第十九節 アジャセ王の故事

 門扉を叩こうとして手を振り上げ、しかし一瞬早く内側から扉が開いたので、梁工は思わず「おっと」と声を上げた。開いた扉の向こうから現れたのはひょろりと細長い老僧、鑑円である。

「これはこれは方丈、お元気そうで何より」

「梁工殿も、もうすっかり病は癒えたようじゃな?」

 二人は知己である。梁工が病に伏せるまでは、大明寺に灯りのための油を定期的に納めていたのだ。病が癒えた今また、梁工はそれまでと同様に油を運んでくるようになったのである。へへっ、と笑い、梁工は鼻先に残った浮腫の痕を撫でる。

「方丈の高弟のおかげでさぁ。「あのお方」に薬花を届けてもらわなければ俺様はまだ床にふせってウンウン唸っていたでしょうよ」

 そこまで言って、ふと梁工は周囲を見渡して人がいないことを確認し、その上で声を潜めて言った。

「……でも実のところ、あの花に薬効なんてないんでしょう? それなのに方丈はどうして、あの花が俺様の病を癒すだなどと翡蕾に教えたんで?」

 その言葉に、鑑円は驚く様子も見せず、ただにっこりと笑んだ。

「はて、何の事じゃろうな?」

「とぼけないでくだせぇ。蕾児に聞きましたぜ。優鉢羅花のことを教えてくれたのは、ひょろっとした年寄りの坊さんだって。その時は蕾児の奴、葬式にはまだ早いとか怒鳴ってその坊さんを追い返したとか……」

 くすっ、鑑円が声を漏らす。

土塊つちくれも喰らいましたぞ」

「ほらやっぱり! ――いやまったく、俺の娘が罰当たりなことを……」

 地面に叩頭しようとする梁工を引き留める鑑円。

「あれぐらい構いはせぬ。それで、なぜ優鉢羅花を教えたのか、その理由を知りたいと申したな? 薬にできないなら、娘御はあれをどうされた?」

「どうするもこうするも、仕方がないからと俺様の枕元に置いたとか。いやはや、数年ぶりに意識が戻ったかと思えば青臭いのなんのって!」

 梁工がぐっと眉間に皺を寄せて鼻を摘んで見せるのへ、鑑円はまたくすりと笑った。

「貧道はただ、「優鉢羅花が父君の病を癒す手助けをするじゃろう」と言ったまで。あれに薬効があるとは一言も言っておらぬ」

「じゃあ、それこそあの花はいったい何なので?」

 ふーむ、鑑円は顎を撫で擦り、

「それに答える前に、梁工殿。病に臥せり意識朦朧の中で、そなたは何を見たかな?」

「へぇ?」

 梁工は知らず、鑑円と同じく顎を撫で擦って、

「はっきりとは覚えていやせんが……蕾児の夢を見ておりました」

「どんな?」

「それが、その……あの娘は、妻がくりやに立っていたところに近づいて、それで油をひっ被ってあんな傷を負ってしまった。一生消えない傷だ、何年何十年と過ぎようと、あの子はずっとあの顔のまま、ずっとずっと部屋に籠もって外に出られない。鏡を見ては泣き伏せる……そんな夢を、俺は見ておりました」

「目を覚ます直前まで、ずっと?」

 それは、と言って、梁工は鑑円が何を言わんとしているのか悟った。

「そうだ! 俺は夢うつつの中で、蕾児の笑い声を聞いたんだ! それが俺にとってはたまらなく嬉しかった。もっとその声をはっきりと聞きたいと、そう願った、それで目が覚めたんだ!」

「善哉、善哉!」

 鑑円は天を仰いで呵々大笑、梁工は今度こそ膝を突いてその足下に叩頭した。

「涅槃経に曰く、「譬えば月光の能く一切の優鉢羅花をして開敷鮮明ならしむるが如し」――その昔、アジャセと言う名の王子がおったが、その品行は残虐非道、実の父親さえも謀殺するような人間不信じゃった。それがある時、顔面に大きな腫れ物ができて寝込むようになった。まさしく梁工殿、そなたのようにな」

「その王子も、優鉢羅花で病を癒したので?」

 違う、と鑑円は頭を振った。

「御仏は王子のために、ただただ祈った。それだけじゃ。すると程なく病は癒え、王子は改心した。――病の正体とは、すなわち罪の意識、罪悪感だったのじゃよ」

 つと、鑑円は天を指さした。梁工もつられてそちらを見上げるが、そこには何もない。

「この言葉の意味するところは、御仏の慈悲は常に誰の上にも等しく与えられておるという事じゃ。罪悪感は身を苦しめるが、解放される機会は常にある。それは慈悲の心があればこそ。優鉢羅花とは、御仏の慈悲を一身に浴びて咲いた善心の象徴なのじゃ」

 梁工はその意味を理解するのに数十秒を要した。理解してから、それじゃあ、と言葉を漏らす。

「俺の、俺の病はつまり……蕾児を不幸にしてしまった、そう思い詰めた俺の心が病んでいたのか。そして、俺は優鉢羅花を得た蕾児に助けられた、救われたんだ……」

 はは、と笑って、梁工は頭を掻いた。

「なぁんだ、結局は全て、気の持ち方次第だったんじゃないか。深く思い悩む必要なんて、無かったんだ。なるほどな。方丈、俺は悟ったぜ」

 満足そうに鑑円は頷いて、梁工を招き入れる。梁工は上機嫌そのものの表情で、地面に置いていた油壺をひょいと持ち上げた。十個の壷が五つずつ縄で繋がれておりかなりの重さがあるはずだが、梁工はそれをものともしない。数年を寝たきりで過ごした衰えもすっかり回復したようだ。

「思えばとんでもないことですぜ。あの蕾児が火傷の原因になった厨で揚げ物を作って、しかもそれが街じゃ大繁盛。今じゃあ父親の俺が会計をやって、油屋はほとんど副業だ。商売だけじゃねぇ、蕾児の奴、もう顔を隠さないどころかよく笑うようになったんだ。今じゃあ街の子供たちに菓子を配って大人気だし、それこそ「蕾姉さん」なんて呼ばれて凄い慕われようだ。――本当に、俺は一体何を気に病んで寝込んじまったんだろうな」

「親とはそのようなものであろう。子のために思い悩み、それが杞憂であっても気づかぬものよ。雛鳥は必ず巣立つと知っていても、な」

「違いねぇ。それなのに俺は逃げるみたいに寝込んじまって、あぁ情けねぇ! 方丈のお弟子様が手を差し伸べてくださらなんだら、今頃どうなっていたことか! ――そういえばその高弟、ご尊名は何と言いましたかね? 蕾児の奴、今日もそのお方と遊んでくるだなんて言って出て行っちまって。修行の邪魔をしてなきゃ良いんですが……」

 心配など要らぬ、と鑑円。

「あれは大明寺の縁者ではない、ただの居候じゃよ。故あって預かっておるだけじゃ。貧道の弟子でもない」

 へぇ、と相槌を打つ梁工。

 翡蕾はもちろん、恩人が大明寺の縁者とは一言も言っていない。しかしながら毎日戴天山に足を運んでいれば鑑円が見かけぬはずもなく、そして鑑円が梁工と知己であればもはや筒抜けになるのは当然であった。

「しかし良いんですかい? 大明寺は武芸の一切を禁じていたはず。そのお方を居候させるとは禁戒に違うのでは?」

 梁工が至極当然の問いを投げると、鑑円は何やら含みのある表情になった。それに気づいたか、と。

「恩仇を重んじるのは武林の定めよ。李姓であれば、なおの事」

「えっ?」

 梁工の問い返しに鑑円は答えない。はっはっはっ、とただ笑って本堂へと消えて行った。梁工はしばし呆然とその後ろ姿を見送り、やれやれと肩を竦ませ、三重塔のある方角へと足を向ける。大明寺の厨房は三重塔の向かい側にあるのだ。

 よっこらせ、と壷を持ち直した。

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