第十六節 助け
肩越しに振り返った、その先に。空が見えた。呆れるぐらいの晴天。真っ青な空。その中にぽつんと、絵の具を一滴垂らしたかのような色。二つの、黄色い……あれは僧衣だろうか?
――瞬間、背中と脚を拘束していた力が消失した。直前には打撃音。ズダンと凄まじい音を立てて、四つの足が翡蕾を挟むように降り立った。
「おーおー、こんな凍えるような日に、さらに空しいことをする。人攫いで懐を暖めたところで、心はさもしいままじゃぞ?」
「全くだ。貴様ら、何てことをする!」
その二つはどちらも若い声で、老人言葉の方は聞き覚えがない。しかしもう一方は知っている。あの日、叙修の乱暴から救ってくれた少年だ。嗚呼――心中で嘆息する。また助けられてしまった。
「梁小姐、大丈夫ですか?」
言いながら膝を突いて猿轡を外す不空。ぷはっ、と息を吐いて、しかし翡蕾は何も言えなかった。言わなくてはいけない言葉があることはわかっているが、喉が動かなかった。
「このクソガキどもっ、また邪魔をするのか!」
馬参史が鉤剣を構える。反対側では閔敏も三節棍を構えている。翡蕾は息を呑んだ。あの二人は武器を持ち、しかもそれなりに腕が立つことでも知られている。対してこちらは子供、老人言葉の少年も翡蕾よりは年上であるようだが子供には変わりない。襲いかかられればひとたまりもないだろう。
「――逃げてっ!」
辛うじてそれだけを喉から吐き出した。勝てる相手ではない。立ち向かおうものならば返り討ちにされ、ともすれば三人まとめて売り飛ばされることにもなるだろう。そんなのは――嫌だ。
しかし二人は逃げるどころか、さっと翡蕾を間に挟んで背中合わせに立つ。同時、馬参史と閔敏が接近を仕掛けた。馬参史は不空の首めがけて鉤剣を振り下ろし、閔敏は三節棍の一端を少年の胸に突き込む。
後ろ手に縛られたままの翡蕾には何が起きたのかはっきりとは見えなかった。ただ二人の少年は同時に両袖を打ち払い、気が付けば馬閔の二人は胸部に一撃を受けてよろめくように二、三歩後退させられている。驚きに息を呑む音がする。
「う、嘘でしょ……? この技、あの老いぼれクソ坊主がやったのと同じだよ!」
「そんなのは見りゃわかるんだよ! 畜生、こんなのはさすがの俺にも計算外だッ!」
閔敏の震える声に、馬参史はどちらかと言うと自身の心を奮い立たせるように喚いた。
不空はすっと腰を落とすと、視線は馬参史へ向けたまま、背面越しに翡蕾の腕を縛る縄を解く。
「このまま大人しく去っていただけるのならば、今後一切梁小姐に関わらないと誓うなら、追いはしない。だが懲りずに乱暴を働こうと言うのなら、容赦はしないぞ!」
「おっと、この李白様を忘れてもらっては困るぞ」
冗談めかして老人言葉の少年も口を挟む。馬参史の顔にさっと赤みが走った。
「ふざけるな!」
その瞬間、全員が動いた。翡蕾は地面を突いて立ち上がり、懐に忍ばせた短刀を引き抜く。そうしてまずは自身の左側、不空の姿を視線で追う。
既に二人の間合いは三足分もない。馬参史は腕を正面で交差させ、右は振りおろし、左を振り上げて鋏のように切りかかる。しかし、ダンッ、不空はその間合いに到達する手前で急停止する。鉤剣は空を切り、馬参史は正面を無防備に晒す。そして急停止した不空の体は慣性に従って加わる推進力のまま、一瞬遅れて再度急加速、馬参史の懐へと潜り込んだ。
「バカなっ!?」
「
ズダンッ! 凄まじい震脚。その反動で飛び上がるように不空の体が伸び上がる。肋骨の下に潜り込ませた掌底が鳩尾を抉る。
「ぐごっっっっっっあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
口の端から唾液を撒き散らし、馬参史の体はそのまま真後ろに吹っ飛ぶ。地面に激突してからもその勢いは止まらず、そのままざあっと壁際まで滑走した。
それとほぼ同時、今度は右側から耳を劈くような悲鳴が上がる。
「きゃあぁっ!? ちょっと、どこ触ってるのよ! やめてってば!」
「ニュヘヘェ、貴様、身なりはみすぼらしいが肉付きは中々良いではないか。着痩せしておるのだな? どれどれ直に触って確かめてみるか……」
「こ、このっ、くそガキが! 死ねっ! ぶっ殺してやる!」
視線を移してみれば、どのような技を受けたのか、閔敏が三節棍で自らの腕を後ろ手に固定されてしまっている。しかもその着衣は胸先が見えそうなほどに乱れ、指をいやらしく動かす李白に壁際へ追い詰められようとしていた。
(……あれ、どっちが悪人だったかしら?)
翡蕾が一瞬そんなことを考えた、その時だった。閔敏の振り上げた足が李白の股間を直撃する。おげぇっ、蛙のような呻き声を上げて前屈みになる李白。閔敏の脚がその頭部を蹴り飛ばす。少しだけ首を長くしながら李白の体は吹っ飛び、石段に脳天をぶつけビクンと全身を痙攣させて動かなくなった。正に一瞬の出来事である。
「マジでッ! あたいを怒らせたねガキども!」
ゴキンッ。嫌な音を立てて閔敏の左肩が異様な方向に曲がる。だらりと腕が垂れ、三節棍が転がり落ちた。そして跳躍。――あろうことか、翡蕾の方へ向かってくる!
「ぶっ殺してやるよ!」
その鬼気迫る表情たるや、大の大人でも怯むに違いない。翡蕾も突然の事で足が動かない。完全に硬直してしまった翡蕾に、閔敏の掌打が襲い掛かる。遮二無二、手にした短刀をその心臓めがけて突き出した。――死なば諸共だ!
「やめろ!」
びゅうっ、眼前を烈風が吹き抜け、瞬きする間に不空が割り込んだ。ゆうに十歩分はあった距離を駆け抜けて、その右手は翡蕾の腕を掴み取り、左手は間一髪で閔敏の掌打を受け止める。
パンッ! 乾いた音を立てて閔敏の体が横に吹っ飛んだ。
「むっ?」
不空の体がやや前に傾く。それもそのはず、閔敏が翡蕾を狙ったのは陽動であり、全く威力が乗っていなかったのだ。むしろ掌力を利用され、押し出した形となった。
首尾よく不空との位置取りを交換した閔敏は、地面に伸びた義兄の腹を蹴り飛ばし活を入れる。
「兄貴、大丈夫かい!? さっさと逃げるよ。あたいはもう、こいつらに関わるのは御免だよ!」
ううっと喚きながら立ち上がる馬参史。それを認めた閔敏は、我先にと言わんばかりに小戸を潜って駆けて行く。馬参史はちらりと不空を見て、そして翡蕾を見て、チッと舌打ちしてから同じく小戸を潜って姿を消した。
バタン。小戸が閉じると、不空はふうぅと息を吐いた。
「いやはや、危ないところだった。小姐、怪我はない?」
「……腕が痛いわ」
翡蕾が抑揚のない調子で訴えると、不空は一瞬考え、そして自分の右腕を見て、ようやくその意味を理解した。ぱっと翡蕾の腕を放す。その手首にはくっきりと握り痕が残っていた。手先も痺れてしまい、ポロリとその手から短刀が滑り落ちた。
「ご、ごめん! つい力を入れ過ぎてしまって、その……」
「わざわざ止めることなんて無かったじゃない。どうして止めたのよ? わざわざ敵を助けるなんて」
「それは……」
「そもそもあなた、どうしていきなりそんなに強くなったのよ? お寺じゃ武芸はやらないんでしょう?」
それは、と不空が口を開きかけたところで、背後から大音声が響き渡った。
「あーったり前じゃ! わしが手解きしてやったのじゃ、このぐらいは当然じゃ!」
はっとして振り返ってみれば、ふらふらと幽鬼のごとく立つ人影。誰かと問う必要はない、石段に後頭部をぶつけて昏倒していた李白だ。ぐらりと持ち上げたその顔面は半分が鮮血に染まっていた。そのあまりにも衝撃的な面相にぎょっとした翡蕾は知らず、不空の腕を握り締めその背後に隠れた。
「あれぐらいの相手、本当はわし一人でも十分なのじゃがな。せっかく三月もかけて教え込んだのじゃ、少し実践訓練をと思ってやらせてみれば、なかなかどうしてやるではないか」
「李白、じゃあ腕の立つお前がどうして血まみれになっているのか教えてくれないか」
「ド阿呆、これは骨を折ってやったのだと身を以て示しておるのじゃ。頭蓋もまだ少し陥没しておるぞ」
「何でそれで死なないのか問い質したいところだけど、まずは血を拭いてくれ。小姐が怯えているじゃないか」
その一言に翡蕾はハッとする。全くの無意識とは言え、確かに自分は不空の後ろに隠れていかにも怯えている。その事実を認めるや、ぱっとその肩を突き飛ばして不空から距離を取った。
「そ、それよりもあなた、何でまたここに来たのよ?」
翡蕾はやや上ずった声で問いかける。なぜだかわからないが、まともに不空の顔を見れない。視線は足を見つめている。
そうでした、と不空は何やら僧衣の懐を探ったかと思えば、一つの布包みを翡蕾の眼前に差し出した。それは翡蕾にも見覚えのある、あの日彼女が不空から奪い取った薬包みだった。
「な、何よこれ?」
「小姐に差し上げようと思って……いえ、小姐に「奪って」いただこうと思って、持ってきました」
その言葉に思わず顔を上げると、微笑を浮かべた不空がそこにいる。彼は今、何と言ったのだ?
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