第二節 封月峰崩落

 夜の山道には危険が多い。道は暗く迷いやすく、獣たちも活発だ。闇に紛れた強盗も出よう。故にたとえ旅人が日没に間に合わなかったのだとしても、それらの危険に出くわすよりは大人しく朝を待つものだ。一つ所に身を置けば、夜闇に道を惑わされる事もない。

 ましてやここは戴天山。滅多に人の踏み入らぬ険しい山中、加えて雨もざあざあと降っている。そんな中を泥酔した状態で行こうなどとは、自殺志願者か狂人かと思われても致し方あるまい。

 そしてここに、それと思われる人物が一人いた。

「いやぁー大変じゃ大変じゃ。雲海の底に穴が開くとは正にこのことだわい」

 雨の中山道を駆けるその姿は、言葉遣いとは裏腹に若い。まだ十五歳程度の少年と思われた。それが何とも爺臭い物言いと風体で、なぜこのような嵐の山中にいるのか?

 少年の姓は李、名を白と言った。親元を飛び出して数ヶ月、賭場で賭け囲碁に興じたり悪党と決めつけた相手に剣を揮ったりと、好き勝手にやってきた。しかしふと思うところがあり、友と別れて一人この戴天山へとやってきたのである。路銀も酒を買うのに使い果たしてしまった。もはや携えているのは着ている衣服と、腰に佩いた一振りの剣、そして酒を詰めた瓢が一つだけである。それでそろそろかとようやく腹を括り、曇天と夜雨も省みずに登山を始めたのだ。――実に愚かなことである。

 しばらく走っていると大岩が屋根のようにせり出した場所があった。やれやれ助かったとばかりに李白はその下へ駆け込み、ぶるりと濡れ猫のように体を震わせた。ぜいぜいとわざとらしい呼吸の後、腰に下げていた瓢の栓を抜いてその中身を口腔へと注ぐ。が、ただ一滴だけがその口腔に落ちていった。瓢の中身は既に空になっていたのだ。

「おいおいおいぃ~。それはないってもんじゃろうよぉ~、酒がないとわしゃあ凍えてしまうぞ」

 何とも自分勝手な言いぐさである。けっと吐き捨て瓢を放り投げる。風が強くないだけまだ良い。だが雨足は強くなることもなければ、弱まる気配もない。完全に足止め状態だ。おまけに気張らしの術もない。元来一つ所に留まることなどできない性格の李白は、きっと歯を剥き出して誰ともなく罵った。

「このうすらポンたんのどたんちんがっ! 長雨などつまらんことこの上ないわ! 貴様が情趣を解すようであれば、何ぞわしの目を開かせるようなことをやって見せんかい!」

 その声が天に届いてしまったのかどうか、それは定かではない。定かではないが、まるでその戯れ言が聞き届けられてしまったかのような出来事が起こった。その瞬間、目を焼くような閃光と、耳を聾するほどの轟音が降り注いだのである。――落雷だ。一体どこへ落ちたのかと岩陰から身を乗り出す。先ほどまでその岩の上に立って腕を振り上げていたはずなのだが、いつの間に降りたのだろう。服もなぜか一瞬の内に泥まみれになっていたが、李白はそれら全てを無視することにした。いやまさか、雷に驚いて転げ落ちたなんてことは……。

 轟音の後に訪れた静寂の中、どこからか獣の呻り声のような、ゴロゴロという音が聞こえてくる。しかし断じて獣ではあるまい。遙か遠くから、地を揺るがすように響いてくる。間違いなく地鳴りである。だがどこから?

 刹那、世界が真っ二つに割れた。いや違う、山道の先、切り立った岩壁が今まさに崩れ去ろうとしてたのだ。土砂と岩とが一緒くたに対面の崖下へと流れ落ちて行く。

「うおおおおおおっ! なんと、なんと!?」

 李白はその光景に絶叫した。畏れではなく、その壮大さ故に。その証拠に顔には満面の笑みがあったが、轟音にかき消されて己の叫びすら聞こえはしなかった。

 未だ土砂の濁流が流れる中、李白は危険など欠片も思い浮かべることなく岩の天井から飛び出し、濁流の側へと駆け寄った。ちらと視線を向けると、路傍にあった「封月峰」と刻まれた石碑が目に入る。

「「封月峰」じゃと! そうか、ここがあの「封月峰」じゃったのか! かつて江湖三侠が巨悪を斃したという、ここがそうであったのか!」

 彼がここ戴天山にやってきたのは、一つがこの封月峰を訪れるためであった。ここはかつて天下に覇を唱えた三侠客の、巨悪を討ち取ったとされる名所の一つなのである。

 それが今、あっさりと自然の猛威に飲み込まれてしまったのだ。本来ならば、己が目的としていた場所が目の前で崩落してしまったとあれば落胆すべきなのかも知れない。だが李白はそうではなかった。元より何でも楽しんでしまう性分なのだ。眼前で先達の偉業が破壊されてしまったとしても、それは人の功績が所詮は自然の脅威に及ばないことの証明でしかない。そして彼は、それを賞賛する心を持ち合わせていた。

「うおぉぉぉぉー! これはまた凄まじいのぉー! こうあっては何が紅袍賢人じゃ、紫衫天人じゃ。彼らもまた人の身なれば、かような業績とて一瞬で粉々じゃわい。やはり所詮は人の業、いずれはわしにも到達できようてなぁ! うわはははははは!」

 仮にそれを聞く人間がいたならば全力で顔面に毬栗でも投げつけられそうな事を言う。例え聞く人間がいたとしても言うことは同じなのであるが。

「随分と畏れ知らずな事を言うわね。そう言うあなたは何なのかしら?」

「話の腰を折るでないわバカ者がぁー! 差すなら水ではなく酒を寄越さんかボケェー!」

 ようやく流れが止まった土砂の、その詰み上がった一角を蹴り飛ばす。ばっと一部は飛び散ったものの、水を吸ったそれらの一部はべっとりと李白のつま先から膝までを覆ってしまった。李白がそれを気にする様子はない。

「残念ながらお酒の類は持ち合わせていないわ。それで、あなたは一体何者なの?」

「何者でも良かろうよ。姿も見せぬ相手に名乗る義理はないわい。お主が絶世の美女でもあれば是非とも御前で名乗らせて貰うところじゃがな」

 李白の周囲には誰もいない。彼はただ一人でここまでやって来たのだから、誰かが居ようはずもない。しかし確かに女の声が聞こえて来る。普通なら飛び上がって驚くところだ。李白は全く動揺する気配がなかったが。

 くすくすくす。まるで隣にいるかのように女の笑い声が聞こえる。

「それじゃあ仕方ないわねぇ。でも私だって、面白がって姿を見せないわけではないのよ? 事情があって出て行けないだけだわ」

「事情じゃと? 指先にささくれでもできたのか」

 それもあるけど、と女。

「そもそもあなた、私が今どこにいるのか、もう気づいているのではなくて?」

「まあ、声は真っ正面から聞こえるからのぅ。しかしこの土砂の中とはいささか信じ難いわい」

「それは信じてもらうしかないわ。私だって好きでこんな狭い所に閉じ込められたんじゃないし」

 そういう趣味の者も世には居るらしいぞー、と李白。それもそうね、と女。

「でも私がそんな趣味だとしても、さすがに十年以上もほったらかしでは飽きるってものよ。いい加減また星空の下を歩きたいわ」

「ならば引き籠っておらずに、出て来て思う存分歩けば良いではないか」

「好きでやってるわけじゃないって言ってるでしょ、簡単に言ってくれるわねぇ……」

 女の声は、確かに崩れ落ちた土砂の中から聞こえてくるようだった。言葉を交わしながら李白はその中へ踏み込み、膝まで泥に埋まりながら声の出所を探った。

「あら、右手が少しだけ動かせるわ。何かに当たってる……岩だわ。でも少し動くみたい」

 女がそう言うとすぐに、李白はそれを見つけた。土壁にまだ埋まったままの岩が一つ、ぐらぐらと不自然に動いている。えいと手刀を打ち付けると、どうと地面に剥がれ落ちた。そしてその剥がれた場所に、確かに女の腕が見えた。泥に汚れ伸びた爪も割れてしまっているが、まるで骨まで透けているのではないかと思うほどの細さと白さである。良くできた白磁のようでもあった。

「おお、見つけたぞ見つけたぞ。しかし驚いたわい、本当に人が埋まっておるのか!」

「ええそうよ。でもそれは今日でお終い。あなたが助けてくれるのだもの」

 土壁から伸びるその細腕に手を伸ばそうとしていた李白は、しかしその言葉を聞いてさっと引っ込めた。

「はぁぁぁぁぁぁ~? おいおい、なぁ~んか勘違いしておるようじゃが、わしは土木役夫でも何でもないぞ。誰がお主を助けるなどと言うたのじゃ?」

「あら、人が生き埋めになっているのよ? あなたはそれを助けてくれないと言うの?」

「ぶわぁぁぁぁぁぁか者がぁ~! 仮に貴様が目も当てられぬような醜女であったなら、それこそ土に埋めておくべきじゃろうが。であれば下手に掘り出したりする必要など無かろうよ。少なくともその腕だけは美しいのじゃからな」

「女を敵に回す言い分ね。でもまあ……顔については、がっかりはさせないと思うわ」

 ほほぉぅ? 李白はぺろりと唇を舐め、実に下劣な笑みを浮かべた。

「それなら別にわしは構わんのじゃがのぅ~。お前さん、一つ忘れておらんかね、え? このわしに、言うべき言葉を言っておらんのではないかぁ~?」

「……?」

 女が何も言わないので、李白の眉尻がぐいと持ち上がる。それはどこからどう見ても悪人の面構えだった。

「人にものを頼む時はぁ~、「お願いします」って頼むものではなかったかのぉぉぉ~? もしくはそれ相応の見返りを約束するもんじゃあ、ないのかのぉぉぉぉ~?」

 相手に見えないことをわかっているのやら、土壁に向かって指先を突きつけている。ややあって、女の苦笑いが聞こえてきた。

「そうね、私ったらすっかり世間知らずになったみたい。――お願いよ、助けてちょうだい。今宵一晩のお相手になるわ」

「うぅぅぅぅぅぅっひょぉぉぉぉぉぉぉいっっっっっっ!」

 奇声を上げて飛び上がる李白。濡れた髪をざっと掻き上げ、女の腕をはっしと掴んだ。氷のように冷たいが、そんなことは気にしなかった。

「言ったからな、お主は確かに言ったからな? わしはそれを聞いたぞ。確かに聞いたんじゃ」

「ええ言ったわ。――それより、助けて貰う前に一つ、確かめておきたいことがあるのだけれど」

「何じゃ、愛妾になりたいのならわしは構わんぞ」

 構わず引っ張ろうとした李白の手を、女はひらりとすり抜ける。はっとした。確かに掴んでいたはずの腕があっさりと解かれてしまったのだ。これは何らかの武芸を用いたに違いない。

「確かめたい事というのは、そうじゃないわ。今夜は月が出ているか、ただそれだけを聞きたいだけよ」

「あぁ~ん? 月じゃとぉ?」

 李白は下唇を額につけようかと言わんばかりにつり上げた。こんな時に何だって、月の有無を知る必要があるのか。それよりも早くそのきめ細やかな肌を撫でさすりたくて仕方がなくうずうずしている。

「ああ出ておるとも! 見事な満月じゃ。雨雲もいつの間にやらどこかへ散ってしまったわい。しかしそれが何だと言うんじゃ?」

「重要なことなのよ。満月が出ているのね、嘘だったらただじゃ置かないから。それなら、さあ、私を助け出して!」

「誰が嘘など言うものか! さあ、姿を現せ。この月光の下に!」

 李白は再び女の腕を掴むと、えいと強く引っ張った。だが思いの外びくともしない。それもそのはず、女が埋まっている土壁は長い時をかけて圧縮され、巌のようになっているのだ。簡単に引き出せるものではない。

「痛いわ! もっと優しくできないの?」

 女の声などお構いなしに、李白は再度腕を引く。が、今度は右手しか使っていない。左手は腰に帯びた剣の柄へと伸びていたのだ。引き寄せるのに合わせ、さっと一閃。更に逆手で二三度と切りつけるとさらりと鞘へ納める。そして今一度、両手で女の腕を引く。

「そんなのは無理じゃ。それ、もう一度行くぞ!」

 がらり、と土壁が崩れた。剣撃によって切り裂かれたのが一気に崩れ落ちたのだ。李白の手に引き寄せられ、その向こうから白い人型が現れた。

 濡れ羽色の髪、白磁のような玉の肌。女はその身にほとんど何も着けていなかった。おそらくは衣服だったのだろう残骸があるものの、もはや何の役にも立っていない。どれほどの年月を経たのか不明だが、着ていた衣服は当の昔に朽ち果ててしまっていたのだ。泥に塗れているとは言え、その肌は月光を受けて輝くかのように白かった。すらりと細く曲線を描く肢体、椀を伏せたかのような形の良い膨らみが目に入る。しかし一番目を引いたのは、その容貌であった。――間違いない、絶世の美女だった。

「おおおおおおぉぉぉぉぉ! これは予想以上じゃぐっ――」

 歓喜の声を上げようとした李白は、しかし皆まで言えずに沈黙した。相手が美女と見るやその手を離して全身を抱き留めようとしたものの、一緒に倒れ込んだ先、後頭部の位置に自らが叩き落とした岩が転がっていたのである。哀れ女体の柔らかな感触を味わう暇もなく、彼は意識を失ったのである。白目を剥いてだらしなく口を開け、後頭部からはどくどくと血が流れ出る。

 その上に容赦なく倒れ込んだ女は、初めに「うぅん」と一声漏らし、そしてやおら李白の腹の上で背を反らせ身を起こした。顔にかかった己の黒髪やら泥を指先で払い除け、睫毛を震わせ目を開く。ふっくらとした唇が震え、甘い息を漏らす。

「――ああ、久方ぶりの光だわ。私はまた、戻って来れたのね。これもあなたのお陰……って、あら?」

 女はようやく自分が恩人の腹の上に乗っていること、その恩人が白目を剥いてぴくりとも動かない事に気づいたらしい。まだ明かりに慣れきっていない目を近づけて確かにそれが人の顔であることを確認すると、困ったように小首を傾げて呟いた。

「どうしよう、死んじゃったわ」

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