第五節 書簡の中身
卓の上には細切れになった紙屑が広げられている。昼間、幇主
(この中には一体、何が書かれていたのだ?)
本来ならば仮にも幇主に直接送られた私信、勝手に内容を改めるわけにはいかない。しかし羅錦威はどうにも我慢できなかった。
(幇主は俺の父親だ。子が親を気にせずしてなんとする?)
羅志武は羅錦威の実の父だ。人前では幇主とその部下として振る舞うが、その奥には親子の情がしっかりと結ばれている。親に対して「有罪」などという文字が贈られたなら、子としては黙っておれまい。
羅錦威は拾い集めた紙片を自宅へ持ち帰り、卓上に一つ一つの紙片を並べ、書簡の内容を復元したのだ。
そして――見なければ良かったと後悔した。羅志武がやったのと同じように、羅錦威もまたこの書簡を破り捨てたい衝動に駆られた。
書簡に記されていたのは、罪状一覧だった。中天幇会に属する者が犯したありとあらゆる罪状が、その大小
酷い侮辱だ。羅錦威は拳を握り締め、わなわなと震えた。規模は小さけれども、江湖に知られた中天幇会へ、よくもこのような誹謗中傷をと頭に血が上った。羅錦威は自らを何一つ間違いのない聖人だとは思っていない。だが、総じて悪人と呼ばれる部類ではないと自負している。それは中天幇会とて同じだ。所属しているのはそれぞれが異なる人間だ。多少素行の悪い者も含まれよう。だがそれを幇として容認することはない。あくまで中天幇会も江湖に恥じぬ行いをする存在であると、羅錦威は信じていたし、そのようにあろうと努力していた。
……だけれども。
羅錦威は書簡の末に記載された、書簡の送り主の署名を見てしばし考え込んだ。まさか、あれが我らを滅ぼすなど――。
カタン、不意に背後で物音がして、羅錦威ははっと振り返った。同時に傍らへ置いていた鉾を拾い上げ、穂先を向ける。扉の向こうからこちらを覗き込んでいたその眼前へと突きつけた。
「……きゃっ!」
瞬間、鉾を突き付けられた相手はその場で腰を抜かして倒れてしまった。それでようやく羅錦威は相手が何者かを悟った。慌てて鉾を置き、転んでしまった相手に手を差し伸べる。
「
転んだのは
羅珠は歳と性別のわりにお転婆で、時折父親の部屋に押しかけてはやれ遊んでくれだの、やれ武芸を教えてくれだのとせがむことがあった。今夜も父親と遊んでもらおうとやってきたのだろう。だが羅錦威が武器を手に凄んだため、恐怖で腰を抜かしたのだ。心穏やかではなかったとはいえ、娘に敵意を向けて怖がらせてしまうとは……。
「お、お父様、ごめんなさい……お仕事の邪魔をして……」
ようやく目の前の人物が紛れもない父親と認識するや、次に羅珠は仕事の邪魔をしたことで怒られるものと勘違いしたらしい。羅錦威は頭を振り、娘の両脇を抱えて立たせてやった。
「違うんだよ、珠児。悪いのは父さんのほうだ。遊んで欲しくて来たのだろう?」
羅珠はコクリと頷く。しかし、すぐにちらりと羅錦威の背後、例の書簡が広げられた卓を見る。
「でも、お父様は忙しそう。明日でも、いいよ?」
たかだか十歳の娘に気を使われるとは。羅錦威はなんだか申し訳ない気持ちになって苦笑いを浮かべるしかなかった。だが、今は娘の気遣いがありがたかった。これから遊んでやることはできるが、それよりもやはり気がかりなことがある。
羅錦威は娘の
「物分かりが良いのも考えものだな。これでは父親の威厳がなくなってしまう」
「お父様はとっても偉大な人だもの。威厳がなくなることなんて、ないわ」
羅珠はくしゃっと笑い、それからくるりと背を向け走って行った。本当に物分かりが良すぎて困ってしまう。羅錦威は申し訳なさで胸が苦しかった。いずれ娘が成長すれば男親になど構ってくれなくなるだろう。今遊んでやれるうちに好きなだけ遊んでやりたかった。――が、今は優先しなければならないことがある。
夜禁の刻限が迫っていたが、羅錦威は構わず外に出る。人気の減った
「羅舵主。こんな夜中にいかがされましたか」
「驍舵主にお会いしたいのだが、ご在宅か?」
羅錦威が問うと、門番弟子はあからさまに口ごもる。ぴくり、羅錦威の眉が跳ねる。これはもしや……
「まさか、また遊郭へ?」
驍舵主の色好みは昔からだ。五日に一度は遊郭に通い詰めて享楽三昧と聞く。若くもないのに随分と精力旺盛なことだ。これが他の誰かならば咎めるところかもしれないが、驍舵主は武芸と参謀の両方に秀で、実際のところ有能であることにも間違いない。本来は幇主の座に就いてもおかしくないところ、本人が皆の模範であるべき幇主の座を望まないために舵主に甘んじているのだとも言われていた。
それゆえに、羅錦威は驍舵主を咎めるつもりで問うたのではない。門番がただ「そうです」と頷けばそれで納得した。しかし、門番はさっと視線を背けたのだ。まるで何か隠し事があるかのように。
「私は、存じ上げません」
もはやそんな言葉は信用できない。羅錦威はじっと門番を見つめた後、ふとあることを思い出した。
「お前、名を
「いかにも、私は韓峰にございます」
「――三年前の二月十日、どこにいた?」
羅錦威の唐突な問いに、門番の韓峰は首を傾げた。しかしすぐに「三年前と言えば」と虚空を見やり――刹那、さあっと血の気が引いた。
羅錦威の動きは素早かった。さっと右腕を伸ばして胸倉を掴むや、左手の剣訣で唖穴を突いて声を奪い、それから
内側には誰もいない。羅錦威はすぐそばの植木の陰に韓峰を押し込んだ。それからもう一度右手を伸ばし、今度は喉を直接締めた。
「首を振って答えろ。嘘は言うな。これは我ら中天幇会の大事なのだ。……わかったか?」
羅錦威が凄むと、韓峰はがくがくと頷く。
「三年前の二月、驍舵主は幇のお役目のため
肯定。
「その途上、十日の夜。
肯定。しかしその肩はがくがくと震え始めている。羅錦威は一瞬、ここでやめるべきかと躊躇した。今ならばまだ引き返せる。何も知らぬままでいられる。今のこの行為は、墓場を荒らして腐臭にまみれた屍体を引きずり出そうとするようなものだ。本来ならば人目に晒さず埋没させておくべき事柄を、わざわざ暴く必要などないのでは?
だが、羅錦威にはそれはできなかった。己は真実を知るためにここへやってきたのだ。それを果たさぬまま帰ることはできないし、この胸の
「長梁村に泊まったその夜……お前は穴を掘ったな? 一つか? 二つか? 瞬きの数で答えろ」
韓峰はもはや観念したようだった。二回瞬くとその目からは涙が零れ落ちる。
(――やはりか)
羅錦威は韓峰を投げ捨て、植木の陰から出た。肩越しに振り返って地面に投げ出された韓峰を見下ろす。その視線は蛇蝎を見るかのようであった。
「本来ならば今すぐにでも
羅錦威はそれだけ言い残すや、門扉を蹴り開けて飛び出す。またも軽功を駆使して閬中の街中を駆け回った。
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