第四十節 月出でて行人稀なり

 斐剛は走っていた。

 蔵書閣が崩れ落ちる瞬間、咄嗟に屋根から振り落とされぬようにしがみついたのが功を奏し、何とかあの場を脱することが出来た。さすがにしばらくは動けなかったが、内力を巡らせて傷を和らげ、僧侶たちが駆けつける直前に森の中へと飛び込むことが出来た。相手が武芸のできない相手であっても、この手負いの状態で多人数を相手にすることは難しい。悔しいが、もはや目的の武芸書が灰燼と消えた以上は逃げるほかない。どこかへ消えてしまった舎弟たちのことなど気にする余裕はなかったし、そのつもりもなかった。

「畜生、畜生……っ!」

 肋骨の折れた体を抱き、口から血を吐きながら木々の間を走る。思い返すに腹立たしい。長安ではそれなりに名も知られて恐れられていたこの身の上が、追われるようにして長安を去る羽目になった。何とか白銀白虎の名を再び轟かせねばと、叙修から聞いた紅袍賢人の武芸書を目指してこんな片田舎までやって来た。それを手に入れさえすれば再び長安に返り咲ける。再びあの栄華を取り戻せる――そう、夢見ていたのに。

「畜生っ! どいつもこいつも、俺を虚仮にしやがって! ぶっ殺してやる、ぶっ殺してやる!」

 足元に何かが引っ掛かった。躓き転んで、身に走った激痛に思わず涙が流れた。何が、と思って地面にあった物を見やると、ただ一本の折れた木の枝だった。

 手に取り、杖のように地面へ突き立て立ち上がる。もはや身はボロボロ、精神も打ち砕かれ、堪らず悔し涙を流した。母親に叱られた子供のように、惨めに、不格好に。今度はトボトボと山を降りる。

 ふと、人の声を聞いた。

 斐剛ははっとしてすぐ側の木陰に隠れる。少し段差になったその先に山道が見えた。そこを誰かが歩いて来る。

佳期かき、期すれども未だ帰らず。望望ぼうぼうとして鳴機めいきを下る――」

 鈴を鳴らすかのような声でそう呟きながら山道を登って来たのは、果たして幻覚であろうか、輝くような美女であった。濡れ羽色の髪、白磁のような玉の肌。身に着けたのは道士服のようだが、生地が薄くその肢体の豊満さを隠すどころか幻惑するかのように主張させている。腰にはやや不釣り合いな黒鞘の剣を帯び、胸の前に掲げた両手には薄い包みが乗せられていた。

「――徘徊す、東陌とうはくほとり。月出でて行人こうじん稀なり」

 呟いているのは誰かの詩だろうか? 浅学な斐剛にはわからなかったが、そんな事は元よりどうでも良かった。気にすべきなのは、あれほどの美女が、たった一人で、夜の山道を歩いているという事実だけだ。

 斐剛の心に、どす黒い悪意が満ちた。ずる、と舌で唇を舐める。今日は本当に散々だった。散々だったが、最後にあんな上物に出会う事ができた。これを僥倖と呼ばずして何と呼ぼう?

(憂さ晴らしだ。せいぜい激しく鳴いて、俺を慰めてくれよな!)

 杖を投げ捨てる。あんな細腕の相手に武器など不要だ。飛びかかって、押し倒してしまえば良い。全て終わってから始末するのだって首を絞めてやればそれで良い。とにかく今は、あれを一刻も早く壊してしまいたい!

 木陰から飛び出した斐剛は、渾身の力で地を蹴った。真上から強襲し、捩じ伏せるつもりだ。女はそれに気づいた様子もなく、変わらず歩き続けている。

「……行人稀なり、と言ったのよ。無粋な真似はしないで欲しいわ」

「!?」

 女が振り仰ぐ。斐剛と目が会った。その瞳には反射した夜空に浮かぶ月があった。それはさながら、金目のように。

 シャン、と何かが風を切った。何が? 斐剛は疑問を抱いたが、その答えを得ることはできなかった。ぐらりと視界が回転する。肩より上の無い、自分の胴体がちらと見えた。それが最後だった。

 ――女の手には、いつの間に抜いたのだろう。漆黒の剣が握られていた。

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