第三節 転生一打

 内力がぶつかり合い、炸裂する。

 辛悟と辛大老は同時に飛び退き、揃って床に転がった。それほどまでに凄まじい衝撃がその一瞬に生じたのだ。辛大老はすぐさま跳ね起きて身構えたが、辛悟は体を横向けたまま動けないでいる。東巌子が駆け寄ってその上体を抱え起こすと、たちまちがっと呻いて吐血した。舌打ちを漏らす東巌子。

「なんという無茶をするか! 貴様、わしとの約束を忘れたか。命を危険にさらすような真似はしないと言ったあれは、ただの戯言であったか!」

「戯言ではない。俺は生きているぞ」

 あえぐ呼吸は半ば死んでいるようなものだ。

「愚かな……まったくもって愚かな!」

 呆れる東巌子の手を借りて辛悟は立ち上がろうとするが、すぐに力が抜けてその場に頽れてしまう。深い内傷を負っているのは間違いない。

 辛大老は奥歯を噛みしめた。

「貴様……なぜ手を引いたか!」

 その表情は憎しみのようでもあり、後悔のようでもあり、絶望のようでもあった。辛悟はふんと鼻を鳴らす。

「俺は四苦掌を破る手段さえ手に入れればそれで良いのだ。そして、あんたは俺にそれを授けてくれた。だから手を引いた。これ以上の手合わせは無用だからな」

 辛大老の四苦掌、その第四字は確かに辛悟の身体に叩きつけられた。だがその瞬間、辛悟は反撃の一字を返していたのだ。

 その字は「生」――四苦掌の第一字である。力を完全に削がれた状態から「死」字の攻撃を跳ね返すのに、「生」字の持つ瞬間的な内力の発露だけが対抗手段足り得たのだ。死の次に訪れるは再びの生、すなわち輪廻転生の道理である。

「四苦掌は敵の攻勢を削ぎつつ我が掌力を増大させる招式、途中で止めることはならぬもの。それを貴様は、よりにもよってもっとも内力の勢い溢れる第一字の直後に止めた。どれほどの内傷を負うかわかっていたであろうに!」

 辛大老には理解できなかった。四苦掌を以て四苦掌の絶招を破る、それはまだいい。あの一瞬に活路を見出し、返して見せたことは称賛に値する。しかしそれなら、そのまま四苦掌を返してこちらを打ち倒せば良かったのだ。それを辛悟は自身が負傷するのも構わず引っ込めた。何のために? 辛大老を傷つけないために他ならない。

「俺はあんたが嫌いだ。ずっと前から嫌いだった」

 東巌子が霊台穴に触れて内力を送り込む。辛悟はその場に座して息を整えつつ言葉を絞り出した。

「俺を束縛し、怒鳴りつけ、飼い犬を躾けるかのように扱うあんたが大嫌いだった。顔を合わせれば勉強しろと言い、そのくせ一度も俺を褒めたりはしなかった。あんたはいつだって俺を見下して、俺を出来損ないだと罵った。……だがそれでも、あんたは死なせるに値しない」

「愚かな。そこまでしてなぜ四苦掌を、それを破る一手を欲したか」

「どうしても倒さねばならない相手がいるからだ。俺が、この手で」

 東巌子の剣訣が閃き、素早く点穴を施した。直後すっくと立ちあがる辛悟。ひとまずの応急処置だ。まだ足の力が十分でないのを東巌子に体を預けて支えてもらっている。

「その敵とは何者だ。なぜお前が相手せねばならぬのだ。それは辛家の敵なのか」

 辛大老の問いに頭を振る辛悟。もはやこの場に用はないとばかり、踵を返して出て行こうとする。

「それを今語る必要はない。そしてあんたが知る必要もない。だが強いて言うなら――あれは、辛家が生んだわざわいだ」


 下男の殷が戻ってきて、辛悟が屋敷を出たと報告する。辛大老はそれを手を振って下がらせ、椅子の肘掛けに身体を預けながら大きく息を吐いた。

「随分とお疲れのようですな、判官はんがん殿」

 ふと声を掛けられ視線を上げれば、そこには紅袍を纏った男が一人立っていた。歳は五十ごろ、白髪の混じった頭だが背筋はぴしっと伸びている。

「江湖の賢人が、まさか盗み見盗み聴きをしていたわけではあるまいな?」

「偶然聞こえ、見てしまったものは罪に問えますまい」

 いけしゃあしゃあと言う。辛大老はそれ以上の追及をやめた。

 この紅袍の男は李客、もとより弁舌で勝てる相手ではない。辛大老とは古い馴染みであった。

「何か言いたいことでもあったか。それともわしを笑いに来たか」

「祝辞を述べに来たのですよ、辛判官。貴殿は類稀な後継者を得られたようだ」

「それは嫌味か」

 辛大老の顔面が苦渋に歪んだ。しかし李客はカラカラと笑って頭を振る。

「まさか。私が編み出し、辛判官が型と成した大篆掌法。その四苦掌の絶招を見事打ち破った。その慧眼は十分称賛に値するではありませんか」

「破ったところでなんだ。結局あいつは自ら傷を負う愚行を犯したではないか」

「いやはや、判官殿は本当にお孫殿に対してお優しい」

 瞠目する辛大老をよそに、李客はゆっくりと隣の椅子に腰を下ろした。間の卓は先ほど辛大老が打ち潰してしまっている。

「辛判官はご自身のお気持ちを表現するのが大層苦手でいらっしゃる。二十年か、あるいは三十年か。それだけ私たちが出会ってから時は流れたというのに、いまだにそこは変わっておられぬ。孫が死ぬよりは己が傷ついたほうが万倍もマシと、面と向かって申されれば良いものを」

「誰があんな出来損ないを」

 李客はにやりと笑みを浮かべて指先を辛大老に向ける。

「まさにそれだ。愛するあまりに憎まれ口を叩くそのご気性だ。本当に出来損ないと見捨てておられるなら、なぜそれがしに文を寄越された? かの若人に流星りゅうせい花雨かうを伝授してやってほしいと頼んでこられたのは、辛判官ではありませんか」

「頼んだのではない。貴公の息子とあれとが友誼ゆうぎを結んだから、面倒をかけると言っただけではないか」

「ほほう、とてもそうとは思えぬ文面でありましたが」

 けっ、と辛大老は吐き捨てる。李客はそれを見てにやりと口元を歪めた。すっと椅子から立ち上がる。

「ときに辛判官、私は近く峨媚山がびさんへ向かうつもりでしてな」

 ぴくりと眉を動かし、いぶかる辛大老。

「峨媚だと? 何のために?」

「玄冥幇会です」

 官界から身を引いて久しいとはいえ、辛大老は世の情勢に日ごろから気を配っている。近年このあたりで勢力を伸ばしている江湖の徒党、玄冥幇会の名は当然のことながら知っていた。

「あの破落戸ごろつきどもか。幇を名乗っているものの、規律もなければ節操もない。各地で散々悪事に手を染めているというではないか」

「これでも私は紅衣鏢局の総鏢頭なのでね。近頃話題の玄冥幇会の情勢を探ってみようかと。奴らは峨媚を根城にしている」

「玄冥幇会は有象無象の集団と聞くが、その中でも数人、厄介な手練れがいると聞く。「鬼子母神」やら「権謀術策」やら言うそうだが。いかにかつての「紅袍賢人」とてそれらを相手に一人では苦戦するのではないか?」

「もちろん手勢は連れて行きますとも。ただ、辛大老も興味があるかと思いましてね。――お孫殿が言っていた敵とやら、おそらくは玄冥幇会に属する者かと」

 思わず辛大老も椅子から立ち上がった。李客の隣まで歩み寄る。

「なぜそう思う?」

「辛判官ご自身で仰ったではありませんか。玄冥幇会には厄介な手練れがいる。実際のところ、この近辺で厄介な相手はいずれも玄冥幇会に下っているとの噂だ。お孫殿は十中八九、峨媚へ向かったと見て間違いない」

 言われてみれば納得である。辛悟がわざわざ四苦掌に挑みに来たのは、それだけの強敵を相手にするつもりだからだ。それほどの腕前を持つ人間はもはや玄冥幇会に名を連ねる者しかおるまい。

 ちなみに、と李客は続けた。

「情勢を探るというのは実は建前でして。本当のところは娘が奴らに攫われたのです」

 あまりにも李客がさらりと言うので、辛大老は一瞬危うく聞き逃すところだった。

「攫ったのは、厳密には我が紅衣鏢局と対立する壬龍鏢局の若き総鏢頭、壬克秀。奴らは玄冥幇会と結託し版図を広げようとしているばかりか、紅衣鏢局さえも取り込もうとしている」

「……あまり心配していないように見えるな?」

 李客の顔を覗き込んむ辛大老。そうでしょうか、と数歩進んで逃れる李客。

 辛大老には李客の意図などお見通しだった。李客の手助けをするという口実を与えて、自身を峨媚山まで連れて行こうとしているのだ。あの不肖の孫、辛悟の様子を探らせるために。

「おせっかいが過ぎるぞ、貴様」

「お褒めにあずかり恐悦至極」

「褒めておらん」

「それで?」

「……行こう」


(了)

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剣侠李白 古月 @Kogetsu

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