第十八節 桃園の義兄弟

 薄紅色の花弁が風に舞う。ひらりひらりと宙を舞い、やがて水面に音もなく舞い降りる。その池ではまた青い蕾が膨らみ始めていた。――ここは戴天山の頂、仙境にも似たその景色の中で、二人の人間が武を競っていた。

 ぺしりと手首を打たれ、思わず手にしていた杖を取り落す。はっとした時には、もう翡蕾の杖が首筋にあてがわれて身動き取れなくなっていた。

「お見事! 二妹、随分と腕を上げたのぅ」

 少し離れた桃樹に寄りかかる李白が手を叩いて称賛するのへ、翡蕾は構えを解いて「どうも」と一礼して返す。

「それに引き換え、おうこらこのぼんくら不空め。女相手に手加減するとは何事じゃ」

「あら、手加減していたの?」

 二人に責め立てられ、不空は唇を尖らせた。

「手加減なんてするものか。翡蕾が本当に強いだけさ。李白、そう言うお前だって勝てないじゃないか」

「阿呆ぅっ! わしは手加減しておるんじゃ!」

「あら酷い、手加減されるだなんて心外だわ」

 つんと顎を上げた翡蕾は、やおら持参した編み籠を開くと、中から水筒と何やら包みを取り出した。そうして地面に腰をおろし、くいくいと手招きする。

「不空、いらっしゃい。私の腕を見くびる長兄なんて放っておきましょ」

「それは何だい?」

「ふふ、なんだと思う? 開けてみて」

 翡蕾の隣に腰を降ろし、不空は受け取った包みを開いてみた。中から出てきたのはいわゆる揚げパンだ。表面には砂糖がまぶしてあり、包みを開いたことで香ばしい香りも漂って鼻をくすぐり実に旨そうだ。

「「梁家甘処」の一番人気、「桃果醇香とうかじゅんこう」か! 食べて良いのかい?」

「もちろんよ。ただ見せるためだけに持ってきたりしないわ」

 その言葉が終わらないうちに、不空は大きく口を開けて揚げパンにかぶりついた。うぅ~ん、旨い! その表情は実に満足げだ。翡蕾はくすりと笑い、水筒からお茶を注いで渡す。

「ちょちょちょちょ、ちょっと待たんかい!」

「あら李兄さん、どうかした?」

 けろりと言ってのける翡蕾へ、李白は震える指先を突きつける。その隣でずずずっと茶を啜る不空。

「どうかしたもこうしたもないわい! やいやい不空、貴様、末弟のくせにわしより先に食らうとはどういう了見じゃ?」

 地団太踏んで訴える李白。「梁家甘処」の揚げパンはここ最近街で大人気の菓子だ。普段を戴天山で過ごす李白や不空にとってはこの上ないご馳走なのである。

 不空はもにゅもにゅと動かしていた口を止め、ごくりと見せびらかすようにそれを飲み込んだ。そして全く悪びれることもなく、

「翡蕾が先に僕へくれたんだ。文句があるならそっちへ言いなよ」

「やい、二妹……」

「兄さん、お茶をどうぞ」

 あぁ~ん? 李白は顔面の表情筋全てを使って般若面を作ろうとする。――作ろうとしただけで、実際にできたのは馬と猿を組み合わせたかのような奇怪な顔面だ。

「茶なんぞ要るか! わしが今生口にするのは酒のみじゃ。他には要らぬ!」

「あら残念、このお菓子はお茶と凄く合うのよ? どんな酒好きだってあたしの店ではお茶と一緒にこれを食べるの。それを要らないと言うことは、お菓子も要らないのよねぇ?」

 カコン。李白の顎が外れた。これには堪らず不空も翡蕾も大笑いである。

「ほひほら、はーひほはらっへほるんひゃ」

「そのまま喋らないでよ! あははははっ!」

「ふひーっ!」

 地団太踏む李白。それを見た二人は腹を抱えて地面を笑い転げた。そこにざっと風が吹き、満開の桃花が一斉に風に乗る。

 ――三人が義兄弟となってから、もう二年が経とうとしていた。今日も三人、戴天山の山頂で、満開の桃花に囲まれて武芸の修練に励んでいた。

「いやぁ、全く。笑わせてくれるじゃないか長兄は」

 不空はもう十三歳、凛々しい小年へと成長した。最近声変わりもしたし、背丈も翡蕾にほぼ追いついた。肩幅も広がり、毎日武芸の修練をやったためかそれなりに筋肉もついて逞しくなっている。

「本当に、どうやったらそんなに面白おかしく生きられるのか、ぜひともご教示願いたいものだわ」

 翡蕾は十六歳。あの日以来もはや顔を隠すことはなくなり、その頃からあの見るも耐えない火傷痕は少しずつだが薄らいできている。それどころかすっかり大人びてきて化粧までするようになった。父親梁工の病はすっかりと癒え、それからは二人と一緒になって「護身のため」と武芸を習っている。

「ぐっ……ごがっ! ええい貴様ら、笑いたければ笑えば良いわ!」

 腕を組んでぷいと顔を背ける李白。彼だけは昔と変わらない。口を開けば喧しく、動き回れば騒々しく、とにかく飽きない存在である。離れ庵で寝起きする以外は大明寺の蔵書閣で書を読みふけるか、街に出て酒を喰らうか、あるいはこうして戴天山の山頂で武芸を磨くかの好き三昧である。

 くすくすと笑って、翡蕾は編み籠からもう一つ包みを取り出した。

「冗談よ。兄さん、拗ねないでこっちへいらっしゃいな」

「拗ねてなんぞおらんわい」

「あらそう、それじゃあこれも不空にあげちゃおうかしら」

「そんなもったいないことをするのであれば、仕方がないから貰ってやろう。ついでに茶も寄越せ!」

 口では何やかやと言いながら、顔には満面の笑みを浮かべて包みを受け取る李白。不空とは反対側、翡蕾を挟むように腰を降ろす。差し出された茶を片手で受け取りながら、もう一方の手で器用に包みを開いて揚げパンにかぶりついた。もぐもぐ、うぐっ……慌てて茶を飲み下す。

「いやぁ、二妹の作る菓子は実に旨い! 商売繁盛も納得じゃ」

「お褒めに預かり光栄だわ」

 微笑み、二敗目の茶を二人に渡す翡蕾。

 父親の病が治ってから、梁父娘は早速家計の立て直しに取り掛かった。父親は再び油屋を立て直そうとしたが、生憎と人手が足りない。かと言って翡蕾は女の身、力仕事をするには力が足りず、会計をするにしても算術の心得が無い。そんな折、武術を習う対価のつもりで作った揚げ菓子が李白不空両名の絶賛を受け、それを機に「梁家甘処」を立ち上げた。これが思いの外繁盛し、今や麓の街では知らぬ者なしの人気店となっているのである。

 油屋の娘が揚げ物料理を得意とするのは当たり前、とは翡蕾の弁である。

「二人ともたまには山を降りて、店に顔を出しなさいよ。そうしたらもっと美味しい物を作ってあげるのに。過去の恩仇なんてもうどうでも良いじゃないの。それに、梁家の大恩人なんだからお礼がしたい、って父さんが言うのよ。前々から言っていたことではあるけれど、最近特にうるさいの」

 不空は少し表情を曇らせ、翡蕾から視線を逸らす。そりゃあ、たまには街に出たいとも思う。しかしながら「梁家甘処」へ立ち寄るにはちょっとした抵抗がある。翡蕾が言う「過去の恩仇」というのもその一つだが――。

「駄目だよ。少なくとも僕は行けない。大明寺ゆかりの人間から武芸を学んでいると知れたら大変だからね」

 不空は李白から武芸を学んではいるが、それは鑑円を始め、大明寺の人間には一切秘密なのである。翡蕾もそれを知っており、叙修一味を追い払い薬花を贈り、翡蕾に武芸を教えているのは「偶然知り合った友人たち」としか父親にも言っていない。間違っても大明寺の関係者と知られてはならないのである。さもなくば金剛智のように問答無用で追い出されることは目に見えている。

「まあ、わしは行っても構わんぞ。むしろ、恩人への謝礼ともなれば歓待してもらえるのじゃろう? 酒肴はもちろんの事、さぞかし豪華な御馳走が振舞われるのじゃろうな!」

 ちら、と横目を翡蕾に向ける。ええそうよ、と翡蕾は頷いて返した。

(そうか、翡蕾の手料理が思う存分食べられる、ってことなのか。それは心惹かれるけれど……)

 むぅ、と心中で呻く不空。先ほど菓子のお預けを食らった李白の気持ちがよくわかる。

「でも、兄さんだって大明寺の縁者なのではなくて?」

「わしはただの居候じゃ。それに、大明寺の中で寝起きしておるわけでもない。たまに蔵書閣の書を漁りに行く以外は、全く関係などありゃせんよ」

「つまり、庵からは追い出されて蔵書閣の利用も禁じられる代償はあるわけだ。……さすがに、鑑円様もそこまで長兄に対して特別な計らいをするとは思えないからな」

 不空には全く理由は不明だが、傷が完全に癒えた後も李白は大明寺の離れ庵に住まうことを許され、しかも門外不出であるはずの蔵書閣への立ち入りを許可されていた。それで毎日のように大明寺を訪れては書を読み漁り、飽きれば不空を引き連れてこの桃園で武芸を磨く毎日を送っているのである。何の布施も送っていないはずの李白にどうしてこれほどの待遇が許されるのか全くもって不明だが、さすがに金剛智の前例もある。武芸を嗜むと知れれば相応の扱いに取って代わるだろう。

 うぅむ、と李白は腕を組んで考え込む。酒は飲みたい、しかしまだまだ読み足りない書もある。ぶつぶつと珍しく大真面目に悩んでいるようだ。――実に珍しく。

「そんなに深く考えないで。私もそれは無理だと言っているから。それに宴会なら私の家に来なくても、ここでやれば良いわ。梁家が準備した物であなたたちが喜んでくれるなら、父さんも取り敢えずそれで納得してくれるでしょうし」

「おおっ! それは名案じゃ!」

 パシンッ、膝を打って自ら痛がる李白。なるほど確かに名案だ、と不空も頷く。

「じゃあ、決まりね! いつにする?」

「んなもん、今夜に決まっておる! 折しも今宵は満月じゃ。それに後になってそんな話はしておらぬと言われては事じゃからな!」

「いやいや、さすがにそれは翡蕾が大変――」

 くすっ、翡蕾が笑うのを見て、不空はその先の言葉を飲み込んだ。どうやらそこまで見通した上での発言だったらしい。

「良いわ! 今夜、ここで、月を観ながら宴会にしましょう。そうと決まれば、早速準備をしなきゃ」

 言って立ち上がる翡蕾。編み籠に茶碗や揚げパンの包み紙を放り込むと、さっと身を翻す。ひょいと顔だけを肩越しに振り向かせ、

「それじゃあ、今夜を楽しみにしていてね」

「――」

 不空は思わず目をぱちくりとさせる。それと同時、ぎゃはははは、と大笑いするのは李白だ。

「こ、今夜を楽しみに、か……っ! おい、不空。お前も出家はしておらぬのじゃから、色欲戒など気にする必要はないな?」

「ば、莫迦を言うんじゃない! 翡蕾はそんな意味で言ったんじゃ……」

 慌てて顔を背ける不空。火傷しそうになるほど顔が赤くなっているのは自分でもよくわかる。

 二人の様子を見て首を傾げること数秒、翡蕾もようやく己の発した言葉の不備に気がついた。

「そっ、そんな意味じゃないから! やめてよ、もうっ!」

 彼女もまた赤面した顔が恥ずかしいのか、両手で顔を覆ってもはや振り向くこともなく桃園を走り去って行った。けらけらけら、と李白の笑い声がその後を追う。不空が再び視線を向けた時にはすでに、その後ろ姿は桃花の帳に隠れてしまった後だった。

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