第三十九節 お別れを言いに

 生きているのか死んでいるのか、それすらも良くわからない中で、不空は誰かの声を聞いた。

「あの男の息の根をなぜ止めなかった? 最も大事な友人の仇なのに、なぜ止めを刺さなかった? 殺しておけば、悪あがきで殺されることもなかっただろうに」

 その問いかけで、ああ自分は死んだのかと変に納得する。元よりこの世に未練はない。己が死んだと聞かされても特に動揺はしなかった。

「だって、そんなことをしたって翡蕾は戻って来やしないよ。それに、この武芸は誰かを傷つけるために覚えたんじゃあない。勧善懲悪、自分が正しいと思ったことを曲げず、正しくないと思ったことを正すために使うんだ。それが出来るように覚えたんだ。誰かを害するなんて、仏道にも初心にも反してしまうよ」

 すると、声の主はやや笑ったように息を漏らした。

「安心したわ。あなたが道を踏み外さなくて」

 何も見えないのに、不空はその誰かが背中を向けたように感じた。そのまますうっと遠くなる。

 どこへ行くんだ、と問いかける。行くべき場所へ、と答えが返る。

「もう同じ場所にはいられないけれど、私は私であったことに感謝する。短い人生だったし、辛いこともあったけれど……私は、こんなにも幸せだったのだもの」

 朦朧とした意識が冴えてくる。不空はその声の主が、翡蕾なのではないかと思えてきた。手を伸ばせばまだ届くだろうか。足を踏み出せばまた寄り添えるだろうか。しかしもがこうとするほどに意識ははっきりしてきて、その存在は遠くなる。

 目覚める瞬間、不空は悟った。そして呟いた。

「――ありがとう」

 眩しい紅の光が瞼の間から差し込んだ。うっすらと開いてみれば、大小いくつもの顔が己を覗き込んでいる。どれもが煤に塗れて見覚えのあるはずの顔でさえ誰だかよくわからない。しかし不空が意識を取り戻したのだと知って、彼らは揃って歓喜の表情を浮かべた。

「起きたぞ、起きたぞ! 死んでいない!」

「当たり前だ、僕たちが助け出したんだぞ」

「ああ、お前たちは立派だぞ!」

「ぐずぐずするな、早く安全なところへ運べ」

 不空はどうやら担架に乗せられているらしい。よいしょと掛け声を合わせて空真、空天、空虚、空梵がこれを持ち上げて歩き出す。首を巡らせてみれば、すぐ目の前に赤々と燃える瓦礫の山が見えた。

「運の良い奴だ。瓦礫が緩衝材になって墜死を免れたんだよ」

 視線に気づいた空虚がそう教えてくれる。しかし、不空が気にしたのはそこではなかった。

「あいつは……斐剛は?」

 四人は顔を見合わせると、揃って頭を振った。

「まだ見つけられていない。とはいえ、お前のすぐ近くにいるはずなのが見当たらないってことは、もしかすると死なずに逃げ去ったのだろう。残念ながらな」

「いえ、むしろそれで良いんです」

 空虚はきょとんとした顔になる。不空が翡蕾の仇討ちのために斐剛と戦ったのだと、梁工から聞かされて知っている。それがどうして、逃げられて良かったと言うのだ?

 修行が足りないな、と空真が言う。空虚はまたきょとんとして、首を傾げるばかりである。不空はそれが可笑しく見えて、必死に笑いを堪えた。すると、その反動で全身がぎりぎりと痛んだ。戦闘の中にあっては気にならなかった傷が、全て終わった今一度に押し寄せて来たのだ。

 不空は息を整え、内力を巡らせてこれを沈めようとした。が、何かが変だ。目を閉じて数回呼吸を繰り返し、すぐにその理由を知った。思わず苦笑が漏れる。

「どうかしたか?」

 空真が問いかけるのへ、不空は「何も」と答えた。

 不空の経絡はもはや全く機能していなかった。細い小川に大河の水量を一度に流し込めばすぐさま崩壊してしまうように、自身の全力と斐剛の攻撃とで不空の経絡はズタズタに引き裂けてもはや回復も見込めないほどに壊れていた。四肢の感覚は残っていることから人並みの身体能力は残るだろうが、もはや武芸はできまい。

 良いんだ、もうそんなことは。――誰ともなしに呟いた。

「僕は、もっと素晴らしいものを手に入れたんだから」

 目を閉じる。その先には無限の世界が広がっていた。

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