第十七節 言うべき言葉

 翡蕾はしばし逡巡し、包みを受け取って開いた。現れたのは数輪の花であるようだ。青い花弁、特徴的な萼からそれが蓮の一種であると見て取れた。

(これは……)

「小姐が探していた、優鉢羅花です」

 その言葉に翡蕾の驚くまいことか。あれだけ必死になって探し回り、見つけられなかった薬花がこの手にあるだなんて。

「これを、どこで手に入れたの? 本当にこれが優鉢羅花なの!? そんな、どこを探しても見つからなかったのに!」

 実のところ、翡蕾も優鉢羅花という物がどのような花であるか知らなかった。ただそれだけが父の皮膚病を癒せると聞き、闇雲に探し回っていたのだ。それをどうして、彼らが持っているのか?

「嘘なんか吐く必要があるか。それは戴天山の山頂にある池に群生しておったんじゃ。不空めはそれを届けるためにわざわざこうしてやって来たと言うわけじゃよ」

 顔の血を拭った代わりに僧衣の袖を真っ赤にした李白が代わりに答える。そういうことです、と不空は無言で頷いた。

 翡蕾は茫然と、そして愕然として手の内にある薬花を見下ろした。

「でも、実のところそれが本当に優鉢羅花と呼ばれるものなのかはわからなくて……薬屋で調薬してもらってから持ってくるつもりだっんだけど、そのような花も薬も知らないと言われてしまって。それで、そのまま持って来たんだ。もしも見当違いであったなら申し訳ない話だけど……小姐?」

 不空は首を傾げて、そして翡蕾の表情を見て驚いた。その瞳からはぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていたのだ。

 げらげらと李白が耳障りな笑いを上げる。

「おーっと。不空め、貴様その年で女を泣かせるとは大したものじゃな!」

「し、小姐!? そんな、僕、何か気に障ることを言った?」

 慌てる不空に、翡蕾は頭を振って返す。違う、そういう意味じゃない。

「ごめんなさい……私、あなたに謝らないといけないわ」

「え?」

 不空はきょとんとする。泣いている相手が泣かせた相手に謝るとはあべこべではないか。

「私、あなたに酷いことを言ったわ。お坊さんはお寺に引き籠って何の役にも立たないお祈りをしていれば良いだなんて言って。お祈りなんかが何になるのか、なんて言って……」

「ああ、いや。まあ、事実だし……」

 不空が頭を掻きつつ言うのへ、翡蕾はまた頭を振った。

「そんなことない。さっきあいつらに攫われそうになった時、私も祈ったのよ。神でも仏でも誰でも良いから、助けて欲しいって。――そうしたらあなたたちが現れたんだもの。謝らなくちゃ」

 一人で何でもできると思っていた。誰も自分を助けてくれたりしないのだと思っていた。しかし、それは違ったのだ。

 自分は何もできない。つい先ほど馬閔の二人に襲われた時も、自分は何もできなかった。何でもできるなど思い上がりだ。自分にはまだこんなにもできないことがある。たった一人ではできないのだ。だから人は祈るのだ。

 そして、自らに救いの手を差し伸べてくれた人間は今、目の前にいる。誰も自分を助けてくれないのではない、自分自身が助けなどいらないと突き放していただけだ。助けてと叫びたい思いを無理に呑み込んで、腹の奥底に押し込めていただけなのだ。それがどうにも申し訳なくて、その思いが両のまなこから溢れ出しているのだ。

「あぁ~? 何じゃこの女、何を言っておるんじゃ?」

 ずい、と李白が二人の間に割って入るや、その指先を翡蕾の額に押し付けた。

「おいこら、梁とやら。貴様、言うべき言葉も表情も間違っておるぞ。わしらは身骨砕いて貴様のために彼奴らと手を交えたのじゃぞ。それがなんじゃ、謝るぅ~? 辛気臭い顔で謝られて喜ぶのは、性根の腐ってねじ曲がって絡まったような奴だけじゃ、ボケッ!」

「おいこら、李白!」

 不空が肩を掴もうとするのをひょいと飛び退いて躱す李白。やーい捕まえられるものなら捕まえてみろーと囃し立てるその顔面に不空は地面を蹴って泥を飛ばした。がぶっ、とその口に一塊の泥土が飛び込む。げげーっ、と咳き込む李白。

「……ありがとう」

 ふと、翡蕾の口からそんな言葉が漏れた。ぴた、と李白に詰め寄りその首元を吊り上げた不空の動きが止まる。翡蕾の顔を見て、何かに驚いたように目を見開いた。

(――ああ、そうだ)

 翡蕾の心の中で、何か閊えていたものがふっと溶けて消えた。ずっと言わなければならないと思っていた。それでも言えなかった言葉。今ただ一言を発したら、もう止まらなくなった。

「ありがとう! 私を助けてくれて、薬花をくれて――本当にありがとう!」

 駆け寄って、二人まとめて抱き寄せた。不空が胸元で「小姐!?」と発して狼狽する素振りを見せたが、気にするものか。力の限り抱き寄せた。それで不空は何も言えなくなった。――彼の背丈はまだ翡蕾よりも頭一つ小さいのだ。

「いやはや、女子に抱き付かれるのはいつだって最高じゃわい。なあ、不空?」

「黙れ」

 解放されてから李白が言うと、不空は耳まで真っ赤になって視線を逸らし返答を拒む。

「えっと、それじゃあ僕らは帰るよ。最近はめっきり寒くなったから、小姐も風邪など召さないように気をつけて。それじゃあ――」

「待って!」

 いたたまれなくなってこの場を立ち去ろうとする不空を、しかし翡蕾はなおも呼び止めた。しばしの沈黙。

「……最近はめっきり寒くなったから、少し寄って暖まって行きなさい」

 少し休んで行けと、ただそれだけを言ったつもりだった。それだけなのに、不空は無言で翡蕾の顔をまじまじと見つめている。はて、何かおかしなことを言っただろうか。そう言えばまだ頬に流れた涙を拭っていなかったかも知れない。

「あ……ああ、もしかして私が泣いているとでも思った? 嫌だわ、これは、その、雪よ。ほら、もう冬も近いから」

 ふふっ、遂に不空は笑声を漏らした。どうしたのかしらと翡蕾が疑問に思っていると、不空の笑いをかき消すように李白が大口を開けて大笑した。

「ふははっ! なんじゃ、話に聞いた限りでは辛気臭い女かと思っておったが、なかなかどうして、美人ではないか。ほらほらもっと笑え、女は笑えば皆美人よ!」

 ぴく、と翡蕾の眉が動く。この私が美人ですって? この李白と言う男、心にもないことを言う。私の本当のかおなど見たこともないくせに……。

 ぴたり、顎にかけた翡蕾の手が止まる。そこにあるはずの覆面がなくなっていると気づいたからだ。見れば、地面に猿轡と共に転がっているではないか。きっと一緒に外れてしまったに違いない。

「……あ、あは」

 知らず、声が漏れた。その口元を指でなぞる。翡蕾自身、驚いていた。――笑っている。私は今、笑っているのだ。それを自覚した瞬間、もう涙は止まらなかった。

(私は今まで、笑うことなど無かった。ずっとずっと、生きていることさえも辛くて辛くて堪らなかったから。――でも、もう違う!)

「おいこら、笑うか泣くか、どちらかにせい! まあ、わしはどちらでも構わんぞ! ぐわはははははっ!」

「違うぞ李白、小姐が泣くものか。あれは雪だ。今日は大雪だぞ!」

 不空が大真面目な顔をして言うので、翡蕾はとうとう声に出して笑い出す。

「そうよ! さあ、早く中に入りなさい。凍え死んでしまう前にね!」

 三人は屋根の下に入っても、何がおかしいわけでもないのにそのまま笑い続けた。まるで今生の楽しみが一度に訪れたかのように、ただひたすらに笑いあった。せっかく熱いお茶を出されても、笑いながらでは飲めやしない。それで思わず吹き出して、それでまた笑いあう。

 やがて腹が筋肉痛を起こして動けなくなるまで笑い続けた三人は、その日を境に義兄弟となった。

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