第三十七節 弱く小さく儚いものの祈り

 足払いが空を薙ぐ。その代わり、斐剛の蹴りが側頭部に直撃した。どうと倒れ伏した不空は意識朦朧として動けない。

「小僧めが、手こずらせやがって!」

 斐剛は不空の体を蹴り転がすと、その腰から紅袍賢人の武芸書を抜き取る。留め紐を解いて中を改めてみれば、確かに武芸の型について書かれている。真贋はともかく武芸書には間違いない。ぜいぜいと荒い息を吐きながら、斐剛は天を仰いだ。

「遂に手に入れたぞ! これさえあれば、俺は天下無敵だ。もう誰にも侮らせはしないぞ! ハハハハハ!」

 哄笑と同時、目の前に炎の壁が出現する。斐剛はぎょっとして身を引いた。チリチリと顎髭が焦げ付いた臭いを発する。いつの間にやら、もう間近に火の手は迫っていたのだ。武芸書は手に入れたが、果たして無事にこの場を脱する事はできるのか? 縁に立って下を見下ろしてみるが、炎の明るさで逆に闇が濃くなり、地面は全く見えない。それでも、三重塔のこの高さから飛び降りればいかに軽功に秀でた者でも無傷ではいられないと想像がつく。斐剛はしばし考えを巡らせていたが、ややあって妙案を思いついた。

 軽功の達人は宙を舞う木の葉を踏み台にして駆ける事ができる。斐剛自身はそこまでできないが、空中にある物体を踏み台にして落下の衝撃を殺すことは可能だ。そして今、ここにはお誂え向きの踏み台がある。人間を踏み台にすれば踏みつけられた側の五体はバラバラに引き裂けてしまうだろうが、そんなことはどうでも良い。今はただここから安全に、己だけが逃げられれば良いのだ。

 うかうかしてはいられないと、斐剛は不空を振り向く。しかしそこには思いもかけない光景があった。

「……小僧、まだくたばっていなかったのか!」

 ぎり、と斐剛は歯を噛み締め、苦々しげに声を漏らす。

「もう何十合、何百合やったかわからねぇ。何十手、何百手貴様に浴びせたかもわかりゃしねぇ。それなのにお前……どうしてまだくたばらねぇんだ!?」

 視線の先で、不空は今にも風に吹かれて倒れそうな有様で立っていた。斐剛もいくらかの傷を負ってはいるが、あちらの衣服は既にずたずたに引き裂け、血が滲んでボロボロだ。その下の体がどれ程の傷を負ったかは推して知るべしである。だがそれでも不空は立ち上がるのだ。立っているだけでも、その足下に血溜まりができるというのにも関わらず。

 理解できない。その体は既に立ち上がれぬほどに破壊されているはずだ。骨肉の損傷も激しければ、流した血液も夥しい。先の攻撃からは内力ももはや残されていないことが分かる。それなのに――なぜ?

「……お前には、聞こえないんだ」

「何?」

 頽れそうになる足を支えつつ、不空は斐剛を見据える。その目には爛々と、未だ衰えぬ闘志が輝いていた。

「彼らの声援は、お前には聞こえない。だが僕には届いている。梁工殿、街の子供たち、兄弟子方、叙修に馬参史に閔敏に――彼らの魂の叫びが、僕の魂を奮い立たせる。声が届かなくても僕には聞こえる! お前を倒して勝利しろと、何度でも僕を奮い立たせるんだ!」

 斐剛の顔が憤怒に歪んだ。

「何を言い出すかと思えば、くだらねぇ。弱小どもが吼えるんじゃあねぇぜ! 声援だ、叫びだと? そんなくだらねぇものに圧倒される斐剛様ではないぞ!」

「小さい力と侮るな! 例え僕たち一人一人は弱く小さく儚いものであろうと、その想いはお前を倒すには十分過ぎる。お前を倒すのは僕じゃない。ましてや神でも仏でもない――彼らの祈りがお前を倒すのだ!」

 不空の背が伸びる。これまでの一切の傷を微塵も感じさせない毅然とした態度。伸べた右手の指先にまで力が漲っているのが分かる。もはや今の不空の姿は滑稽なものとはほど遠い。堂々たる偉丈夫、英雄の風格さえ漂っていた。

「祈りの力を、侮るな! ――いざっ!」

 一歩踏み出す。不空から攻め込むのはこれが初めてだ。斐剛は中段の右足前蹴りを突き出すが、不空はさっとこれを横に躱す。だがこれは牽制だ。斐剛はすぐさま足を引き戻すや、入れ替えるようにして横薙ぎの蹴りを放つ。狙うは腰だ。

 次の瞬間、斐剛は顔面に衝撃を受けて視界が暗転した。何が起こったのか? 膝を突き直前の光景を思い浮かべる。不空の体が突然飛び上がり、蹴り足を飛び越えるようにして前転した。その時に踵の一撃を喰らったのだ。左瞼を直撃しており、失明はしていないだろうがすぐには何も見えない。ほぼ左の視界は失われた状態だ。

「この野郎……っ!」

 振り返りかけたその胸ぐらを捕まれる。同時に膝に激痛。横合いから蹴りつけられたのだ。引き倒されるまま屋根に叩きつけられる。「小猿遊楽しょうえんゆうらく」の技だ。

 追撃を阻止するため、斐剛はぐいと海老反りになりながら蹴りを放ち、その勢いで体を回し立ち上がる。蹴りが肩に直撃した不空は二歩後退している。斐剛は反撃の好機とばかり二連続の跳び蹴りを放つ。が、なんと不空も全く同時に跳び蹴りを放っていた。斐剛の蹴り足は悉く叩き落とされ、更に下腹と胸を蹴りつけられた。斐剛が二回蹴りを繰り出す間に、不空は四回の蹴りを放ったのだ。これは斐剛の逆鱗に触れた。蹴り技を最も得意とする己に対して、蹴り技で優位に立とうなど断じて許せない。素早く前掃腿を繰り出せば不空は飛び上がってこれをやり過ごす。そこへほぼ逆立ちになりながらの蹴りを打ち上げる。ものの見事に顎に入った。

 不空の口から鮮血が迸る。今の一撃で顎は砕けずとも骨にヒビが入ったのは確実だ。だが怯んではいられない。身内からこみ上げる闘志が不空にそれを許さない。

(僕一人の力じゃない。姿も見えなければ声も聞こえないが――でも聞こえるんだ。彼らの声援が! 魂を震わせる叫びが!)

 ズシンと踏みしめ、逆立ちの斐剛の胸を蹴りつける。まさかここで反撃が来るとは思っていなかった斐剛は、ゲェッと呻いて吹っ飛んだ。その代わり、反動で不空も体勢を崩して膝を突く。

 ぐらり、塔が大きく傾いだ。なぜ一気に崩落してしまわないのか疑問だが、不空には何となくその理由に察しがついていた。魂にそれが伝わっていた。

「……もう、余裕はねぇ」

 口元の血を拭いながら斐剛が立ち上がる。今の胸への一撃は効いたらしい。足取りがふらついている。

「俺もそろそろ限界だ……肉体的にも、時間的にもな。テメェはもうとっくにその限界を超えているだろうが……いずれにせよ、次が最後だ」

 腰を落とし、「神獣白虎」の構えを取る。不空もまた「招迎客手」でこれに相対する。二人とも数え切れないほどの攻防を繰り返し、残る力も僅かである。次の一手が決着をつけるだろう。

 タンッ、斐剛の体が不空の眼前に一瞬で移動する。白銀白虎の幇主に代々受け継がれた絶招「趨虞跳駆すうぐちょうく」を用いたのだ。この神速の歩法は瞼を見開いていても移動の瞬間を捉えることが出来ず、気づけば既に懐に潜られているのだ。これまでの攻防で斐剛は「招迎客手」が中距離まで迫った相手を攻める構えだと見切っていた。だからこそこの瞬間、奥の手を用いて一気に超接近距離にまで踏み込んだのだ。攻めの要である右手を封じられ、不空は対処のしようがない。バシンと斐剛の両掌がその胸を打ち据えた。

 流れ込んだ内力が経絡を駆け巡り、体内を破壊する。一瞬、不空は目の前が真っ暗になった。胸の奥から血が込み上げ、どっと吹いた血が斐剛に降りかかる。ぐらりと傾いだ不空の足元は屋根の縁、その先には炎の海が広がっている。

 ――唐突に、不空の眼前にいつか見た光景が広がった。それは花弁舞い散る桃園であり、陽光降り注ぐ農園であり、木枯し吹き抜く街並みであり、雪降り積もる梁家の庭であった。

 ――遠く、遠く、声が聞こえる。耳にではなく、魂に響く声が。それらは闇に墜ちてゆく不空の意識を支え、持ち上げ、その背を押す。

 目の前に夜の戴天山が広がる。青蓮に満たされた池の畔で金剛智に問われた言葉を思い出す。どうして武芸を欲するのかと問われた時の事を思い出す。その名の意味をよく考えろと言われた言葉を思い出す。

(そうだ、この身は空っぽなんかじゃない!)

 カッと見開いた視線の先、勝利を確信した斐剛の顔があった。覚醒した不空の姿にそれが驚愕へと変わるより早く、不空は自らの胸を打った両掌をはっしと掴み取った。ぐいと引き寄せれば、斐剛は慌てて足を踏ん張らせ、意図せず不空の体を持ち上げた。体勢が前に傾くや、不空は斐剛の両手首を撥ね上げた。そのまま、空いた腰に穿手を送る。ずぶ、と突き刺さった。

「うっ……っ!?」

 斐剛の体が後退する。否、しようとする。不空は再度、撥ね上げていた斐剛の手首を取ってぐいと引き寄せる。後退しかけていた斐剛の体はそれでまた引き寄せられ、同様に腕を撥ね上げられるや今度は脇腹に掌打を受けた。バキッ、肋骨が砕け肺が裂けた。もはや力を無くした斐剛の体を、不空はまた両手首を掴んで引く。今度は首筋に陰拳を打ち込み、鎖骨を砕く。

「こ、この技は……っ」

 相手が退く度に引き寄せ、払い、打ち、また引き寄せる。連環したこの技は一度術中に嵌ると攻め手が技を中断するまで逃げ出すことが出来ない。花鳥風月を主題にした紅袍賢人の武芸には異質な、執拗に敵を攻めるこの技は「四凶殺しきょうさつ」とかつて称され江湖に恐れられた絶招の一つ、「饕餮穿牙とうてつせんが」であった。

 先ほどまで不空には欠片ほどの内力も残っていなかったはずなのに、その一撃一撃には山をも揺るがすような威力がある。それは魂の迸出とも言えるものであった。斐剛はこの勝負の後に無事にこの窮地から脱するための余力を残そうとしたが、不空はその余力どころか自らの命すら使い切るつもりなのだ。

 既に三回の打撃を受けて斐剛の体はふらついている。不空は残る全ての力を込めて足を踏み出した。ズダンッ! 踏みつけた屋根はズブッと沈み、さらにその衝撃は全ての屋根瓦を撥ね飛ばし、粉々に砕く。

「これで、最後だ――!」

 両腰に構えた掌を、正中線を通して打ち出す。一方は胸を、もう一方は首筋から顎へと擦り上げる。ドカンッ! 衝撃波が走った。斐剛の体は斜め上に打ち上げられ、長い長い滞空時間の後にどうと力なく屋根上に転がった。

 ころ、とその懐から一巻の巻物が転がり落ちる。紅袍賢人の武芸書に間違いない。それはそのままころころと屋根上を転がって、やがて激闘の中で抜けてしまった屋根板の穴からぽろりと落ちてしまった。劫火に呑まれ、それは一瞬にして灰になった。

「……」

 静かだった。驚くほどに何も聞こえない。

 がくり、膝を突く。何回か荒く息を吐いて、そして最後の息を吐き終わった時、不空はようやく悟った。

 終わったのだ、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る