第四節 薬強盗と獣の咆哮

 その街は戴天山を降りてさらに街道を南下することしばらくしたところにある。この街も昨夜は嵐に見舞われたはずだが、堅牢な城壁が守ってくれたのだろう、城門を潜って中に入ってみれば雨上がりと思えぬ活況ぶりである。道にまでせり出して商品を並べた店が大声で客引きを行い、道行く人々を呼び寄せている。

 金剛智の言う「頼み」とは、街へ降りて数点の薬を買い集めて来ることだった。それくらいのことならば実に容易い。不空は二つ返事でそれを了承し、金剛智が書き記した薬の一覧と銀子を手に戴天山を降り、街道に出て近くの街へとやって来たのである。

 薬屋はすぐに見つかった。人気のある道から少し外れたところにある店だ。あまり大きくないように見えたが、人に聞いたところ他の店となると街の反対側になるらしい。であればまずはこの店に入り、もしも揃わない物があればその時に改めてそちらへ行けば良いだけのことだ。

 医学薬学の知識など全く持ち合わせない不空だが、金剛智から預かった紙を見せると薬屋の主人は心得たというように一揃い包んでくれた。どうやら特別珍しいものは一覧になかったらしい。実にあっさりと使いの仕事を終えてしまった。あとは元来た道を帰るだけである。

 ――どうせだから、少し寄り道してみようか。

 そんな事を思い浮かべつつ薬屋を出ようとする不空を、そうだ、と言って店主が呼び止めた。

「おい、小僧。言っておくが、俺は一回の支払いで一度しか薬は渡さないからな。落としたり無くしたりしても、代わりは渡せないぞ」

「……? はい、わかっています」

 なぜそんな当たり前のことを言うのだろう、と不空は内心小首を傾げつつ、薬屋を後にした。そうして一度立ち止まってから、やっぱり寄り道はやめようと決め、元来た道を引き返し始めた。自分は遊びに来たのではない。金剛智大師に頼まれて怪我人を治療するための薬を購いにきたのだから。……その怪我の原因の半分は己にあるわけだが、それについては考えない事にした。

(それにしても、あいつは何者なのだろう?)

 気になるのはあの少年の素性である。衣服を剥がれていたことから物盗りに遭ったことは間違いなさそうだが、そもそもなぜ戴天山を訪れたのか。大明寺に縁の者とは考え難いし、特に物見遊山をするほどの名所はあそこには無いはずだ。

(……いや、そう言えば)

 いつだったか、修行僧の誰かから聞いたことがある。この戴天山には世の侠客たちが憧れる「封月峰」と呼ばれる場所があるのだとか。詳細は忘れてしまったが、かつて江湖に名を馳せた大侠客がそこで一人の大敵を封じたという。その侠客に憧れてか、それから数十年が経過した今でも「封月峰」目当てで戴天山を目指す人間は多いと聞く。もしかするとあの少年もその類なのかも知れない。そこを野盗にでも襲われたのだろう。

(わざわざ身ぐるみ剥がれにここまでやって来るとは、ご苦労なことだな)

 実に莫迦な奴だ。ふん、と鼻で笑いながら不空は角を曲がった。そしておよそ三歩足を進めた時である。突如ぐいと腰帯を引かれ、さらに首筋に何か冷たいものが押し当てられた。

「――その包み、こちらに渡しなさい」

 耳元に声がかかる。何事が起こったのか、不空は最初理解できなかった。しかし首筋に押し当てられたそれが短刀であることに気づくと、そこでようやく強盗だと理解した。

「包み? これはただの薬で……」

「知っている。だから渡せと言っているのよ」

 さらに強く押し当てられる短刀。不空は一瞬、どうすべきか考えあぐねた。薬屋は言った、一度失えば代わりはやれないと。……もしかしたらあの店主は、不空が強盗に遭うことを予期していたのか?

 不空が応じないのを抵抗の意思と見たのか、強盗はやおらやおら膝裏を蹴りつけて不空を地面に投げ出し、さらに短刀の柄で後頭部を一撃する。ぐらりと視界が揺らいだ不空はなす術もなく地面に両手を突いて倒れ伏した。ぬかるみがバシャッと跳ねる。落とした包みを拾い上げ、パタパタと走り去る音を遠く聞きながら不空はしばし意識を失った。

 ……おそらくはそう長い時間では無かったはずだ。はっと意識を取り戻して身を起こすと、すぐ近くで誰かが後退った。見ればまだ幼い子供が二人、驚いた表情で不空を見ていた。七、八歳ほどと見える男の子と、それに手を引かれたさらに幼い女の子だ。

「お兄さん、大丈夫ぅ?」

 男の子の言葉に不空は頷いて答える。脳髄を揺らすふらつきはもうない。二本の足で立ってみても問題はない。

「あぁ、大丈夫。心配要らないよ。それよりも君たち、怪しい奴を見かけなかったか? 僕はそいつにいきなり殴られたんだけど……」

 問われた二人は互いに顔を見合わせ、そして同時に頭を振って知らないと答える。そうか、と不空が落胆の息を吐いたところで、でも、と男の子が地面を指差す。

「もしかしたら、それじゃないかな?」

「それ?」

 見れば、不空が倒れ込んでいた泥濘から濡れた足跡が道の先へ延びている。ついさっきできたようであるし、不空が殴られる直前にはこんな物はなかったように思うし、何よりもまだ湿っていて真新しい。すなわちこれは――。

「やったぞ! これはあいつの残した足跡に違いない。見ていろよ、必ず追いつめて痛い目に遭わせてやる!」

 そう言って駆け出そうとした不空を、待ってと男の子が呼び止めた。不空は蹈鞴を踏んで立ち止まる。

「っと、何か用? ……ああ、そう言えば礼を言っていなかったっけ。ありがとう、助かったよ。もう行っても良いかい?」

 内心少し苛立ちながら、しかしそんな様子はおくびにも出さない。男の子は少し困ったようにしていたが、やがておずおずと切り出した。

「お兄さん、この先に行くのは止めた方が良いと思うよ?」

「……なに?」

「怖い奴らがいるんだよ。だから近づいちゃいけないって、母さんに言われたんだ」

 そだよ、と女の子が舌足らずな口調で続ける。

「こわぁいのがいるの。うおぉー、うおーってさけぶんだよ。だから近づいちゃだめなの」

 女の子の目は真剣だ。とても嘘を言っているようには見えない。だが、曖昧に「こわいの」と言われても不空には何のことだかわからない。それに相手は自分よりも幼い子供だ。もしかすると猛犬の類を言っているのかも知れない。となると、それぐらいの事で引き返そうとは到底考えられなかった。

 心配ないさ、と言い残して不空は濡れた足跡の追跡を始めた。強盗は不空が気絶したものと思ってか、一直線にどこかを目指しているようだ。まさか泥濘ぬかるみに足を突っ込んで足跡を残したとは夢にも思っていないに違いない。

 しかしながら、姿を消した相手の行き先などそうそう簡単に追跡できるものでもなかった。濡れた足が乾いたのだろう、足跡は次第に薄くなり、やがてほとんど見えなくなってしまった。しばらくは地面に残ったわずかな濡れ跡で辿ることもできたが、それもやがてできなくなった。

「えぇい、なんてこったい! ここまで来ておいて!」

 苛ついた不空は拳を握り、どんと隣の塀を叩いた。するとその時、その塀の向こう側から世にも恐ろしい声が響いてきた。

「ウガァァァ、ウアァァァァ!」

「!?」

 仰天した不空は危うく尻餅をつきそうになる。今のは一体何事だ? 思わず一歩後退した不空の裾を、誰かがくいと引き寄せた。

「うおあっ!?」

「うわっ!」

 振り返ってみれば、先ほど分かれたはずの男の子と女の子だ。女の子は何かに怯えるように、今は男の子の腕にしがみついて恐怖で泣き出しそうな顔をしている。

「君たち、なぜこんなところに?」

「お兄さんのことが心配になったんだよ。ほら、今のを聞いたでしょ? ここには近づいちゃいけないんだ」

「今のが、君たちの言った「こわいやつ」なのかい?」

「そうだよ。でもあんなのはどうだって良いんだ。あんなのよりも、もっと怖いのは大人の方さ」

「大人の方?」

 先ほどの正体不明の咆哮よりも、人間の大人の方が怖いとはどのような意味だろうか? 不空はそれを問おうとしたが、それを遮るかのようにどこかから、しかしさほど遠くない場所から誰かが叫ぶ声がした。

「もう来るなと言ったのに、また来たのね!? 帰ってよ、帰りなさいよ!」

 若い女のようである。しかしそれを聞いた男の子は、ぎょっとしたように肩を強ばらせた。まるで聞いてはいけないものを聞いてしまったかのようである。そうして慌てたように女の子の手を引きながら踵を返す。

「僕たちはもう行くよ。お兄さんも、早く行った方が良いよ。ここにいちゃあいけないんだ。僕は、言ったからね。もう知らないよ」

 そのまま女の子の手を引き走って行ってしまった。一体、なにがどういうことだろうか? 不空には何が起きているのかさっぱり理解できない。あの子たちは間違いなく、今聞こえてきた女の声を聞いてこの場を立ち去った。しかし、あれの何が「怖い」のだ?

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