第三節 口うるさい川の神
ダンッ! 辛悟は回想から醒め、再燃した怒りを地面に叩きつけた。辛大老は、彼の祖父は、あろうことか辛家の嫡男たる彼を山の首領の元へ預けると言い出したのだ。世先生と言えば山で働く男たちを束ねる名士ではあるが、役人ではなくただ名の知られただけの平民である。勉学を指導できるはずもない。
要するに辛悟は勘当された挙げ句、労働力として売り飛ばされたのだ。
「二言目には辛家、辛家と……。辛家の名がそんなに大事かよ」
かつて毎日のように小言を言われたことなど比にならない。賭けで思うような勝ち方ができなかった時も比にならない。これほどの怒りは今まで抱いたことがなかった。
「……」
だが、怒りはあっても憎しみはなかった。辛悟ももう物わかりの悪い年代ではない。自身がどれだけ辛家の恥となる人間なのかは、彼自身が一番自覚していた。このまま勉学を続けたところで家門に泥を塗り重ねるだけとなろう。ならば愛妾の子でも何でも取り立てて、不出来な輩は追い出すに限る。それで言えば、祖父の決定は妥当なものと言えた。
(いい加減、俺も腹を
そうして天を仰いでいると、背後で何やら人の駆けてくる音が聞こえてきた。人数は……二人か。
「畜生、一体どこへ逃げやがった?」
「まだそうそう遠くへは行っていないだろう。えぇいあいつめ、必ず見つけ出して自分のやったことを後悔させてやる」
「ああそうだ。
――なにやら物騒なことを言っている。辛悟はごろりと寝返りを打って声のする方を草陰の合間から覗き見た。どこかで見たような風体の男が二人、腰に提げた剣に手を掛けつつ駆けて来る。一方はひょろりと背の高い痩せ男で、もう一方は太ってもいないのに顔がまん丸で目が豆粒のように小さい小男だ。
(あれは……そうだ、昨日賭場で見かけた奴らだな。誰かを探しているようだが、何かあったのだろうか?)
男たちが間近に迫る。辛悟はそっと後退して水辺の方へ移動する。息を潜めて男たちが通り過ぎて行くのを見送った。一瞬、つんとした臭いが鼻を突く。
ゴボン。背後から不意に音。辛悟ははっとして身を翻し、すぐさま飛び出せる体勢を整える。しかしそこには何もない。……何もない? 本当に?
否、水面には波紋が浮いている。岸から一歩踏み込んだ辺りを中心に今まさに消え行こうとする波紋が水面に広がっていた。しかしその中心点にはやはり何もないように見える。水中に何かあるのか? 辛悟の位置からそれは見えない。もう少し近づいて中を覗き込もうとした、その時である!
「ぶぅぅぅぅぅぅぅぅはぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「うおぉぉぉぉっ!?」
水中から巨大な影が、いや正確には辛悟が予想していたよりも大きな物体、すなわち人間が飛び出した。全身に水草をまとわりつかせ、その様はまるで妖怪か巨大な汚泥である。
「めっちゃ苦しい! めちゃくちゃ苦しい! いやそれよりも見た目に反してこの川結構汚ねぇ! 誰かが毎日クソでもしに来ておるに違いないわ!」
水中から現れた謎の人物は顔面にかかる藻を払い除け、その真正面にいた辛悟へと小魚が喰らいついた指先を突き付けた。
「ほーらおいでなすったぞ。貴様が犯人かこの下痢便野郎!」
「泥人形みたいな恰好して出会い頭に何言いやがるんだ貴様は。――って、貴様は李白か!」
水草と泥に塗れたこの怪人は、まさしく昨日賭場で辛悟と囲碁勝負をした李白少年に違いなかった。
「いいえわしは川の神です。さあ貴様の願いを言うてみよ。力の限り言いふらしてやろうぞ」
全力でお断りだ。そもそも、そんな言葉で誤魔化せるとでも?
「おい、あそこに誰かいるぞ!」
「奴め水中に隠れていたのか」
そうこうしているうちに背後から声。振り向けば先ほど通り過ぎて行った男たちが引き返して来る。李白はチッと舌打ちし、全身にまとわりついた水草を払い落とす。
「えぇい、バレたか。全くしぶとい奴らじゃな。きっと女の尻もあんな風に卑しく追い回しているに違いないぞ」
言いながらばっしゃばっしゃと無意味に水面を蹴り上げながら岸に寄る。どう見ても意図的に辛悟を水浸しにしてやろうとしていたが、一足早く飛び退いた辛悟はこの迷惑極まる行為から先んじて逃れることができた。
李白が岸に上ったのと、男たちが駆けつけたのはほぼ同時だった。男たちは足を止め、李白と辛悟の顔を交互に見つめた。
「お前、この盗人野郎と昨日勝負していたな? 仲間なのか?」
やおら痩せ男は辛悟に対してそう問いかける。確かに李白とは昨日対戦したが、知り合いでも何でもない。それに盗人とはどうしたことだ?
「仲間ではないが……こいつが何かやらかしたのか?」
「そいつはお前の女を負かした後に俺たちにも勝負を挑んだんだ。そこでこいつ、卑怯な手を使って勝ちを収めやがったのさ。散々高い酒を喰らいやがって、ただじゃおかねぇ!」
丸顔の方がなぜか問いに答える。辛悟はこれを聞き、ふむと小首を傾げた。
「……つまり、イカサマで負けて金を騙し取られたと、そう言うことか。それであれば終局後にイカサマに気づいたようだが、それはまたどうしてだ?」
「こいつが酔った勢いで自分から言いやがったんだ! それが証拠だ!」
丸顔が肩を怒らせながらその指先を李白に突きつける。突きつけられた側の李白は不思議そうに背後を振り返ったが、当然そこには誰もいない。いるわけがない。……だから、水面を覗き込んだって誰もそこに潜んでいるわけがない!
ふん、辛悟は鼻を鳴らして男たちを嘲った。もちろん李白の奇行は見て見ぬ振りだ。
「対局の最中ならまだしも、終わってから、相手に明かされて初めてイカサマに気づいたのか。実にバカバカしい。それはつまり、お前等がその程度の力量でしかなかったというだけじゃないか」
男たちはさっと互いを見やると、その顔を真っ赤にして腰の剣を引き抜いた。
「貴様、無関係かと思えばそうではないようだな。二人まとめて痛い目に遭ってもらおう!」
言うなり痩せ男は辛悟に斬りかかり、同時に丸顔の方も李白へと襲いかかった。痛い目どころか、完全に殺すつもりなのは明らかだ。
「俺は無関係だよ。全くの無関係だが、用はある」
二歩三歩と後退しつつ剣刃を受け流す辛悟。その身ごなしは慣れたもので、武芸の心得があるのは明々白々だ。一方の痩せ男はさらに闇雲に剣を振り回す。こちらに武芸の心得がないことも、また明々白々であった。
「用だと? あいつなんぞに何の用だ?」
「あんた方が自分で言っていたじゃないか。あれは阿遥を負かしたんだ。だから俺はあいつに用がある。どうやってあの局面から阿遥を負かしたのか、それを聞き出さねば気が済まん」
言いながらちらと視線を向けると、その先では李白がばっしゃばっしゃと水を跳ね上げながら川の中へと逃げ込んでいるところだ。丸顔の男は飛んでくる飛沫を振り払いながらその後に続いている。
昨夜、辛悟が自室に戻った直後に阿遥が訪ねてきた。何か用かと辛悟が問うと、阿遥は「負けてしまいました」と告げたのである。辛悟は何を言われたのか理解するのに実に十八秒を要したものだ。あの局面から形勢を逆転されたなど言われてもにわかには信じられなかった。それで阿遥に終局までの手筋を問いただしたものの、完璧に再現することは
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