第十五節 何一つできない

 井戸から汲み上げた水を桶に移す。かじかんだ手を胸元に抱きしめ、翡蕾はふうと息を吐いた。その息はふわりと一瞬白くなって消えてゆく。

 もうそんな季節なのね。誰にともなく呟いてから水桶を持ち上げる。もうあれから何年が経っただろう、始めは重すぎて満杯では到底運べなかったこの水桶も、今では軽々と持ち運べるようになった。背も伸びたし、体つきも変わってきている。そうしたところで自身の体が成長していることを知る。でも、この暮らしは変わらない。

 部屋に入って扉を閉め、火鉢に炭を一つ足す。そうして少し火力が強まったところに掌を翳した。じんわりと暖かい。あかぎれの痛みもそれで少し和らいだ。

「……」

 じっと自分の掌を見つめる。傷だらけの手だ。皹の他にも肉刺まめができたりそれが潰れたり、肌触りもガサガサとしてとても十代の手とは思えない。それを見つめて、しばし黙考した後、何かを振り払うように頭を振った。

(バカね、綺麗な手肌なんて私が望んで何になるのよ)

「さて――と。父さん、今日は調子良いみたいね?」

 寝台に横たわる父親に声を掛ける。返事があるなどとは思っていない。病床にふせって以来、まともに会話できたことはないのだ。この数年来、耳にする父の声は呻きと叫び声だけだ。

 卓上の短刀を手に取る。今のうちに手足の膿を出してしまわなければならない。さもなければまたすぐに激痛が父親を襲うことになる。あんな叫び声を上げさせるわけにはいかない。あれを聞くたび、彼女の心は潰れそうになるのだ。自分のせいで苦しめているのだと、否応にも突きつけられる。それは――嫌だ。

「父さん。今、楽にしてあげるからね」

 鞘を払う。寝具を払い、目についた一番大きな浮腫に切っ先を向けた。

 わかっている。楽になりたいのは自分の方だ。できることならばいっそ、どこへとなり駆け出して地平の彼方へと消えてしまいたい。自分の存在がこの家にのしこりとなっていることを知った時から、そうすべきだったのだ。しかしできなかった。やらなかった。その結果が、これだ。

 あの日、厨房に立つ母に駆け寄った時、驚いた母は高熱の油が入った鍋をひっくり返してしまった。それが顔面にかかって消えない火傷を負った。自業自得だ。全部自分が悪いのに、母親は自らを責めて精神を病んだ。醜い姿を晒したくないと引き籠って、それが余計に母を限界まで追いつめた。殺したも同然だ。自分が、母を死に追いやったのだ。

 もう誰もこの家には残っていない。唯一残された父親を奇病から救えるのは血を分けた娘である自分だけだ。自分が救わなければならないのだ。それが親子としての責務だ。もう逃げ出せない。放り出すことはできない。全ての元凶となった自分への、これは罰だ。楽になりたいと、死んでしまいたいと思ってもそれは許されない。自分は償わなければならないのだから。

(父さんの病気が治ったら、私は消えてしまおう。誰にも知られず、気にされることもなく、初めからそこになかったように)

 吸い出した膿を吐き捨てる。口を漱ごうと桶の水を掬い上げて――そこで、その音を聞いた。

(……誰?)

 漱いだ水を急いで吐き捨て、覆面を顔に巻いて立ち上がる。今確かに、門扉が開かれる音がした。誰かが無断で入ってきたのだ。一体誰が?

(――決まってる。最近姿を見ないと思ったら、叙修の奴、また来たのね!)

 短刀を鞘に仕舞い、少し悩んで懐に入れる。また無理やりにでも押し入ろうとしたなら、痛い目に遭わせてやる。あの日見知らぬ少年がやったように、自分だってあれぐらいやれるのだ。父を、この家を――守るのは私だ!

「叙修! また金をせびりに来たのね!?」

 大喝しながら門前へと向かう。しかし、翡蕾はそこで茫然と立ち尽くすことになった。

 誰もいない。ただの一人も姿が見えない。

(……気のせいだったのかしら?)

 よくよく考えれば、叙修であればその人となりからしてこっそり中に入るなどしない。常にこちらを威圧するように、自らはここにいるのだと主張しながらやって来る。こそこそとネズミのような真似はしない。

 勘違いか? そう考えたところで、ふと日が陰った。まるで、何かが頭上に被ったような……。

「――っ!?」

 後頭部に激痛。視界が揺れて足元の感覚がなくなる。そのまま石段を転げ落ちて院子に転がる。誰かにいきなり、頭上から殴られたのだ。誰に?

「兄貴、やったよ! 早く早く!」

 答えはすぐにわかった。これは閔敏の声だ。それに応じてどこか隠れていたらしい場所から駆けてくるのは、おそらく馬参史に違いない。

「急かすんじゃねぇよ。俺様の計画に破綻なんかありゃしないんだ。むしろ焦る方が失敗の元さ」

「いいから早く、こいつの口塞いじゃってよ!」

 朦朧としている意識でそれらを聞いていると、ぐいと無理やり覆面の上から何かを口に押し込まれた。それで一気に覚醒した。自分は今、猿轡を噛まされたのだ。しかも今度は後ろ手に腕までも拘束されようとしている。

「――、――っ!」

 声にならない声で問う。一体何を、なぜこんなことをするのか。今までの彼らは正面から無理やり押し入るようなやり方で、強引ではあるが闇討ちするような手法は採ったことが無い。それが今回はどうだ。いきなり背後から襲いかかるとは。

(そうまでして押し入りたいの!? でも、この家にもう売れそうなものが無いことぐらい、こいつらは当に知っているでしょうに)

 とにかく大人しく縛られるわけにはいかない。必死になって手足をバタつかせ、振り解こうとする。馬参史は翡蕾の腕を必死に押さえながら閔敏を叱咤した。

「おい、ボケっとしていないで、脚を押さえろ!」

「え、袋に入れるから準備しとけって言ったのは兄貴じゃん?」

「適材適所って言葉を知らねぇのかテメーは!」

 それを言うなら「臨機応変」だろうが、指摘してやる余裕はない。第一、袋に入れるとはどういう意味だ?

「って言うかさー、こいつの顔の酷さは知ってるでしょ? こんな醜女が一体いくらで売れるってのさ?」

「安くても売れるならいくらだって良いに決まってんだろ。また雑草煮込みを食いてーのかよお前は! わかったらさっさと手伝え。憲兵に見つかるわけに行かねーんだからよ!」

 ――二つ、わかったことがある。

 一つ、今この場に叙修はいない。もしもいたならば、あの男の自尊心がこんな所業を許すはずがないし、官憲など気にするはずがない。多少の事ならば身内の権力を盾にできるのだから。

 そしてもう一つ。彼らは人攫いを働こうとしている。翡蕾を誘拐し、どこぞへと売り飛ばそうとしているのだ。

(ダメよ、ダメ! そんなことをされたら、今この家から引き離されたら、父さんは死んでしまう!)

 抵抗空しく、両腕を骨が軋みそうなほどに縛り上げられる。その間に閔敏に脚も拘束されてしまった。もはや動くことはできず、大人しく縄が皮膚に食い込んでいくのを肌の触覚だけで知るしかない。

「――ッ!!」

 叫んだ。しかし猿轡を噛まされた口からはくぐもった音が漏れるのみだ。助けは呼べない。いや、呼べたところで誰が来てくれるのだろう? 誰もが皆、この家を、彼女を、忌避しているのに。だから元より助けなど呼んでいない。

(畜生! 私はどうなっても構わないけど、父さんを死なせるわけにはいかないのよ! 私はそのためだけにいるのに!)

 父親の看病をすることだけが、今の彼女の生きる理由だ。それだけのために翡蕾は生きている。病が癒えるまで看病を続ける、それが彼女の務めだ。今彼女がこの場所から引き離されてしまったら、看病されなくなった父親は確実に死ぬだろう。それを知りながら生き続けるなど、できない。

 視界が歪む。打撃による浮遊感ではない。涙が溢れて視界を乱している。そうして彼女は、嗤った。口ではなく、心で己を嘲った。――なんて弱い女だろう。自分一人で何でもやれると思って、全部を抱え込んで、全てを敵に回して。そうして何も全うできないまま終わりを迎えるのだ。どれだけ強がったところで、何もできない。

 何も。何一つ。

「……」

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