第二節 名家の出来損ない

 辛家と言えば、その街ではそれなりに名の知れた名家である。広大な邸を街の東に構え、使用人も住み込みで大勢働いている。それだけ大きな家柄であるのに、住んでいる辛家の血族はたったの二人しかいなかった。

 一人は武則天の時代、地方官僚としてその腕を揮った辛大老。誰もおそれ多くて本名で呼ぶことはなく、大老と呼ばれているのだ。

 もう一人は辛大老の嫡孫と言われている。父親は辛大老の嫡男で、現役官僚として今は別の都市でその任に就いている。二代に渡って官僚を輩出した辛家の跡取りとして、その息子もまた将来有望とされていた。

 ――それが、どうしてこんな辺境の街に?

 辛大老が中原から離れたこの土地に居を構えたのは、単に隠遁生活を送り余生を楽しむためである。既に婦人とも死別した辛大老は日々静かに暮らすことを望んでいるのだ。故に、将来を嘱望されたその孫がわざわざ現職官僚である父親の元ではなく、辛大老の邸に住まうというのには疑問がある。無論、誰もそれを直接追求しようなどとはしなかったが、勘の良い者たちの間ではおおよその見当がついていた。

 曰く、辛大老の孫は出来損ないである、と。実際にその姿を見た者はいなかったので、それが不具を言うのか、あるいは勉学のことを言ったのかは解釈する側によって変わるものの、おおよそそのような見解が広がっていた。

 実際のところで言うと、これは真実を言い当てていた。辛大老の孫は学問ができないために田舎で暮らす祖父の元へ送られ、競争相手の少ない土地から太守の推薦を受けることで出世街道へ乗るよう求められたのだ。現役有力者の後援があれば合格の可能性は格段に上がる。

 実のところ、辛大老の孫はもう一人いた。そちらは勉学もでき、人柄も良く、正しく辛大老の跡を継ぐ者と期待されていた。それが、ある不幸な事故により急逝してしまったのだ。それにより彼が背負っていた一族の期待が全て、その弟の身に降り注いだ。その弟はそれまで全く期待されず自由奔放に生きてきたのに、兄の死をきっかけに突如風当たりが変わってしまったのだ。なりたくもないものになれと言われ、言われるままに勉学に取り組んだ。しかしその結果は凄惨たる有様、科目試験を受けても並み以下の成績しか収められない。そのうち完全に自信を失くしてしまい、身の上を隠して街を徘徊するようになってしまった。挙げ句、破落戸ごろつきどもに混じって囲碁賭博にまで興じるようになったのだ。

 翌日、辛悟は賭場には足を運ばず、街から数理離れた川辺で寝そべっていた。別段天気が良いわけではなく、むしろ見上げた空には曇天が広がっている。まるで自身の心中、あるいは未来を示すものかと辛悟は自嘲の笑みを浮かべた。

 ――昨日、賭場から帰った彼を待っていたのは辛大老からの思いもかけない言葉だった。広間に入った彼に視線を向けることもせず、辛大老は辛悟にこの屋敷から出て行くように命じたのだ。

「方々探してようやくお前を一人前にできそうな先生を見つけたのだ。お前の教育を頼んだところ快く引き受けて頂いた。ただし今の暮らしを止めるつもりはないということで、お前をあちらへ預けることになったのだ。早速だが、明日、先生のところへ向かってもらう」

「……そんな大事な話を、本人に何も言わずに決めたのか」

 辛悟が怒りを隠すこともなく言うと、ようやく辛大老はその顔を向けた。そこには嘲りの笑みがある。

「言ったではないか。今、ここで。否やは聞かなかったぞ?」

「相変わらず詭弁が得意な陰険ジジイだぜ」

「相変わらず文句ばかりが多いくそガキじゃ、この辛家の恥晒しめ。貴様のような輩をいつまでも養ってやるほど、辛家は甘くないぞ」

「それじゃあ『甘』家とでも改姓すれば良いさ」

 瞬間、辛大老の指が辛悟の喉元へと突き付けられた。鎖骨の付け根部分からやや上、「天突穴」を押さえている。

「――ではお前はそう名乗るが良い。貴様が辛家の自覚を持ち、それに見合う人間となるまでは辛姓を名乗ることを禁ずる。その間、辛家の者の前には姿を現すな。先生の下で己の不出来さを呪うが良い」

 辛悟は何も言わない。否、言えなかった。天突穴を抑えられれば声を発することはできないのだ。突き込まれようものならば陽気が上昇し昏倒することもある要穴なのである。

 その指を袖と共に打ち振るって背を向けると、辛大老は話すことは全て話したとばかり、出口へ向かう。そこでふと思い出したように立ち止ると、あたかも一つ注文を忘れていたのだという口調で、

「お前を預ける先生のお名前だが、先生と言う。お前も聞いたことがあるだろう。最近は若い人手が足りなくて困っていたそうだ。せいぜいお役に立つことだな」

「――っ!」

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