第五節 半分の月

「山火事だなんて大変ね。あの人は無事かしら」

 火消しの道具を手に手にかけて行く人々を見送りながら、蘭香は朝餉の粥をかき込んだ。遠く谷の方角から黒煙が立ち上っているのが見える。まださほど火の手は大きくなっていないようだ。

「まだあの程度の火勢ならすぐに逃げ出せるさ。油断はできないけどね」

 元林宗の椀はすでに空だ。特別食べるのが早かったわけではない。蘭香が三杯目を食べ終わるのを待っているだけだ。

 團旺の凶行を蘭香は知らないままだ。教える必要もない。元林宗はまだ夜も明けないうちに、あの忌まわしい惨劇の現場から、眠ったままの彼女を背負って立ち去った。

 あのような狂気の現場を、彼女に見せる必要はない。知らぬ間に八つ裂きにされかけたなどと伝える必要もない。早くに街へ出るため、まだ明けやらぬうちに辞去したのだと嘘を吐いた。疑われることはなかった。

「見に行った方が良いかしら?」

「必要ないよ。それに私たちのような部外者が飛び込んでいっては、消火に当たっている方々のご迷惑になる。きっとあの人たちが何とかしてくださるよ」

「そうかしら? まあ、それならいっか」

 特に反論もなく、蘭香は残りの粥を喉に注ぎ込む。

 火を放ったのはもちろん元林宗だ。何人分もの遺体と呼ぶにはあまりにも損壊されたそれらと、おぞましい調理研究の記録をまとめてこの世から葬り去るために火を放った。あらかじめ広く延焼しないよう、周囲の木々は蹴り倒し、水も撒いてきた。あの小屋の周辺一帯は確実に焦土と化すだろうが、それ以上の大事には至るまい。

 それにしても――元林宗は立ち上る黒煙を眺めながら考える。

 あの小屋に遺体を送り届け、團旺を殺害したのは一体何者であったのだろう? 蘭香が寝ていた寝室の入り口には血の足跡が残されていた。何者かがあと一歩のところまで蘭香に接近していたことの証左だ。最後の一歩が強く蹴り出したようであったのは、元林宗の気配に気づいて撤退したからに違いない。

(もしも口封じのために團旺を殺したのであれば、蘭妹の寝室まで足を運ぼうとはしないはず。もしも仇討ちを考えていたのなら、私よりも先に蘭妹を狙うのは道理ではない)

 どうにも解せないのだ。あの場にいたもう一人の誰か、その目的が見えない。魔境の噂の真相は團旺の悪行に間違いないのだが、この一件はあれの死だけでは解決しない。もっと複雑な事情が絡んでいるように思えた。

 馬の嘶き。元林宗はふと、特に意味もなく顔を上げた。その視線がすっと嘶きの聞こえた方角へと向く。元林宗の身体が、固まった。

 今しも街道に出ようとしている一頭の黒馬。その上に跨るのは細身の女。薄青の衣装に身を纏い、裾をふわりと空に踊らせている。頭に被った編み笠の下から、ちらりとこちらへ視線を寄越す。その口元がにやりと笑みの形を作った。

 元林宗は知っている。あの顔を、あの女の名を。しかしどうして、彼女がここにいる? 蘭香に魔境の噂話を話して聞かせたあの女が、どうして山谷を跨いだこの場にいるのだ? どうしてあのような表情をこちらへ投げるのだ?

 ――雷光のように思考が閃り、元林宗はようやく思い至った。

「そうか、そうだったのか!」

「ほみゅっ!?」

 粥を食べ終え、次は饅頭に齧り付いていた蘭香が驚いて飛び上がる。その口にはまだ饅頭が咥えられたままだ。そのまま元林宗の視線を追って背後を振り向くが、そこにはすでに巻き上げられた後塵が漂うばかりである。

「もぐ……んぐっ……林哥哥、何かあったの?」

「いや……何でもないよ。それより、食後の甘味は要らないのかい?」

「もちろん要る要る! 店員さ~ん、何か甘いものってなぁい~?」

 店の奥に向かって叫ぶ蘭香を見つめつつ、元林宗は密かに卓の下で拳を握り締めた。

 何が魔境だ、何が妖魔の住む山だ。そんなもの、最初からこの地には存在しなかったのだ。それらはすべて、たった一つの赦し難い目的のためにでっち上げられた大嘘だ。すべては仕組まれたことだったのだ。

(あの女は、最初から蘭妹を謀殺するためだけにあんな話をしたんだ。團旺の元へ送り込み、斬り刻まれるように仕組んだ。それに失敗したから團旺を口封じに殺し、そして自らの手で蘭妹を殺めようとした!)

 山に入る前、蘭香は茶店でとある人物と会っていた。今しがた馬に乗って去った女はその人物の侍女だ。彼女は二人に土産を渡しざま、魔境の噂話を語って聞かせたのだ。

(あの女の独断か、それとも宗主と呼ばれていたあの男の命令か。いずれにせよ、許すわけにはいかない)

 次に相見あいまみえるときには、きっと一切の言葉など要らぬだろう。二度と、蘭香に対して指一本触れさせてやるものか。それどころか、言葉の一つさえかける暇も与えはしない。蘭香が目に見、耳に聞くよりも先に。闇の底へと屠ってくれよう。

「……さん、哥哥にいさん?」

 ふと、蘭香の呼びかけで我に返る。怒りのあまりに周囲の状況が一切入ってきていなかったようだ。顔を上げれば、蘭香がはにかみながら右手を差し出している。その上には半分に割られた月餅が。

「あいにく、これ一つしかないんだって。だから、はい。半分を哥哥にあげる」

「私に?」

 思わず問い返した元林宗に、蘭香はもちろんと頷いた。

「私と林哥哥にいさんの仲だもの。仲良く半分こ、ね?」

 元林宗は蘭香の顔と月餅との間で何度か視線を往復させ、ようやく固く握り締めていた拳を開きこれを受け取った。蘭香は満足そうに頷いて、もう一つ左手に持っていた月餅を口内へ放り込んだ。ん~っ、と呻いて顔面を蕩けさせる。

 元林宗は己の手の内にある月餅を見た。中心からきっちり二つに割られたその形。昨夜見た半月と寸分違わぬその形。

「……ああ、確かに綺麗な形だ」

 呟いて、彼もまたそれを口に含んだ。


(了)

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