第二節 誤認

 しばらく湖畔で様子を見ていたが、女児は一向に目を覚ます気配がない。このままでは日が暮れてしまうだろう。しかしこの場に留まり続けるわけにもいかない。さてどうするべきか。言葉もなくそう視線を見交わした蘭香と元林宗は、そこでまたも遠くからの音を聞いた。誰かが近づいてくる。それも複数人だ。

「あの女の仲間かしら?」

 蘭香は一度は鞘に納めた柳葉刀に再び手を掛ける。だが元林宗は頭を振ってそれを抑えた。

「あれが逃げたのとは方角が違う。きっと無関係さ」

 だが緊張は解かない。というのも、近づいてくるその集団の足音がどうにも一般人らしからぬ、武芸者の足取りであると聞き取ったからだ。街の近くならばまだしも、こんな場所をうろつく武芸者の集団となれば、当然真っ先に思い浮かぶのは山賊の類だ。

「その子を連れて、ここから離れよう」

 元林宗は両腕に女児を抱え上げ、女誘拐犯が逃げたのとも、近づいてくる足音とも異なる方角へ向けて歩き出した。背は屈めてできるだけ目立たないように。しかしながら彼は一つ忘れていた。

 蘭香の極彩衣装は、いかなる場所においても目立つということを。

「そこにいるのは誰だ!」

 敢え無く見つかってしまった。二人は振り返りもせずに地面を蹴りつけ、軽功で走り出す。とにかく今は静かにこの女の子を介抱できる場所が必要だ。面倒に関わっていられない。

 だが相手の方が上手だった。なんと、先方に突如何者かが飛び出し、進路を阻んだのだ。

「見つけたぞ悪党ども。鬼子母神きしもしん範琳はんりんとは貴様らか」

 それは枯れ木のように細く小柄な、黄袍を身にまとった老人であった。しわくちゃでいびつな面相、しかし両眼は炯々と赤く光っている。

 元林宗は速度を緩めず、そのまま老人の側面を駆け抜けようとした。が、老人がその手の杖を持ち上げた瞬間、寒気を感じてとっさに横へ飛び退いた。ピシッ、肩の布地が裂けた。間合いからは確実に逃れたはずなのに、なぜ?

「ほう、鎖帷子くさりかたびらでも着込んでおるのか?」

 一瞬の失速を老人は見逃さなかった。直ちに追撃の突き。元林宗は両腕を女児を抱えるために使ってしまっている。当然ながら足技でこれを蹴り飛ばした。攻撃は退けたものの元林宗は痛みを覚えて顔を歪ませる。なんという内力! まるで鉄塊でも蹴りつけたかのような反動だ。脛当てを身に着けていなければ骨が折れていたかも知れない。

 元林宗の返しが意外だったのか、老人はそれ以上の追撃を繰り出さなかった。が、ひるんだ様子は見せない――というより、表情が変わらない。奇相をぴくりとも動かさぬまま、その唇に指をあてがう。ピィー、ピィー。指笛を長く長く鳴らした。

 しまった、と元林宗が思うのとほぼ同時、また別の方角から何者かが風のように駆けてきた。一体何人の仲間を潜ませているのだ?

「東兄、見つけたのか?」

「ああ、見つけた! 楊小環も一緒じゃ」

 茂みをかき分けて現われたのは二人。その中の一人が着ている服に元林宗は見覚えがあった。あれは武官の制服ではないか? それでようやく元林宗にも事の次第がわかった。

(このご老体はあの誘拐犯と、攫われたこの子を探していたのか。私たちがこの子を連れているものだから誘拐犯と勘違いしたのだな)

 であれば話は簡単だ。下手に抗わず、誠心誠意事の次第を話すまでだ。そうすれば彼らとて正義の代理人、きっと聞き入れてくれるはずだ。

 が、ここで思わぬことが起きた。なんと蘭香が血相を変えて飛び出し、柳葉刀を振りかざして駆けつけた二人組に突撃して行ったのだ。

「この恥知らずのド変態! よくもまたあたしの前に姿を現したわね!」

 一直線に二人のうち武官制服でない方へと肉薄する。それは赤髪に紅の袍を着込んだ若い男だった。蘭香が鬼の形相で迫るのを、おお、と破顔して迎える。

「斯様な美女がわしの胸に自ら飛び込もうとは、いやはやモテる男は辛いのぅ」

「バカか、避けろ!」

 最初に誰何した一人がようやく背後から追いつき、そのまま蘭香に斬られそうになった紅袍の仲間に渾身の蹴りを喰らわせる。蹴られた男の体は真横に飛んで蘭香の大上段を回避すると同時、その先の大木の幹に体半分をめり込ませることとなった。

 蘭香の獰猛な視線がその蹴りを放った一人を見据えた。こちらも武官の制服ではなく、薄藍色の衣装を身に着けている。どこか育ちの良さを感じさせる佇まい。しかし蘭香の視線に射抜かれるやぎょっと身を逸らす。

「その服、その刀――君はまさか」

「やっぱりあんたも一緒なのね、この畜生め!」

 蘭香はまたも柳葉刀を振るって、今度はその男へと斬りかかる。男はその身に武器を帯びていない。紙一重でその切っ先を逃れたところ、先の黄袍の老人が疾風の如く間に割り入った。突然の割り込みに蘭香が手を引いた瞬間、猛烈な杖の連撃を送り込む。

 元林宗には何が何だかわからない。彼らは役所の人間ではないのか? なぜ蘭香は彼らに突然襲いかかったのだろう? しかし一つだけ確かに言えることがある。薄藍色の男と黄袍の老人、この二人は蘭香の手に余る強敵だ。そして少なくとも役所の武官ではない。

(あれは蘭妹の敵なのか? 武官の姿をしているのは、その姿を借りているだけで本当は違うのか? いずれにせよ四人も相手にしては分が悪い)

 その武官姿も武器を手に元林宗へ迫る。蘭香を二人に任せてこちらを制圧するつもりか。

「その子を返してもらおう!」

「ダメよ! こんな奴らに、何も渡してはダメ!」

 蘭香の意識が逸れた瞬間、その杖先が喉元へ伸びそうになる。元林宗にもはや状況を熟慮する余裕はなかった。

「蘭妹、退け! ひとまず逃げよう!」

 言いながら武官の伸ばした腕をかいくぐり、身を躍らせて猛攻を仕掛ける老人に連続蹴りを浴びせる。すべて受け止められはしたものの蘭香への攻撃は途切れさせた。

 だがその瞬間、カァンと足元で甲高い音が鳴った。何かが脛当てを直撃したのだ。暗器だ。ぎょっとして飛び退きながら見てみれば、それはなんと囲碁の白石だ。

(碁石をあれほどの威力で弾くとは、なんという絶技だろう! 師伯が見せてくれた流星花雨りゅうせいかうの絶技にも匹敵するのでは? 師父の餞別がなければ大怪我をしていたところだ)

 碁石の暗器を放ったのは薄藍色の服の男に違いない。続いて飛来した第二撃、第三撃を蹴り飛ばす。分かっていれば叩き落すのに何のことはないが、一撃でも喰らえば危うい。それほどまでに威力が籠った暗器をこうも連続で放つとは。元林宗は内心で舌を巻いた。

「おいぃっ!? こら辛悟しんご、わしをこんな風にしてどんな料簡じゃ、えぇ!?」

 大樹にめり込んだままの赤髪が何か叫んでいる。無事な方の腕をバタバタと振り回し、すぐ側に寄っていた薄藍色の男――おそらく彼が辛悟なる人物なのだろう――の肩を掴んで激しく揺さぶる。おかげで続く暗器の投擲はあらぬ方向へと逸れて行った。

「バカ野郎、揺らすんじゃねぇ! 楊の御令嬢に当たるだろうが!」

「うわぁぁぁぁ! そんなことを言ってこやつ、わしをこのままこんな山奥に捨て去るつもりなんじゃぁぁぁ。この人でなしぃぃぃぃぃ下衆ぅぅぅぅぅぅぅ短足ぅぅぅぅぅぅぅ!」

「短足は今関係ねーよな!?」

 何やらよくわからないが、仲間割れだろうか。だとすれば好機だ。茶番を演じている二人に斬りかかろうかどうか躊躇った様子の蘭香の袖を引き、今のうちに逃走するよう促す。蘭香は口惜しそうに彼らと元林宗とを見比べたが、間もなく元林宗に続いて駆け出した。

 背後では三人協力して、赤髪の男を大樹から引き抜いていた。

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