第六節 歪み

 ドサッ、と憤懣やる方なしの風情で腰を下ろす阿遥。ぷっくりと頬を膨らませ未だ怒り冷めやらぬ。どうしたね、と王恭が問えば、じっとりと非難の目を向ける。

「あの男は碌でもない奴です。あんな狗雑種のらいぬといったい何の話をされていたのですか。あんな奴と言葉を交わすなど、宗主様の玉体に瑕がつくというものです」

「なに、ちょっとお互いの思想について話しただけさ」

 王恭も腰を下ろし、傍らの包みを卓上へ置く。ほんの少し包みを解いてみれば中から現れたのは刀剣の柄。鍔元には五色の宝石があしらわれ金の彫刻がそれを包んでいる。見事な造型だ。しかしわずかに引き抜いてみれば、その刀身は激しく刃毀れを起こしていた。見事な装飾刀がこれでは台無しだ。

 はあ、と阿遥が息を吐く。

四山象刀しざんぞうとうが金石を断つ利刀どころか、かくも装飾華美なばかりの無用の長物とは。まことに残念でございます」

「気にすることはない。もとより、利剣宝刀はそうそう簡単に手に入るものではないさ」

 パチリと刀身を鞘に納める。阿遥はすっと背筋を伸ばした。

「これで飛鼠ひそがしくじったなら、私たちは揃って無能を示すことになりましょう」

「その心配はないよ。蘭香が言うには、あの人も首尾よくやったようだ」

「では金環剣きんかんけんを?」

「ああ。間もなく届くだろう」

 阿遥の表情は複雑だった。喜びとも悔しさともとれぬ表情を浮かべている。その理由を王恭は知っている。飛鼠に金環剣奪取の策を与えたのは阿遥自身だが、それは王恭が命じたからに過ぎない。彼女はその本心では飛鼠の失敗を望んでいた。見た目が醜怪であることもそうだが、年上だからとやたら先輩風を吹かせてくるのを阿遥は嫌っていたのだ。

「そんな表情をするな。お前たちは二人とも、よくやってくれている」

 ねぎらいの言葉をかけてやっても、阿遥はまだ不満顔だ。

「私をお叱りにならないのですか?」

「なぜ叱る必要がある? お前になんの落ち度が?」

「望みにお応えできておりません」

「私を一人にしないだけで、お前は十分私の望みに応えてくれているよ」

 言葉に詰まる阿遥。もちろん、それは従者としての彼女へ向けられた言葉であると理解している。王恭は阿遥を女性として扱うことなど決してない。なぜなら、阿遥が彼を愛しているからだ。

「……宗主様の武芸はすでに一流の中の一流。それなのになぜ、利剣宝刀を求めるのですか?」

「利剣宝刀に対抗するには、利剣宝刀が必要だろう?」

 四山象刀の包みをまた傍らへと置く王恭。ふふんと漏らした息は自嘲の色か。

「いずれ私を討とうとする江湖の英雄好漢が現れるだろう。そんなとき、私の手にあるのがくず鉄では示しがつかないではないか」

「宗主様を討とうなど、この私が許しません!」

 ダンッ、阿遥の拳が石卓を打つ。すぐそばの席にいた者がぎょっとして振り返るも、すぐにまた元の歓談に戻る。だが阿遥がその拳を退けてみると、そこには明らかな窪みが生じていた。彼女の怒りの深さが知れる。未だ知らぬ何者であろうと、王恭を害する者すべてが彼女の敵であった。

 怒りの炎を燃やした双眸はやがて憂いを帯びて、阿遥は唐突に王恭の胸へ飛び込んだ。王恭はそれを動じることもなく受け止める。

「ご存じのはず。私だけではありません。宗主様の元に集った者すべて、宗主様を必要としているのです。宗主様だけが、この世で私たちを受け入れてくださる。救ってくださるのですから」

 悪人は救いなど求めない、と李白は言った。その言説に従うならば阿遥は悪人ではないのだろう。例え四山象刀を得るために旗雲塞きうんさいに毒を放ち、そん香主こうしゅはおろか一族郎党すべてを口なしの死人に変えてしまったとしても、彼女はただ一途なだけの乙女なのだ。

「私は私のため、お前たちを利用しているのだよ?」

「私は構いません。宗主様のご意思ならば、この五体を引き裂かれても、七孔を潰されても、喜んで従います」

 顔を上げて見上げるその目は痛切な色を含んで潤む。彼女は一度たりとも王恭に対して嘘を吐いたことがない。その口が言うのだから、彼女はきっとそうするだろう。それこそ身を引き裂かれる苦行にも喜んで身を投げ出すだろう。

 しかしそれを叶えてやるほど、王恭は他人を愛さない。

「君をそんな風に失うのは勿体なさすぎるよ」

 頭を振りながら阿遥の体を自身から押し離す。阿遥がそれに逆らってまだ抱き着こうとするので、二度目は内力も込めて押す。さすがの阿遥もここまでされて抗うことはない。潔く拒絶を受け入れ、下唇を噛む。その体は小さく震えていた。哀しみからでも屈辱からでもない。その証拠に彼女の顔は耳まで紅潮し、潤んだ目元は劣情さえも含んでいる。

「それが私の、さがですので」

 くつくつと忍び笑いを漏らす。王恭は即座に気づいた。阿遥は何かを隠している。

「何かあったのか」

 にぃっ。阿遥の唇が邪悪に歪んだ。丹精込めて仕掛けた悪戯を見つけてもらって、楽しさを堪えきれない悪童のように。

「こちらへ戻る途中、あの奇抜な衣装の娘とすれ違いまして。私、あの方が宗主様とお話しされていたのが本当に羨ましくて、羨ましくて。点心をお渡しするついでに、ちょっと面白いお話を聞かせて差し上げたのです」

「面白い話? 蘭香に何をした?」

「團旺の元へ差し向けました」

 王恭の瞳が瞬時に見開かれ、阿遥は肩を揺らして嗚咽のように笑いを零す。王恭はそんな彼女をしばし茫然と見つめた。

 彼女が欲しているのは愛ではない。愛する者に愛されたいという欲求は彼女にない。あるのはただ、愛する者に拒絶され、憎悪され、斬り刻まれて畜生の如く扱われること。そのためならばいくらでも残忍になれる。それが阿遥の歪んださがだ。

 やれやれ。王恭は長く長く息を吐いた。阿遥をそれほどまでに嫉妬させるとは、自分はどれだけあからさまな反応を見せてしまったのだろう。蘭香と思わぬ再会を果たした。それは確かに心躍る出来事だった。だがそれは、阿遥に格好の餌を与えてしまったのだ。

「團旺にしてやられるなら、蘭香もそれまでだったということだ。そう簡単にはいかないだろうが、ね」

「ッ!」

 しかし阿遥の思惑とは裏腹に、王恭はまったく動じる様子がない。それどころか逆に阿遥の心裡を見透かしたうえで逆撫でをしてくる。これには俄然、嫉妬の炎が燃えた。

 そこで王恭は立ち上がり、一歩を踏み出しつつ阿遥の顎を掴んで乱暴に上向かせた。突然のことに虚を突かれる阿遥。

「でも……そんなに罰が欲しいのなら、今夜とびきり痛めつけてあげようじゃないか」

「――ぜひッ!」

 責め苦を与えてやろうというのに、阿遥の反応はまるで比類ない贈り物を約束されたかのように明るい。陶然と息を吐きながら王恭の手に頬ずりしようとする。が、王恭はさっとそれを引っ込め、視線もくれずに歩み去る。

 阿遥はしばらく心を失ったかのように惚けていた。そしてややあってから我に返ると、残された四山象刀を手に駆け出した。


(了)

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