第二十四節 誰も望まない結末
斐剛の腕が唸りを上げる。まずは体を半身に開き、五指を開いた手を上下に構えて相手に向ける「猛虎威風」の構えを取る。翡蕾も咄嗟に左足を退いて右手を斜め下に翳す「
足を交差させるように一歩後ろ足を踏み出し、捻転した腰をぐるりと回す斐剛。大きく円を描いた掌がびゅうと凪ぐ。腕の届かぬ間合いだが、翡蕾は咄嗟に腰を落としてその軌道から逃れる。すると、バァンッ、背面の壁が鞭で打たれたかのように震える。目には見えなかったが、迸った斐剛の内力が直撃したのだ。
「俺の「白虎揺尾」を躱すとは、大したものじゃないか。さあ、次はこれだ!」
さらに一歩踏み込む斐剛。すると、その体はまるで地面を滑空するかのように急接近した。上体の前後をまた入れ替えて、後方から五指を開いた虎手が襲い掛かる。体を屈めた翡蕾の顔面を狙う位置だ。
「――っ!」
翡蕾は下方に構えていた右手を跳ね上げ、この一撃を跳ね上げる。が、それは陽動。斐剛の真の攻撃はその後ろで振り上げた大上段の手刀であった。びゅう、と風が唸る。下手に受け流そうとすれば逆に危険だ。翡蕾は地を蹴り、「地掃旋風脚」を使って三回転、斐剛から距離を取る。
「逃げては勝てぬぞ!」
追撃する斐剛、またも地表を滑空しながら距離を詰める。今度は下腹を狙った掌が襲い掛かる。あわや直撃の瞬間、翡蕾は両手でこれを掴み取った。上下に挟み込むように押さえ、下の手はそのまま鉤の形に変化して斐剛の手首を捕らえ、上の手は腕を辿って顔面を打ち据えるべく駆け上がる。パァンッ! 斐剛もまた、直前でこれを受け止めた。
しかし翡蕾は即座に掌を返すと、捕らえた腕を腰で固めながら腋下を打った。そのままついと歩みを進めると、斐剛と場所を入れ替わり、そのまま斐剛はその先にある壊れた卓に突っ込んだ。
「斐剛! ……小娘、よくもっ!」
沙春昭が剣を抜きかける。しかしそれより先に斐剛が卓を押しのけ立ち上がり、これを制した。そして天を仰いで高笑いを上げる。
「フハハハハ! 実に見事だ、梁姑娘。その武芸、実に欲しくなった」
笑いながら一歩踏み出し、連続の縦拳を繰り出す。翡蕾は掌を揮ってこれを受け流した。すると今度は足が振り上げられ、それはするりと体を転換させて回避する。だが斐剛は蹴り足をそのまま深い踏み込みに変え、体側を使った当身を放つ。咄嗟に腕で防御する翡蕾だったが、瞬時に襲い掛かった内力の膨大さに圧倒され、慌てて地を蹴って後退した。
しかし斐剛は間髪入れずにこれを追撃する。縦横無尽の手刀攻撃だ。翡蕾も手刀を揮ってこれを受ける。腕が接触する度にジンジンと骨肉に響く痛みが走った。
(受けてはダメだわ。「清流葉」で何とか返せないかしら……)
翡蕾の手刀が動きを変える。斐剛はまるで水の流れに呑まれたかのような感覚になる。抜き取ろうとしても翡蕾の腕はぴったりと張り付いたように離れない。さらにはこちらの軌道を力が発する前に逸らされ、狙った通りの攻撃を繰り出せなくなった。
「味なことを!」
ぐいと足を踏み込む斐剛。つま先を翡蕾の踵にあてがい、膝頭同士をぶつける。ぐらりと翡蕾の上体が傾いだ。そこへもう一方の足で膝蹴りを放つ。どすっ、と鈍い音を立てて翡蕾の体は軽々と吹き飛んだ。
「うぐ……っ!」
翡蕾は前屈みになって呻いた。
(このままでは押し負けるわ。何か――)
上げた顔の先、斐剛が大きく踏み込んで脚を振り上げるのが見えた。マズい、そう思った瞬間、割り込む声があった。
「姑娘、これを!」
聞き覚えのある声、常連客の一人だ。見れば、自身が座っていた長椅子を翡蕾に向けて滑らせていた。咄嗟に翡蕾は滑ってきたその椅子を受け止めると、斐剛との間に割り込ませて盾にする。ドカッ! 斐剛の脚が天板を打った。
しかしながら斐剛も椅子が翡蕾の手に渡る瞬間を見ている。すぐさま蹴り脚の膝を立てると、そのまま体重をかけて踏みつける。翡蕾はそれより一瞬早く、椅子の脚を持ってぐるりと椅子を横倒しにした。斐剛の脚はズダンと地面を踏みつけた。
翡蕾はさらに椅子の脚を引き寄せる。するともう一方の脚が斐剛の膝裏に引っかかり体勢を崩す。そこで一転、翡蕾は椅子を持ち上げると、そのまま押し倒すように斐剛に浴びせかけた。腕を掲げてこれを受ける斐剛、しかしながら、翡蕾は同時に椅子の影から突きを放っていた。椅子にしか注意が向いていなかった斐剛は、その突きを鳩尾へまともに食らった。
椅子を持ち上げ、翡蕾はそれをぐるりと自身の体を軸に一回転させる。そうして遠心力で加速させた椅子を、まるで槍を突き出すように放つ。
「ぐおっ……!」
鳩尾への突きで怯んでいたところ、額に椅子の一撃を受けた斐剛はふらふらと後退した。つつ、とその瞼に血が触れる。あの真新しい左額の傷が開いて血を流していた。
「……」
斐剛は手で触れて出血を確認すると、すっと背筋を正した。――なにやら様子が変だ。翡蕾は椅子を両手で持ち、構える。
指に着いた血を振り払い、斐剛はゆっくりと腰の剣に手を掛けた。
「――生半可な力量の輩はこれだから困る。小娘どもがこの俺に、二度も血を流させるとはな。蟷螂の斧とは正しくこれを言う!」
キンッ、剣が抜き放たれ、斐剛は急接近を仕掛ける。地面に水平に寝かせた剣の切っ先が寸分のブレもなく突き進む。翡蕾は椅子の天板でその剣身を打って逸らし、同時に自身も飛び退いて距離を取る。斐剛の剣が素早くそれを追う。カッ、と音を立てて剣刃が天板に食い込んだ。
「紅袍賢人の武芸は、貴様のような小娘に扱いきれるようなものではない!」
さらに三連撃が翡蕾を襲う。いずれも椅子で受けて凌いだが、その度に削られた木片が宙を舞う。
(剣を奪わなくては形勢不利だわ)
斐剛が再度突きを繰り出す。翡蕾はその軌道上に椅子を割り込ませた。斐剛との剣と腕が、天板と脚の横木との間にするりと滑り込む。剣先が鼻に触れようかというところで、翡蕾は椅子をぽんと打って回転させる。すると斐剛の手から剣がもぎ取られ、半回転した椅子の脚の間からは剣の先端が斐剛自身に向く。翡蕾は剣の柄頭を打った。椅子を砲身として、まるで袖箭の如く剣が射出される!
仰け反る斐剛、その頬を掠める剣。紙一重で翡蕾の反撃を回避する――しかし、それだけではなかった。あろうことか斐剛は、後方へ伸べた手で飛び去ろうとする己の剣を掴み取ったのである。
(まさかっ!?)
仰け反った体をばねのように縮め、受け止めた剣をそのまま大上段からの斬り降ろしとする。翡蕾は咄嗟に椅子でこれを受け止めたが、剣身はざっくりと椅子の中ほどまで食い込んだ。縦にほとんど真っ二つである。裂けた天板の合間から互いの視線が交錯する。斐剛のその眼には、強烈な殺意が燃えていた。
「白銀白虎を、俺を、莫迦にする奴は許さねぇ! 俺はもっともっと強くなる。江湖に名を馳せる英雄となるのだ。どんな奴にだって負けるわけにはいかねぇし、コケにする奴がいれば容赦はしねぇ!」
――コツッ。何かが斐剛の肩にぶつかって跳ねた。
「あ?」
剣を押し込みながら、斐剛の視線が地面に転がったそれを見る。小さい陶器の破片だ。なぜこんなものが?
翡蕾にはその陶器の破片がこの店で使っている皿の破片であるとすぐに気付いた。どこから飛んできたのかと同様に疑問を思い浮かべた、その時だった。
「蕾お姉ちゃんを、いじめるな!」
幼い声と共に、もう一つの破片が斐剛の腰に当たる。斐剛と翡蕾は同時にそちらを見た。そこにいたのは数人の子供たち。閻厖が羨ましげに見ていたあの卓の子供たちだった。その中の一人、とりわけ幼い十歳程度の女の子が、その手に持った割れた皿の破片を振りかぶる。
「怖いの、出て行け!」
やめろ、とすぐ側にいた少し年上の男の子が遮ろうとする。しかし一瞬早く欠片は少女の手を離れ、それは斐剛の頭にコツンと当たった。
「ガキども、何をするんだい!」
沙春昭の怒号が飛ぶ。しかしそれよりも早く、斐剛自身が動いていた。椅子に突き刺さっていた剣をぐいと引き抜くと、ダンと地面を蹴った。大きく剣を振りかぶり、子供たちに向かって飛ぶ。
「やめろ!」
その時、叫んだのは誰だったか。
翡蕾は咄嗟に椅子の脚を飛び上がった斐剛の足首に引っ掛けた。ぐらりと斐剛の体が傾ぐ。翡蕾は腕を伸ばし、斐剛の腰帯に手を掛けた。これをさらにぐいと引っ張り、その背中を駆けるようにして前に出た。ヒュンッ、斐剛の剣が振るわれ、ぱっと血が飛び散るのと共に翡蕾は足首にちくりと痛みが走るのを覚えた。しかし、そんなのは些末事だ。
肩から地面に突っ込み、滑るようにして女の子の前に滑り込む。すぐさま身を起こすと、目前に斐剛が迫っていた。
「下がって!」
翡蕾は背中で子供たちを押しやり、ボロボロの椅子を掲げながら地面を蹴ろうとした。しかし、伸ばした足は空を蹴った。見れば、右足首は翡蕾の脚を離れて斐剛の後方に転がっている。先ほどの一閃で斬り落とされたのだ。
パァンッ! ――斐剛の一振りが、綺麗な弧を描いて椅子を真二つに断った。盛大な血飛沫が上がり、その上着を真っ赤に染める。
誰かが悲鳴を上げた。その場にいた誰もが慌てふためき、蜂の巣をつついたような大騒ぎが始まった。
「人殺しだ!」
その混乱の中、いつの間にか白銀白虎一行の姿は消えていた。
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