第三節 面倒な拾いもの
――開元四年、初夏。
雷を伴う豪雨は、しかしながら翌朝には綺麗さっぱりと消え失せた。その日は雲一つない快晴に見舞われ、いつもは雲がかかっている戴天山も見事に晴れ渡り、紅葉を始めた山肌も陽光を受けて輝く。そよ風でさあさあと音が立つと、それに合わせるように鳥が羽ばたいた。山頂から飛び立った鳥はそのまま悠々と風に乗って滑空すると、やがて山腹にひっそりと佇む寺院へと飛び込んだ。
その寺は大明寺と言う。麓に面した総門を入れば山門とそこから左右に延びる回廊がある。回廊は斜面に沿って建てられた寺院を一巡するように延び、その途中には数十人の僧が修行を行う僧堂や鐘楼があり、それらの中心に位置するように仏殿が設けられている。今は読経を行っているのか、数十人の僧侶の声が僧堂から響いてきていた。
しかしながらその鳥はそれらをあっさりと後ろにし、回廊から外れた一画、寂れた三重塔へと回り込んだ。二、三度翼を打ち振ってそのすぐ側にある木枝に降り立つ。そうして下を見下ろすと、今まさに一人の少年が三重塔の前を横切るところであった。
少年の名は
不空少年は背中に籠を負っていた。その中には小枝や落ち葉が溢れんばかりに詰め込んである。昨夜、戴天山は嵐に見舞われた。豪雨が降りしきり雷鳴が轟き、近くの峰では崖崩れもあったらしい。今でこそ快晴であるが、その痕跡はこの大明寺の境内にも大量の木屑という形で残されていたのである。彼はそれを拾い集め、その先にある小門から外へ捨てに行くところなのである。
「やあ、昨日は災難だったな」
斜め上を見上げ、不空は鳥に対してそう話しかけた。鳥はチチと鳴き声を返し、またひらりとどこへともなく飛び去った。何だい、もう少し付き合ってくれても良いじゃないか。不空はそう小さく呟いて背籠をよいしょと背負い直す。
裏門に着くと閂を外し門戸を開き、そしてふと足を止めた。別に誰かに引き留められたのでもなければ、突如何かを思い出したからでもない。門を開いた先、そこにあった「それ」の存在が理解できなかったからである。
不空はまず一度門を閉じた。今のはきっと何か見間違えたのだ。そう己に言い聞かせるように頷き、再び門を開く。――即座に閉じた。見間違えではなかった。「それ」は本当にそこにあるのだ。
今度はそっと戸を開いてみる。やはりそこにある。動く気配はない。となるとそれはつまり、そう言うことなのだろう。
「……えぇ~」
がっくりと肩を落として、不空はため息を吐いた。無理もない事だ。境内に散らばったゴミをかき集めたと思ったら、その矢先に行き倒れの死人を発見してしまったのだから。
門前に仰向けで倒れていたのは、こちらも年の頃十五程度と思われる少年であった。なぜか肌着しか身につけておらず、口はだらしなく開き、両目は白目を剥いて不空を見据えていた。髪がやや赤く見えるのは、血を流しているのだろうか? ぴくりとも動く気配はなく、どう見たってこれは死んでいるとしか思えない。
「行き倒れるのなら人目につかない場所にするか、せめて別の寺にしてくれないかなぁ……」
そんなぼやきを口にしつつ、不空はまず背籠のゴミを茂みの向こうに投げ捨てる。死にかけの人間が目の前にいるのならいざ知らず、すでに死んだ相手であれば事の優劣などありはしない。とりあえずやるべき事をやってから、その後に横たわる少年の隣に膝をついた。――おい、本当に死んでいるのか? 指先で額をつついてみる。
「うおおおおぉぉぉぉぉぉっ!」
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
ガツンッ! 突如として起き上がった少年は、しかしながら次の瞬間には頭の半分を粉砕されて吹き飛んだ。横倒しのまま体幹を軸に二回転、どうと地面に倒れ伏す。そしてゆっくりと地面に赤い染みを広げていった。
はっとした不空はいつの間にか振り上げていた自身の右手を見つめて驚いた。地面に手を突いたとき、偶然そこにあったのだろう。その手の中には真っ赤な血糊が付いた拳大の岩が握り締められていた。……なぜそんな物を持っているのか?
「――不空か? そこで何をしておる?」
不意に背後からかけられたその声に、不空は飛び上がって驚いた。振り向けばそこに立っていたのは黄色の僧衣を身にまとった五十代ほどの僧侶であった。こちらも褐色の肌に西域の顔つきをしている。
その僧は金剛智と言った。大明寺の者ではない。中土まで一人で旅をしてきた西域僧だが、病を患って半年ほど前から大明寺の援助を受けつつ少し離れた場所にある庵で療養しているのである。今は病も大分癒えたらしく、時折こうして大明寺へ足を運ぶこともあった。
不空は咄嗟に岩を投げ捨てる。
「大師様、その、これは違うのです。違うというのは、これは僕がやった訳ではないのです。戸を開けたらもうそこにいたのです」
不空がいけしゃあしゃあと言うと、ほう、と金剛智は首を傾げる。そして何事だろうかと不空の背後を覗き込み、そこに広がる惨劇の跡を見つめた。沈黙すること数秒。
「――お主が殺ったのか?」
「断じて違います!」
思わず大声で否定した不空は、はっとして頭を下げる。
「すみません、大師様に向かって無礼な物言いを……」
「なに、構わぬ。お主の師父ではないのだから」
そう言いつつ金剛智は不空の隣を通り抜け、頭から血を流して倒れ伏す少年の側に膝をついた。そしてその首筋に手を当て、ふむと頷く。
「安心せよ。この者はまだ生きておるようじゃ」
「えっ?」
確かに手応えはあったのに、との言葉は寸前で飲み込む。そうとは知らぬ金剛智は、さらに少年の頭部を調べる。髪の毛を持ち上げるとべっとりと血糊が糸を引いた。
「頭に傷を負っておるようじゃが、軽微なものじゃ。髪の色は元々脱色したか染めておったのじゃろう。転んで頭を打ったかな? しかしそれではなぜこんな姿なのか?」
「野党にでも襲われたのでは?」
「であれば命はないはずじゃ。しかも寺の前に打ち棄てるなど」
「きっと人道的な野盗だったのでしょう」
己の所業を誤魔化すために咄嗟に口を挟む不空。しかし自分で言っておきながら、人道的な野盗って何だろうかと心中で自問した。そんなこととは知らぬ金剛智、なるほどそうかも知れぬ、と頷いた。まさか今の言葉を信用したのか?
「ともあれ、まずは手当が必要じゃな。貧道もいくらか医学の心得があるから診てみるとしよう。――それでは不空、一つ頼まれてはくれぬかな?」
「頼み、ですか?」
不空が問うと、金剛智はにっこりと笑った。
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