剣侠李白

古月

相碁井目

第一節 老いた少年

 辛大老の孫は、その名をと言った。年は十五になる。今日も場末の賭場に足を運び、碁の対戦相手を探しているところだ。近頃は彼に敵う相手も少なくなり、下手に勝負を仕掛けてくる輩も減ってしまった。他の賭博には興味がないし、別に金が欲しいわけでもない。そのようなときにはいつも、壁際の席に座って一人で詰碁つめごと向き合うのが常だった。

 時は夕暮れに差し掛かる頃。そろそろ飽きたので帰ろうかと思い始めたとき、正面に人影が立った。

 まず目に入ったのは服。朱色の生地に黒の縁取り、胸元には金糸の刺繍。手にはひさご、腰には一振りの剣。腰に手を当て仁王立ちになるその相手は、辛悟と大差ない年頃の少年であった。

「お主! 随分と暇そうじゃのぅ? まるで食料庫の隅に忘れ去られた菜っ葉のようなしおれた顔をしておるわ!」

 対面早々に何言ってんだこいつ。しかも見た目に似合わぬ老人言葉。見かけぬ顔だ、どこの者だ?

「そんな貴様に朗報じゃ! 碁を打つ相手が欲しいのじゃろう? このわしが一つ相手になってやろう。いやいや別に、わしが他の誰にも相手にされなかったわけではないぞ。本当はもっと強そーな奴を相手にしたいのじゃが、他にめぼしい輩がおらんからじゃ。いやホントに」

 言いながら勝手に向かいの席に腰を降ろし、さらに勝手なことにまだ解きかけだった詰碁の石を払い除けてしまった。辛悟は内心むっとしたものの、すぐさま考え直した。

(こいつは初めて見る顔だ。大して強くはなさそうだが、身なりは良い。きっと金も大層持っていることだろう。どれ、一つ大恥をかかせて身ぐるみ剥いでやろうじゃないか)

「俺は辛悟と言う。そちらは?」

「あぁーん? このわしを知らんとは、貴様はノータリンか? この切れ長のうつくすうぃぃぃい目元に見覚えがないとでも?」

「ねーよ」

 とりあえず下まぶたを引き下げるのは止めやがれ。一瞬その青い瞳に目潰しでもしてやろうかと思ったが、それは何とか思い留まった。

「おうおう、実に嘆かわしい事じゃ。良いか、わしは姓を李、名を白と言う。と言うわけで第一手はもらったぁぁぁ!」

 何がと言うわけで、だ。後手であるはずの白石を持って先手を打つとは何事か。いや、むしろその程度の相手なのだろう。辛悟は心中でため息一つ、第二手となる黒石を手に取る。

「――ところで、まだ賭けの内容を決めていなかったな」

 手持ちの瓢から酒を煽った李白は、辛悟の言葉に「そうじゃそうじゃ」と身を乗り出す。

「そういえばまだ決めておらんかったな。じゃがわしは別に金に困ってもおらん。何も欲しいとは思わんわ」

「まるでそちらが勝つことが前提だな。それでは俺が勝ったなら、そちらはどうするのだ?」

「かーっ、このいやしんぼうめ! わかったわかった、それならこうしよう。負けた方は勝った方に一晩、酒と肴を好きなだけ振る舞うのじゃ。わしはそれで満足じゃ。そちらはどうじゃ?」

「俺は酒などいらん。それに見合う金だけ貰えれば良い」

「なんじゃつまらん。まあ良い、それで良かろう!」

 その言葉を聞いてようやく、辛悟は第二手を打ち込んだ。

 三手、四手、……二十手、三十手。辛悟は黙々と、李白はぎゃあぎゃあと騒ぎながら迷いなく打ち続ける。まもなく戦況は明らかになった。李白の打つ手は一言で言えば支離滅裂、定石から外れた事ばかりするので簡単に突き崩してしまえる。そうして辛悟は黒目を広げ、李白を追い込んで行った。だが対する李白の方は危機感など全くない様子で、素面なのか酔った勢いなのか、ゲラゲラと笑いを絶やさずに打ち続けている。まさか劣勢に立たされていることに気づいていないのだろうか。

(やれやれ、少しは楽しませてくれるかと期待してみたのだが、ただ口喧しいだけの変人か)

「こっちに打つとこう来るじゃろ? となるとやはりここはあちらへ打ってこちらへ走り、そこを一回転してこうこうコケッこう……」

 わざわざ聞こえるようにぶつぶつと喚きながら次の手を考える李白。その肩越しに、ふと辛悟は視線を向けた。賭場の入り口に見知った顔が立っていた。

「若様! やはりこちらへいらしていたのですね」

 賭場全体に聞こえるような大声でそう言ったのは、辛悟よりも少し年下の、十二歳ほどの少女だった。一介の町娘に比べれば少し良い着物を身につけ、黒髪も綺麗に結っている。幼顔ながらもなかなか整った顔立ちをしており、入り口から辛悟の元へと歩く間にも何人かの視線がその姿を追いかけた。

阿遥おようか、何用だ? ここへは来るなと言っていたはずだぞ」

「そうは仰っても、若様がこんな薄汚い掃き溜めみたいな場所へ足を運んでいることは私しか知りませんもの。急ぎの用でなければ私もわざわざ来ません」

 阿遥と呼ばれた少女はそう言って頬を膨らませてみせる。そしてちらりと李白を見、そして碁盤を見た。そして数秒後、口元を小さく歪めてから辛悟に向き直った。

「若様、大旦那様がお探しです。すぐにお屋敷へ戻っていただけませんか?」

「ジジイが俺を探している? 一体何のために?」

 それは存じ上げません、と阿遥。ふむ、辛悟は顎に手を当て考える。これは目の前の対局以上に頭を悩ませる疑問だった。辛大老はここしばらく辛悟の素行について口を挟むことはなかった。賭場に通っていることは偶然それを知られてしまった使用人の阿遥以外知らないことだが、仮にそれが露見したのだとしても今更小言を言うためだけにわざわざ呼びつけるとは思えない。では一体どうして?

「うおおぉぉらぁ! 悩みに悩み抜いた末のこの一手ぇ! 実に素晴らしい! 美しい! やっぱりわしは抜群に冴えておる。さあさあお主の番じゃ、この風光明媚な一手に続く苦し紛れの足掻きを見せよ!」

「いや、悪いが俺は急用が入ったので帰らせてもらおう」

「そうかそれなら仕方がはぁぁぁぁぁぁん!?」

 いちいちうるさい奴だ。立ち上がろうとした辛悟の袖を掴んで酒臭い息を吹き付け逃がすまいとする。

「わしに怖じ気づいたのか? だったら投了ぐらいするもんじゃ」

「誰が投了などするか。金が欲しいならくれてやる。いくら欲しい?」

「アホか! わしは金など要らんと言うたろうが、酒を寄越せ!」

 酒なんて渡した金で買えば良いじゃねーか。まあ、そんなことを言って聞くようには見えないが。辛悟は少し呆れたように息を吐き、そしてふと阿遥の顔を見て閃いた。

「……阿遥、お前なら次はどう打つ?」

「え? 私ですか?」

 突然話を振られた阿遥は一瞬面食らった様子だったが、すぐさま黒石を一つ取り、

「私なら、ここへ打ちます。当然です。鳥のフンでも少しの知性があれば思いつきます」

 ぴしりと打ち込んだ。団子状になっていた白石を完全に包囲した形だ。白石は息の根を止められ、取り除かれる。

 李白の顎がかくりと音を立てて外れた。

「というわけで、李白とやら。この阿遥という娘に碁を教えたのはこの俺だ。これであれば代役に立てても文句はあるまい」

「はいひゃふ――代役じゃと? このちみっこいまな板のような小娘がか!?」

 顎をはめ直した李白は阿遥の額に人差し指を押しつける。阿遥はその指を露骨に嫌そうな顔をしながら振り払った。

「誰のどこがまな板みたいな絶壁だって、あぁん?」

「貴様じゃ小娘。今のなんぞまぐれじゃ。わしが勝ったらその時こそ、賭けはどうする? この娘を晩酌のともに一晩借りて良いとでも?」

「そうだな、好きにしろ。俺の知ったことか」

「若様、そんな!?」

 目をまん丸にした阿遥を尻目に背を向ける辛悟。彼にしてみればたかが使用人のこと、気にするほどのことでもない。第一、既にお膳立ても済んだ対局だ。よもやここから挽回されることもなかろう。よってわざわざ心配する理由などなかったので、阿遥の声にも振り返ることもなくさっさと去って行ってしまった。

「いよーっしゃあ! それでは続きを始めよう。好きにして良いとは、つまりそう言う事じゃなぐぇへへへへ」

 ニタニタと口元を歪め十人中の十二人が不快感を覚えそうな下卑た笑い声を上げる李白。取り残された、と言うよりは完全に置き去りにされた形となった阿遥は、唖然として辛悟の去った方向を見つめていたが、意を決したように椅子に座った。

 その目には、悲哀と恥辱と憤怒と殺意を込めて。

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