第三節 不機嫌の理由

 背中でもぞもぞと動くのを感じ、元林宗は前を行く蘭香を呼び止めた。ほどなく、元林宗の背中で女児が目を覚ました。もうすっかり日が落ち、星明りも少ない夜になってしまっていた。

「ここはどこ? お姉さんたち、だぁれ?」

 まだ少し舌足らずな口調で尋ねる。眠そうに目蓋を擦り、それからじっと正面の蘭香、そして自身を背負う元林宗の顔を見つめた。しばらく記憶を探るように首を傾げ、突如としてさっと青ざめる。

「あの人はどこ? ここはどこ? しょう兄さんはどこ?」

 二人の顔を見て誘拐されかけていたことを思い出したのだろう。まだあの女が近くにいるのかと、ぎゅっと恐怖でこわばった腕を元林宗の首に巻きつける。元林宗はその腕を優しく撫でながら囁いた。

「あの悪い女の人は私たちが追い払ったから、もう安心だよ」

「ほ、ほんとうに?」

 女児はキョロキョロと周囲を見回し、確かに誘拐犯がいないことを知って安堵の息を吐く。それから「降りる」と言って元林宗の背から降りた。

「ねえ、お家は? わたしのお家はどこなの?」

 あの四人組から逃れた二人は道も確かめずにひた走ったのが災いし、完全に道を見失っていた。ここはどこかと問われてもこちらが訊きたいぐらいであり、ましてや彼女の家など知るはずもない。

「君、名前は?」

 問いには答えないまま、元林宗は問いを返した。女児はすっかり自身の問いを忘却し、自信満々に己の身の上を語った。

「わたしは、玉環ぎょくかん。でもお姉さまたちは小環しょうかんと呼ぶの。お兄さんたちは?」

 元林宗はまず自分が名乗り、それから蘭香を紹介した。

「君を家まで送っていこう。今夜は無理でも、明日には必ず。でもその前に何があったのか話してくれるかい?」

 すると少女玉環はグシャっと顔を歪ませたかと思うや、わんわんと泣き出してしまった。己の身に起きた事実を受け入れるには、彼女はまだ幼すぎたのだ。

 玉環をなだめすかしながら元林宗は休める場所を探した。ほどなく空き家を発見する。人が住まなくなって久しいようだが、一晩雨風を凌ぐには十分だ。紙蝋を灯して明かりを取った。蘭香は厨房で古びた調理器具を見つけ出すと乾飯かれいいで食事を作り始めた。

 その頃には玉環も泣き疲れて落ち着いていた。元林宗は彼女がぽつりぽつりととりとめなく話すのを聞き、それでようやくおおよその次第を把握した。

 玉環には仲の良い友人がいたのだが、それがある日突然姿を消してしまった。行方を探そうと従兄の釗兄さんとやらと一緒に出かけ、そして占い師から手がかりを得た。探しものはあちらにあると言われ、その「あちら」へ向かった先で出会ったのがあの女だった。

 玉環は女に尋ねた。わたしのお友達を知らないか、と。すると女は知っていると答えた。一緒について来れば会わせてやろうとも。だが玉環は迷った。女の彼女を見つめる視線がなんとなく怖かったのだ。近づいてはいけないと本能が訴えていた。

「そうしたらわたしの腕を掴んで無理やり連れて行こうとしたの。釗兄さんが止めようとしてくれたけれど蹴り飛ばされて……ああ、兄さんは無事かな? 怪我、してないかな? あの後、わたしはどうなったの?」

 元林宗はそれからのことについて語った。誘拐犯は退けたが、玉環は溺れて気を失ってしまったこと。直後に役人らしき一団と遭遇したが、争いとなって逃げるしかなかったこと。

「私たちが君を連れているのを見て、あの人たちは私たちを誘拐犯と思ってしまったらしい」

「酷い話だわ。あいつらが正義で、あたしたちが悪党だなんて! 何もかもあべこべよ!」

 調理を終えた蘭香がひび割れた一つの大椀と三つの取皿を盆に乗せて運んできた。元林宗らが座っていた卓にダンと置くと、自らも椅子に座って一人先に大椀の中身を取り分け食べ始める。

 大椀の中身は粥だった。食欲をそそる香りに玉環は思わず腹の虫を鳴らす。ずいぶん長いこと何も食べていなかったはずだ。無理もない。元林宗は取り分けた小皿と匙を玉環に渡してやる。ふうふうと息を吹いて玉環は一口目を運んだ。

「わ! 美味しい!」

 見た目はなんの変哲もないのに、しっかりと味がある。匙を渡すと夢中になって食べ始めた。

「蘭香お姉さん、とっても料理が上手!」

「そりゃあそうよ。料理屋の娘ですもの」

 褒められて気分を害する人間はいない。役人たちとやりあって以降ずっと不機嫌だった蘭香の表情がふっと和らいだ。

「こんなに美味しいものを作れるのだもの。お姉さんは絶対に悪い人なんかじゃないわ。わたし、お兄さんとお姉さんが悪い人じゃないって話すわ。わたしのお父様はとても偉い人なの。きっとわかってくれる」

「そうしてくれると助かるよ」

 元林宗が応えると玉環は誇らしげにはにかんだ。花開くような明るさがそこにあった。

 食事を終えるとすぐに眠気がやって来た。もうすっかり遅い時間なのだ。無理もない。当然ながら空き家に寝具などあるはずもなく、元林宗は土肌を晒す床に枯葉を拾って敷き詰めた。その上に自身の上着を解いて被せ、そこへ玉環を寝かせる。よほど疲れていたらしい彼女は横になるやあっという間にすやすやと寝息を立て始めた。

「蘭妹、君ももう休みなよ」

 蘭香は窓辺に寄せた椅子の上で胡坐をかき、ぼんやりと外を眺めていた。いつもの蘭香に似つかわしくない、何やら思い悩む表情だ。元林宗が声をかけると「ん」と短く呟いて唇を不満げに尖らせる。

「林哥哥はとても好い人だわ。でも、あまりにも優しすぎよ」

 藪から棒に何を言うのだろう。元林宗は首を傾げ、自らもまた椅子に座って蘭香と向き合った。

「そうかな? あんなに幼い、それも女の子なんだもの。優しくし過ぎることはないと思うけど」

「あの子のことじゃないわ。あたしのことよ」

「蘭妹の?」

 驚く元林宗に、蘭香は組んでいた足を解いて背筋を伸ばした。

「あたしだって、自分のやった間違いくらいわかるわ。どうして林哥哥はそれを責めないの?」

 ようやく元林宗にも彼女が何を言っているのか理解できた。蘭香が言っているのは昼間の一件についてだろう。あの時蘭香が暴れたりしなければ事態はこんなにも面倒なことにはならなかった。誘拐犯の濡れ衣を被ったまま玉環を連れて逃げ出す必要などなかったはずなのだ。

「責めたりはしないよ。どうせもう過ぎたことだもの。だけど……そうだね。あの人たちとどんな間柄なのかくらいは聴かせて欲しいかな?」

 あの時の蘭香の様子から、元林宗は彼女があの集団、とりわけあの紅袍の男や薄藍色の貴公子と面識があるのではと見抜いていた。

 蘭香はいよいよバツの悪い表情になった。はぁ、と大きく息を吐く。

「あたしが李姓と辛姓の人間を毛嫌いする理由、あれがその元凶なのよ。薄藍色の服を着ていたのが辛ナントカ、そしてあの紅袍の男が――あいつこそが、林哥哥の探していた李白なのよ」

「な、なんだって!?」

 元林宗の驚くまいことか。

 紅袍賢人李客は言った。天問牌は愚かな息子が持ち出してしまった、と。元林宗は天問牌を狙う仇敵の飛鼠よりも先に天問牌の行方を突き止めようとしていた。そのため、李客の息子、李白を探して放浪していたのだ。

 それがまさか、あの場で邂逅を果たしていたとは。

「あれは林哥哥にとってせっかくの機会だったのに、あたしは激情に駆られてとても考えなしなことをしてしまったわ。あたし、それを思うととても自分が憎らしくて仕方がないのよ。それなのに哥哥は何一つ私を責めないわ。哥哥は、優しすぎなのよ」

 なるほど、それでか。あの後ずっと蘭香の機嫌が悪かったことを思い出し、元林宗は得心した。蘭香はずっと自身の軽率な行動を悔いていたのだ。

(やれやれ、蘭妹は本当にわからない人だな)

 普段は猪突猛進かと思えば、時にこのような思慮深さを見せる。単純なようでいてその実、彼女は決して愚かではない。それどころかむしろずっと賢い女性だった。天真爛漫を繰り返してなお正道を踏み外さないのは、正しく善悪を見極める知恵があるからだ。

 元林宗は立ち上がると、蘭香の前で右腕を振り上げた。打たれるのかと思った蘭香はぎゅっと目を瞑る。折檻も甘んじて受けようというつもりだろうか。

「えい」

「あたっ」

 こつん、と蘭香の頭頂を手刀で打つ。もちろん力は一分も込めていない。蘭香はまったく痛まない頭を押さえて茫然と元林宗を見上げた。

「私は出家の身だからね。もうすでに悔いている人を余計に追い詰めるようなことはしない。蘭妹が過ちと悔いるなら、私はそれを赦すだけだよ」

「それ、ずるい」

 ぷくっと頬を膨らませる蘭香。しかしそこに先ほどまでの翳はない。すぐに堪えきれずに笑みが漏れた。ああ、やっぱり彼女に困り顔は似合わない。元林宗は心の中でしみじみと思った。

 その微笑みがふっと前触れなく消え去る。二人同時に窓の外を見た。

「――聞いたかい、蘭妹」

「ええ、聞いたわ」

 闇の中から刀剣の交わる音が近づいていた。

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