第三十四節 燃え上がる塔の頂で

 燃え盛る炎を飛び越え、斐剛は蔵書閣の中をぐるりと見回した。

(どこだ、紅袍賢人の武芸書はどこにあるのだ?)

 ふとその目に留まった物がある。書架と仏典しかないこの空間に似つかわしくないそれは、石造りの箱だ。天板部分は板によって塞がれている。斐剛は駆け寄った勢いのままこれを蹴り崩した。

 中から現れたのは巻物が一つ、そして色褪せた袍だ。その袍の色は紅であり、巻物の方には「鳥獣森羅拳」の題字が見える。――間違いない、これこそが江湖を席巻した紅袍賢人の武芸書だ。

 震える手で拾い上げる。不意に、背後に何かが迫る気配を感じる。振り返りざまに裏拳を振るうと、ガシャンとそれは砕け散り粘性ある中の液体をぶちまけた。

(小僧の油壺か!)

 心中で悪態を吐いた瞬間、もう一方の手に持っていた武芸書がするりと手中から飛び出していく。はっと視線を向ければ、不空の後ろ姿が書架の影に隠れるところであった。油壺で注意を引きつけ、死角から疾風の勢いで掠め取って行ったのだ。

「逃がすか!」

 言うなり斐剛はすぐ側の書架を蹴りつけた。仏典が隙間無く詰め込まれた書架は数百斤はあろうが、ぐらりと傾いた書架はそのままドスンと横倒しになり、更にその先にあった書顔を押し倒す。立て続けにバタンバタンと倒れ、朦々と埃が舞い上がった。その中をひらりと動く人影。上に向かう階段を上っている。

 舞い上がった埃に引火して、炎は更に燃え広がる。斐剛はそれを物ともせずに突き抜け、不空の後を追って階段を上る。

 ドガッ! その眼前に蹴りが飛んだ。一瞬仰け反るのが遅れていたなら側頭部を壁に叩きつけられていただろう。不空は逃げたと見せかけ、階段を上ったすぐの所で待ち伏せしていたのだ。

「小僧、この――」

 その先を言うより早く、不空のもう一方の足が斐剛の胸を打った。もんどり打って転倒した斐剛は階段に背中を打ち付けつつ、しかしすぐにくるりと一回転、両足がつくなり階段を駆け上がり、後一歩の所で身を翻すや床板を突き破って二階へと躍り上がった。するとそこで待ち受けていたのは、屏風倒しに襲いかかる書架の山であった。先ほど斐剛がやったことを、不空もまたやり返したわけだ。

 もはや悪態を吐く暇さえなかった。脚を唸らせ、素早く三回蹴りを放つ。倒れかかって来ていた書架はそれで反対側へと傾ぎ、大音響を上げて倒れ込んだ。すると大音響を発して、なんと床が抜け落ちてしまった。一旦崩れ始めると後は一斉である。ガラガラと納められた仏典を撒き散らしながら一階の火の海へと書架が落ちる。ゴォンと地鳴りを上げるや、ぐらぐらと三重塔が揺れる。

 二階の床はほとんど残らなかった。斐剛は何とか壁に張り付いて落下を免れている。その向かい側の壁には崩落の巻き添えを食らい半分崩れ落ちた最上階へと続く階段、そしてそれにぶら下がった不空の姿がある。その腰帯にはあの巻物が挿し挟まっていた。しかし、不空は今にも落下しそうである。

(小僧の命などどうでも良いが、宝典まで炎に飲まれたら事だぞ!)

 今の斐剛にとって最も優先すべき事は紅袍賢人の武芸書を手に入れることである。そのためにはもはや命の危険も省みない。壁から離れるや、なんと斐剛は壁面を疾駆し始めた。飛檐走壁ひたんそうへきと呼ばれるそれは、軽功の中でも上位の技だ。瞬く間に斐剛は不空の側まで駆けつける。同時に、ぎょっとした不空は手を滑らせてしまった。あわや転落かと思われた瞬間、斐剛の脚が不空の体を階上へと蹴り上げた。

 もちろん、斐剛には不空を救うつもりなど無い。武芸書さえ無事であればよいので、むしろ不空の方はくたばってしまえとばかり、その蹴りには渾身の内力が込められていた。不空もそれは分かっていたので、蹴られる瞬間は全身の内力を集結させて身を守り、何とかこれに抵抗していた。天井に叩きつけられた反動で床に転がり呻き声を上げるが、骨折のような怪我は免れた。

 不空の後を追い、斐剛が壁に指を突き立てて這い上ってくる。もはやここは最上階、逃げ場は無いと思われた。不空が丸くなって転がっているのを見て、好機とばかりに襲いかかる。殺気を感じた不空は咄嗟に床を転がってこれを回避した。斐剛の脚が床板を踏み抜く。その隙に不空は立ち上がり、今度は窓を突き破って外に出る。斐剛も遅れてそれを追った。しかし、ぐるりと一周してみても姿が見えない。どこへ隠れたのか?

「――上かっ!」

 躍り上がった斐剛は屋根の縁を掴んでぐいと体を持ち上げる。果たして、三重塔の最頂上に不空は立っていた。

「もう逃げられんぞ、小僧!」

 叫びながら一歩踏み出した斐剛は、しかしそこで足を止めた。様子が変だ。今まで猫に負われる鼠のようであった相手が、意を決したようにこちらに正面を向けている。

 これで、と不空は口を開く。

「これで、確かに僕の逃げ場はなくなった。だが、それはお前も同じだ。もはやこの塔から降りることは出来ない。そして、僕が武芸書を持っている限り、お前は降りたくても降りられない。ここで、最後の決着をつける!」

 ざっと右足を前に出す不空。左手は腰の位置のまま、右手を斜め前に差し出す。それはまるで来訪者を招き入れる仕草に見えた。しかし斐剛には分かった。これは武芸の構え、それも紅袍賢人が用いた出勢の型「招迎客手」に他ならない。数時間前に翡蕾も使って見せた構えだ。

 しかし、堂々たる偉丈夫がやるならまだしも、不空は背も伸びきっていない少年であり、身に着けているのも古びた作務衣だ。それが大家の主が賓客を招くかのような仕草の構えとはあまりにも滑稽であり、ともすれば挑発にも受け取れる。斐剛の口からは失笑が漏れた。

「窮鼠猫を噛む、あるいは炎を背に背水の陣のつもりか? やはりこの地のガキどもは揃いも揃って死にたがりだ。だったらお望み通り、死なせてやろうじゃないか!」

 ズダン! 斐剛の足が瓦を踏み抜く。腕を大きく回して、斐剛もまた「神獣白虎しんじゅうびゃっこ」の型を取る。足を前後に、上体は横に開きながら虎手を顔と腰の高さで左右に構える。

「あの小娘と同じ所へ――逝けっ!」

 言い終わった瞬間、もう斐剛の体は間合いの内にある。前方に構えていた虎手で不空の胸を狙う。不空はそれをくるりと返した右手の甲で打った。

「翡蕾の魂の安寧のために――滅べ、悪党!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る