第七節 二つの目的

 折れた丸太を椅子代わりに二人並んで腰かけていたが、その名を聞くや辛悟は思わず立ち上がった。

「そんなバカな! 天吏獄卒は江湖から忽然と姿を消したと聞いた。その行方は誰も知らぬと」

 辛悟が全身の骨を砕かれ、経が断絶したあの日以来、天吏獄卒は姿を消した。元より神出鬼没の存在ではあったが、それ以降官僚殺しはぱったりと鳴りを潜めたのである。辛悟はその話を蘇頲の部下、柯高という武官から聞いていた。

 だが羅錦威は力なく頭を振って否を返す。

「この数年間、天吏獄卒は姿を現さなかった。しかし、つい最近になってまた現れたのです。……辛殿はよう欣明きんめいなる者をご存じで?」

 知らない、と返しそうになったが、即座に思い出す。確か成都周辺を一年近くうろついた際に聞いた名だ。売り出し中の侠客で、若いながらも鞭と短槍の技に長け、また美形であると。しかしそれがどうした?

「楊欣明は、天吏獄卒によって誅されたのです!」

「なんだと!?」

 辛悟の驚くまいことか。思わず声も荒げてしまった。

「天吏獄卒は悪事を働いた官僚のみを裁くのではなかったのか? 楊欣明などという無名かつ無辜の輩を、なぜ手にかけなければならないのだ?」

「確かにそれまでの天吏獄卒にはありえないことです。しかし、確かに天吏獄卒の名の下に楊欣明は誅された。奴は賭博に興じて借金を作り、それを踏み倒すために賭けの相手を殺した。誰も知ることのなかったその罪を、天吏獄卒が裁いたのです」

 にわかには信じられないことだ。しかし、罪ある者の罪状を明らかにして始末するやり口は、確かに天吏獄卒だ。

(まさかまた江湖に現れるとは……)

 天吏獄卒が消え失せたと聞いたとき、辛悟はどこか安堵した気持ちだった。天吏獄卒が間違った人間だとは思わない。だが、正しいあり方とも辛悟には思えなかった。すべてを自らの法に照らし、裁き、罰を与えるなど。それは間違ったやり方だ。何がどうとは言えないが、少なくとも辛悟は間違いだと感じていた。だから、あれが江湖から身を引いたのだと思って安心したのに。

「しかし、それでは書簡を届けた女は? 天吏獄卒は男では?」

「天吏獄卒が男であるか女であるか、それは始めから誰も知らぬことです。……辛殿はもしや、天吏獄卒をご存じで?」

 羅錦威が訝るのへ、辛悟はむぅと唸って沈黙を返した。確かにあの夜出会った天吏獄卒は仮面を着けていたために声もくぐもって、性別年齢いずれもわからなくなっていた。あれが男性であると判じたのはその衣装と、辛悟の勝手な思い込みによるものだ。

「女自身が天吏獄卒であるのか、あるいは女が宗主と呼んでいた人物こそが天吏獄卒なのか。いずれにせよ、何らかの関係があるのは間違いない。しかしそうなると、なぜ天吏獄卒は張飛鉾を求めたのか?」

「我らもそれはずっと疑問でした。女の口ぶりからして、張飛鉾さえ渡せば罪を赦すとの取引にも思える。もっとも、そんな取引には応じられないが」

 当然のことだ。張飛鉾を渡せば、それはすべての罪を認めたことになる。それでは中天幇会の名は失墜する。しかし相手が天吏獄卒であるならば、「有罪」を突き付けられた時点で幇の未来は絶たれたも同義である。

(なるほど、それで中天幇会はすでにこの世にないと……)

 女が罪状目録を携え現れた時点で、幇の命運は決していたのだ。

 だが、それは辛悟にとって関係のないことだ。気になるのはただ一点。――天吏獄卒の真の目的が何であるか、という一点のみだ。

(本当に天吏獄卒の狙いは張飛鉾であったのか? 天吏獄卒の武芸の根幹は……掌法であるはず。鉾を必要とする道理がない)

 実際に天吏獄卒の武芸を目の当たりにし、またこの身で受けたからこそ分かる。天吏獄卒の武芸は掌法が主であり、武器は用いない。用いたとしてもあくまでその用法は掌の延長だ。だから、仮に鉾を手にしたとて応用は難しいはずだ。どうしてわざわざ不得手な武器を手に入れる必要がある?

(あるいは、もしや)

 天吏獄卒、範と名乗った女、宗主と呼ばれた存在――辛悟はふと、ある一つの仮説に行き当たった。

「羅殿。「金環剣きんかんけん」をご存知か? あるいは「四山象刀しざんぞうとう」や「白龍杖はくりゅうじょう」の名を?」

 羅錦威は話の流れが読めず一瞬唖然としたが、すぐに首を縦に振った。

「もちろん知っております。金環剣は蒼渓そうけい家に伝わる宝剣。四山象刀は旗雲塞きうんさいそん香主こうしゅの得物。白龍杖は壬龍じんりゅう鏢局ひょうきょくじん烈華れっか鏢頭の鉄杖。いずれも江湖に知られた宝剣宝刀の類ではありませんか」

「それらは今どこに?」

 辛悟の問いに羅錦威は首を傾げる。どこにあると聞かれても、それはそれぞれの持ち主の手元にあるとしか――。

 気づいて、羅錦威はさっと顔色を失う。

「そんな、あり得ない! 我ら中天幇会が、そんな……ただ張飛鉾を奪われるためだけに滅ぼされるなど! 天吏獄卒はどうしてそのようなことを!」

「まだそうと決まったわけではありません。ただ、もしも私の推測が正しければ……天吏獄卒は理由を与えたに過ぎない。張飛鉾を欲したのは範と名乗った女であり、彼女が宗主と呼んだ何者かです」

 張飛鉾の奪取と、中天幇会の壊滅。これらはそれぞれ別の思惑によって行われたものである――それが辛悟の立てた仮説だ。

 天吏獄卒は張飛鉾など不要だった。だが、何らかの理由で中天幇会を潰そうとしていた。そして一方の謎の宗主は、中天幇会の盛衰に関わらず張飛鉾を欲した。その両者が利害を一致させたことが今回の事件の発端なのでは?

「まだ、これは推測に過ぎない。だから真相はこの目で確かめなければ」

「何をなさるおつもりで?」

「山を降りる。天吏獄卒を探し出し、事の真相を明らかにする」

 羅錦威はぶるりと体を震わせ、「そんな無茶な!」と漏らす。だが辛悟はそれを聞かずにもう歩き出している。

「あなたが行ってどうなります? なぜそんなことをする必要が?」

「天吏獄卒とは因縁がある。奴に関することは明らかにしなければ気が済まない」

 羅錦威は辛悟の正面に回り込み、膝を突いて懇願した。

「あなたが行ってしまったら、この張飛鉾は、中天幇会は、一体誰が受け継ぐのですか!」

 むっと眉間にしわを寄せ、辛悟は肩越しに羅錦威を見下ろす。

「それこそ俺の知ったことか。俺は幇主になるつもりなどないし、鉾も不得手だ。そんなものを渡されても迷惑だな。それはあんた自身がやるべきことじゃないのか?」

 それは、と言いさして口籠る羅錦威。そうだが、しかし、と何やら独り言を繰り返す。

「駄目だ、やはり無理だ。辛大侠、どうか聞いてください。あなたが相手にしようとしているのは並みの輩ではないのです。我ら中天幇会が如何にして一夜で滅んだか、あなたはまだ知らないのだ」

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