い争いは騒がしいだけ、繰り返すことに意味はない。それよりも飛鼠よ、今日はもう諦めて退いてはどうだ? わしも数を頼みに若造を虐める趣味はないのでね」

 飛鼠を倒すのに数を頼みにする必要などないし、飛鼠はすでに若造と呼ばれるような年齢でもない。どちらも飛鼠を蔑んで言った言葉だ。それがわからぬ飛鼠ではない。しかし、ここで武芸を競ったところで敗北は必至。いずれにせよ飛鼠には逃げるしか道がなかった。

「ただし、血砂腐毒の解毒薬は置いて行ってもらおう」

「誰が貴様の言葉など聞くか!」

 李客の言葉を切って捨て、飛鼠は身を翻すなり飛檐走壁ひたんそうへきの絶技で塀を駆け上がる。元林宗は焦った。ここで飛鼠を逃がしては解毒薬を手に入れることができない。しかし李客は動じる様子もなくそれを見送る。元林宗は飛鼠を追撃したい思いで足を踏み出しかけたが、やめた。師伯が逃がすつもりであるなら、それを甥弟子が背後から討つなどできない。ただ黙って見送るしかできなかった。

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