第五節 品定め

 王恭は蘭香が立ち去ってからしばし茫然としていたが、ややあってから卓上の書を再び開いた。すると、いくばくも読み進めぬうちにぬっと影が差す。誰かが正面に立ったのだ。顔を上げてみれば、そこにいたのは同じく二十代と見える男。青い目に赤色の混じった髪が特徴的だ。

「いやはや、いい場所を見つけたと思えばどこも満席。仕方ないから相席じゃあ」

 こちらはまだ相席に応じてもいないというのに、男はさも当然のようにどっかと対面の席に腰を下ろす。確かにどの席にも先客はいるが、空席があるのは何もこの卓だけではない。それをわざわざこの奥まった席を選ぶとは。

 いやぁ、暑い暑い。夏でもないのにそんな言葉を繰り返しながら、男は服の襟元をくつろげてばたばたと手で煽ぐ。

「ちょーっとばかり厄介な輩に目を付けられてしもうてのぅ。ここまで死ぬ思いで逃げてきたところなんじゃ。もう走りっぱなしでへとへとなんじゃ。喉が渇いて仕方ないわい」

 言いながら断りもなく茶器を取り、勝手にごくごくと中身を飲み干す。この男、自分勝手にも程があるのではないか。

 しかし王恭は怒ることもなければ騒ぐこともなく、すっと手を挙げた。最寄りの茶店の店員がそれに気づいてそそくさとやってくる。

「お疲れならどうぞごゆっくり。これも何かの縁、私から茶をご馳走しましょう」

「おっ、太っ腹な奴じゃな。しかしどうせ喉を通すなら茶よりも酒じゃ。おい、酒を寄越せ! こちらの御仁の奢りじゃ!」

 まだ距離のある店員に声を張り上げる。人の金と思って遠慮なくたかるつもりのようだ。王恭はそれでも涼しい顔だが。

 ふぅ~ん。どうにも相手が動じないのに興味を引かれたのか、男はまじまじと王恭を観察する。そしてふとその傍らに置かれた包みに目を留める。

「お主、もしや旗雲塞きうんさいそん香主こうしゅか?」

「いいえ。私の名は王恭。なぜそのようにお考えで?」

 王恭が拱手して名乗ると、男も抱拳礼を返した。

「わしは李白じゃ。いやなに、その傍らに置いた包みは刀であろう? よもや噂に聞く四山象刀しざんぞうとうではないかと思ってな」

 王恭は直接には返答せず、ただ頷くのみだ。こちらの身なりに武器は不釣り合いのはず。それでもこの包みの中身を見破ったこの男、何者であろうか。

「そちらも、ただの剣ではありますまい」

 王恭の視線がさっと李白の腰へ。そこには黒塗りの鞘に収まった剣が一振り。ふふん、と鼻を鳴らす李白。

「大した物ではないが、悪党を斬り伏せるのに宝剣は要らん。鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん、というやつじゃ」

「まるで多くの悪人を斬ってきたかのような物言いですね」

 王恭の声は咎める色を含んでいるが、李白はそれを察した様子もなくふふんと鼻息を漏らす。むしろ得意気だ。

「おうよおうよ。わしは齢十五にはこの剣を佩いて遊侠の世界に踏み入り、それはそれは多くの悪党どもを斬り伏せてやったものじゃ」

 訊かれてもいないのに指を折って数え始める。あれは不空ふくうがやった、あれは東巌子がやった、とぶつぶつ言っては指を曲げたり伸ばしたり。王恭は何も言わず頭を振ったが、これには李白も気づいた。

「なんじゃ、なんぞ言いたいことがあるようじゃな?」

 ぐっと卓上に身を乗り出し、王恭を下から睨めつける。常人ならば仰け反って逃れるなり、即座に弁明でもするところ、しかし王恭は動じることもなくこれを見下ろした

「悪人もまた人です。それを害獣のように討ち取り、その数を誇るなど」

 卓上の書を取り上げ懐へ納める。ちょうど先ほどの酒屋の店員が酒壺と盃を持ってきたのだ。空けたところへそれらを並べる。律儀に盃は二つ。李白は飛びつくように酒壺の封印を解き、一人勝手に手酌酒を始める。ぐびぐび、ぷっはぁ~。

 王恭は李白の勝手に一切取り合わず話を続けた。

「彼らは望んで悪人となったわけではない。彼らはただ、他人よりも遥かに大きな業を背負っているだけなのです。彼らはいつでも、救済を望んでいる」

 すると李白、ぐいっと盃を干すなりからからと笑いだす。

「そんな奴らを斬ってしまうのは無情に過ぎる、とでも言うつもりか? お主、見た目に沿わず阿呆じゃな。救いを求める悪党など三下よ。真の悪党は業も何も呑み込んで、己の中ですべてが完結しておるのじゃ」

「ゆえに、改心など望むべくもなく、ただ斬り伏せるが世のためと? あなたはそれで救世ぐぜの務めを果たしているとでも?」

「世のため人のためなどと高尚なことは言わんわい。悪党をぶった斬るのはわしの趣味、じゃ」

「それではまるで、あなたの方が悪人だ」

 王恭の言葉に、李白は今一度大衆が振り向くほどの声量でゲラゲラと笑う。また手酌で盃を満たして、すぐさま干す。

「我は善人などと自らうそぶく輩は、大嘘吐きか大バカじゃ。わしはそんな大ボケ野郎ではないわい」

「では何者であると? 善人でなければ、侠客ですか。それとも人斬りの狂人ですか」

 突然、李白の顔面から表情が消えた。むむっ、と呻いて仰け反り、うぅんと考え込む。

「それがのぅ、わしにもよくわからんのじゃ。わしの友人はわしのことを大酒呑みの飲んだくれなどと言いおる。あの短足めが、まったくもって失礼な輩じゃ。東巌子に至っては事あるごとにゲスだなんだと言いおる。女子おなごどもはやれ変態だの色魔だのと罵りおったわ。この眉目秀麗を前にしてそれとは、いやはや見る目のない奴らじゃったわ」

 先ほどまで自信たっぷりに持論を展開していたのが、いちいち口にするそれらの評価でみるみる説得力を失っていることに李白は気づいていないのだろうか。

「それで、結局あなたは何者なのですか」

 そこへ追い打ちをかける王恭。腕を組み、顔を横向きに捻った李白はさらにもう一度うぅんと呻き、然る後に何かを悟ったかのようにゲラゲラと笑い出す。

「わしにもわからんのじゃよ、それが。わしが何者であるのか、何を目指しておるのか。それがわからぬから旅をしておるのじゃ。それを知るために、わしは求めておるのじゃ」

「何を?」

天問牌てんもんはいを!」

 王恭の顔に驚愕の色が映る。ここでその名を聞こうとは思いもしなかった。天問牌――得れば幸福を授かるという秘宝の名を。

 李白が席を立つ。さっと衣の裾を払う。砂埃が舞い、さあっと李白の足元に円を描く。片手はさりげなく酒壺を肩に引っ掛けている。王恭は弾かれたように立ち上がり、今一度供手した。

「李先生、天問牌の所在をご存じで?」

「知らん。誰も知らんからこそ、秘宝なのじゃろうて」

 立ち去ろうとする李白。そこへちょうど、入れ違いになるように阿遥が戻って来た。

「ただいま戻りました。この方は……」

 見知らぬ同席者に横目をくれる阿遥。が、一瞬硬直を見せた彼女は、呼吸一回分の空白の後にあっと声を上げた。この同席者が何者であるか、そして十年前に受けた屈辱とを瞬時に思い出したのである。

「お前は……ッ!」

「お、なんじゃこのわしを知っておるのか? わしってば有名人じゃなぁ。モテモテじゃぁ、ゲヘヘ」

 阿遥は顔を真っ赤に上気させながら何も言えない。まさかこの日この時この場所で、あの日の仇敵に出会うなどとは思いもしていなかった。

「だ、誰がお前など知るものか! 鳥の糞にも劣る下郎め!」

「なに、この切れ長のうつくすうぃぃぃい目元に見覚えがないとでも? これだから胸の平坦な娘はつまらんのじゃ」

「てめぇこら誰の何が絶壁だって? あぁ!?」

 今にも噛みつかんとする勢いの阿遥を、しかし王恭が引き留める。己の仕える主が引き留めるならそれを振り払うことなど阿遥にはできない。ぐっと唇を血が滲むほどに噛み締めて引き下がる。その隙に李白はさっと大きく距離を取り、また抱拳礼を掲げてにんまりと笑いかけた。

「休息は十分にできたのでな。わしはこれにて失敬するぞ。王よ、次に会うときはわしから旨い酒を奢ってやろう」

「楽しみにしております」

 王恭は薄々感じていたのだろう。あの男とは遠からず、再会することになるのだろうと。漠然とそれだけは理解していたのかもしれない。

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