第六節 驍舵主の行方

 ぎょう舵主だしゅが利用する遊郭は限られている。今夜はどこへ行った? 「白鶴楼はっかくろう」か、「鳴春閣めいしゅんかく」か。いずれにせよ一刻も早く見つけ出さなければ。

 だがいずれの遊郭にも驍舵主の姿は見つからなかった。その代わりに驍舵主の弟子たちを途中の酒楼に見つけた。二階の通りに面した席で語らい合っているのを見つけるや、羅錦威は階段を上るのももどかしく、そのまま軽功で窓から酒席に飛び込んだ。

「羅、羅舵主!? 一体どうしたので――」

「驍舵主はどこだ? 早く言え!」

 弟子たちの中に驍舵主の一番弟子を見つけるや、その胸倉を掴み上げて怒鳴った。しかしその弟子――名をとう燕軍えんぐんと言った――は一瞬驚いたようだが、すぐに努めて冷静に答える。

「羅師叔ししゅく、どうか落ち着いてください。一体何の用なのですか」

 羅錦威は昔からこの師甥が苦手だった。本人は常に冷静沈着な人柄を演じているのだろうが、羅錦威にとっては相手を見下しているようで癪に障るのだ。いつもは胸の奥で舌打ちしながら我慢してやっていたが、今日はもはやそんな余裕はない。相手がまともに答えるつもりがないと見るや、右腕一本で陶の体を横薙ぎに投げ飛ばした。バァンッ、と卓をひっくり返して転がる陶燕軍。

「羅、羅師叔! 気でも狂ったか!」

 酒や料理を全身に浴びた陶燕軍は指を突き付け羅錦威を罵った。それに応じて他の者たちは一斉に腰の剣を抜く。だがこれが羅錦威の怒りに油を注いだ。

「三年前の二月十日だ! 貴様らはその日からずっと狂っているではないか!」

 陶燕軍の表情が怒りから驚愕、そして恐怖へと変わった。羅錦威に剣を向けていた弟子の中でも、何人かが同じような反応を示す。

「もう一度だけ聞くぞ。驍舵主はどこだ!?」

 陶は一瞬視線を弟弟子の数人に投げ、そしてコクリと頷いた。

「羅舵主はご乱心だ。師父を害するつもりだぞ。捕らえろ!」

 瞬間、先ほど頷き合った弟子たちがまず前に出る。他の者たちは一瞬躊躇したようだったが、すぐさま後に続いた。

(俺を殺して、口封じするつもりか!)

 二方向から剣が迫る。羅錦威はさっと立ち位置を組み替えてそれらをやり過ごし、間合いに入った相手に左右の拳で一撃を打ち込んだ。もちろん加減はしてやったが、ゴキッ、と鎖骨が折れる感触を覚える。ひるんだ相手を前蹴りで突き飛ばした。

 陶燕軍が起き上がり、彼もまた剣を抜く。中天幇会の象徴たる武器は鉾だが、幇に所属する者が全員鉾を扱うわけではない。親の代から中天幇会に属しているならばまだしも、大半は他所で武芸を学んでから幇に加わった者たちだ。陶燕軍もその一人であった。もちろん中天幇会舵主の一番弟子であるからには鉾術一式も修めてはいるのだが、扱い慣れた技はそうそう容易には手放せない。居合わせた弟弟子たちも陶燕軍に剣術を学んでいた。何しろ剣に比べて鉾は持ち運びが面倒なのだ。

「羅師叔、御免!」

 陶燕軍の剣がサッと羅錦威の胸を狙う。捕らえろと口では言いながら、繰り出すのは殺しの手だ。殺してしまってから後で「加減を誤った」などと供述するつもりだろう。だが、羅錦威とて幇主の嫡男、師甥などに易々とやられてやるはずがない。

 剣が突き出されるその瞬間、羅錦威はさっと後ろへ跳んだ。陶燕軍の剣先が届く、その一寸先へ逃げる。陶燕軍がハッとした瞬間、ぐるりと体を回して蹴りを放った。蹴り脚は剣の腹に命中し、陶燕軍の手から剣をもぎ取る。剣はドスンと窓枠に突き刺さった。

 唖然とした陶燕軍に掴みかかろうとすると、左右から剣光が迫る。左からは頭部、右からは足を薙ぐ軌道。羅錦威は頭を下げつつその場で跳躍、体を横倒しにしながら二つの斬撃を回避する。着地と同時に右へ跳び、まだ構え直し切れていないその顔面を殴って気絶させた。鼻柱が折れてブシャッと血が飛び、羅錦威の襟を染めた。

「怪我はしたくないだろう。さっさと驍舵主の行き先を言え!」

「とっとと寝やがれ、狂犬め!」

 陶燕軍が他人の剣を奪い取ってまた攻め込んでくる。斜めに一振り。しかしこれは間合いに届かない。陽動だと即座に見切った。本命はそこからの突き。陶燕軍の剣技はあまり見たことがなかったが、羅錦威はこの時点で陶燕軍は突き主体の剣術を使うと判断した。

 羅錦威は帯を解き、突き込まれる剣に対して振るった。パキィン! 甲高い音を立て、剣身が折れて飛ぶ。羅錦威は帯を鉾に見立てて横薙ぎの打撃を剣に見舞ったのだ。

 陶燕軍はようやく己が羅錦威に及ばぬと悟ったらしい。手元に残った柄を投げ捨て、背を向けて逃げようとする。羅錦威はその背を容赦なく帯の一撃で打ち据えた。内力を通した帯は鉾を用いるのと何ら変わらぬ威力を発し、陶燕軍の服を大きく破り、背中の肉を切り裂く。ギャッと呻いて陶燕軍は床に突っ伏した。

 剣を構えた者はまだ残っていたが、すでに戦意消失している。なにせ無手の相手に剣が通用しないのだ。加えて自らに剣術を教えた陶燕軍は一人で逃げようとし、そしてああも無様に倒れ伏している。もはや義理立てして幇の舵主に刃を向ける必要はない。それよりもまず己の保身だった。剣を投げ捨て、その場に叩頭する。

「羅舵主、申し訳ありませんでした!」

 しかし羅錦威はそんな彼らの謝罪など聞いてはいない。倒れ伏した陶燕軍の腰に跨り、また左手ではうなじを掴んで床に押し付ける。

「同じ問いかけを何度もさせるな。次こそ答えろよ。驍舵主はどこにいる?」

「誰が貴様なんぞに――ッ!?」

 発した言葉は途中から悲鳴に変わった。おぞましい悲鳴だ。苦痛と恐怖とがないまぜになり、床板を掻きむしりながら発せられるそれは耳にするものすべてに寒気を覚えさせた。

 羅錦威の右手が剣訣を握り、陶燕軍の背中の傷に突き込まれていた。指先第一関節までがその体に潜り込んでいる。

「どこにいる?」

 さらに指が突き込まれ、肉が無理矢理に左右に押し分けられる。陶燕軍の悲鳴はもはや言葉にならず、目からは涙、口からは涎を垂らし、床板を掻きむしる指先は爪が割れて血まみれとなっていた。

「お前たちが殺し切り刻んだ者たちと、同じ苦痛を味わいたいか? それとも驍舵主の居場所を言うか?」

「言うっ、言うよっ! あぎゃぁぁぁぁぁぁっ!?」

 羅錦威が指先を引き抜くのですら激痛だ。陶燕軍はそれだけですべての力を使い果たしたのか、泥人形のように脱力したままかろうじて息をしている。羅錦威はその後ろ頭を掴み、背骨が反り返るようにしながら持ち上げた。

「早く言え。もう一度やられたいか」

 意識を失いかけていた陶燕軍は、その一言で覚醒した。「やめてくれっ」を狂ったように繰り返しながら、ようやく羅錦威が求めていた答えを口にした。

「驍舵主は昼間の女を探しに行ったんだ。どんな女か、俺は知らない……。ただ師父が言うには、頭はおかしいが極上の体だと。適当に言いくるめてやろうと仰って……」

 羅錦威の悪い予感は的中した。

 昼間の女とは、羅錦威も会ったあの範とかいう女に違いない。確かにあの美貌、あの肢体、男を惑わすには十分だ。幇主への要求はともかく、驍舵主があれをそのまま見過ごすわけがなかった。

「……探せ」

 羅錦威は立ち上がり、陶燕軍と彼とを取り巻くようにして怯えていた弟子たちに告げた。

「一刻も早く驍舵主を探し出せ! そして俺のところまで引っ張ってこい! 今すぐにだ!」

 弟子たちは一瞬何を命じられたかわからない様子だったが、羅錦威が「早くしろ!」と一括するや、蜘蛛の子を散らすように慌てて駆けて行った。

 羅錦威はすぐさま自らの部下も招集し、驍舵主の行方を探させた。夜禁の見回りには金を掴ませて今夜一晩の役目を休んでもらった。とにかく一刻も早く驍舵主を探し出すためだ。

 そして、驍舵主は明け方になってようやく見つかった。――ただし、生きてはいなかったが。その死体は中天楼の軒先に吊るされ、体中にびっしりと書き込まれた紙切れが張り付けられていた。その様子はさながら蓑虫のようであった。

 風に飛ばされたその中の一枚を掴み取り、一瞥するや羅錦威は大きく嘆息する。

「罪人、驍常赫じょうかく。有罪。開元五年、二月十日。長梁村にてふう家の娘を凌辱し、殺害し、口封じのために一家総勢六名を皆殺しとした罪により、死刑に処す」

 書面にはそう書かれていた。そして、書簡の末尾にあったのと同じ署名があった。かつて江湖に勇名を轟かせ、そして忽然と姿を消し、いま再び恐怖をもたらした者の名が。

 その名は、天吏獄卒。

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