謀攻兵法
第一節 女児誘拐
うとうとと午睡に入ろうとしていた蘭香は、しかしハッとした様子で飛び起きた。隣にいた元林宗もまた身構えている。
聞き間違いではない。今、確かに誰かが助けを求める声を聞いた。
「
「聞いたわ。子供の声だった」
蘭香は馬車の荷台ですっくと立ち上がる。揺れる荷台でも彼女の体は安定していた。ぐるりと全方位を見渡し、しかし頭を振って腰を下ろす。
「木が邪魔で何も見えないわ。馬車を停めて探しに行った方が良いかしら?」
元林宗としてはすぐには答えかねた。道を征くのは目的があるから。別の厄介事に進んで首を突っ込みたくはない。しかしながら出家が他者の危難を見逃すというのも如何なものか。
(
二人が乗っていた馬車は
「あっ、見て!」
蘭香が叫ぶ。元林宗は体を捻って振り返った。その間に後方斜めから飛び出した何者かは、もう馬車まで数十歩の位置まで接近していた。中年の女だ。その腕には小さな女の子が抱えられている。
「助けてぇ!」
女児は泣き叫んでもがくが、女の腕はびくともしない。そうこうしている間に元林宗らの馬車へと到達した。
「な、何者だ、あんた!」
驚いた御者の首を、シュッと伸びた女の手が鷲掴む。グゲッ、と呻いて御者は力をなくした。脈どころを押さえられたのだ。
「大人しく言うことを聞いて、進路を変えな!」
「へ、へぇ!」
御者は逆らえば殺されると悟り、言われるままに馬首を巡らせる。
誰の目にも女が女児を誘拐しているのだとわかる。悪行を目の前にして黙っているなど蘭香にできようはずがない。女が御者に注意を向けている後ろで腰を浮かせた。が、その腕を元林宗が引き留める。
「今はダメだ。討ち漏らせばまたあの子は連れ去られてしまう。あいつが女の子を放したら取り押さえよう」
それも一理ある、と蘭香は頷いた。無闇に打ちかかるのは蛮勇、機を見て動かねばなるまい。
しかし事はそうも行かなかった。女の腕の中で女児はジタバタと腕も足も振り回して暴れもがく。おまけに声の限りに喚き散らすので、誘拐犯は煩わしくてかなわない。
「少しはお黙り!」
もう一方の腕を振り上げる。女児を打とうとしている。もはや蘭香の我慢はここまでだった。口で遮るよりも体が先に動く。誘拐犯の腰へ掌打を送る。
が、誘拐犯の女はすんでのところで身を捩りこれを流す。背後からの不意打ちならばまだしも、ほぼ真正面から打ちかかったのだ。誰にでも回避できる。しかし女児へ向けた手の平は引っ込めざるを得なかった。
「なんだい、この
「悪党め、その子を放しなさい!」
蘭香は腰の柳葉刀を抜いて斬りかかる。ちょうど元林宗も別方向から攻め手を繰り出している。誘拐犯は片腕に女児を抱えているのだ。同時には受けられない。素早く飛び退き荷台を降りる。蘭香と元林宗も後を追う。御者はこれ幸いと難を逃れて走り去った。
誘拐犯はそのまま軽功を駆使して駆ける。なかなかの武功だ。しかし子供とはいえ人一人を抱えているため速度は劣る。始め数十歩ほど開けていた彼我の距離は次第に縮まってゆく。逃げ切れぬと見た女は疾駆しながら悪態を吐いた。
「これはあたしの子だよ。あたしが
蘭香と元林宗は思わず顔を見合わせた。これは誘拐ではなかったのか? しかしその疑念は即座に打ち破られた。女児がまた暴れ出したのだ。
「こんな人、お母様なんかじゃないわ! 帰して! わたしをお家に帰してよぉ!」
「この子は、よくも!」
また女が激昂の色を見せるのへ、元林宗はその視線が女児へ向いた瞬間に一気に距離を詰める。この女児が真に女の娘であったとて、こうも泣き喚く子供を打つなど看過できぬ。跳躍ざまの回し蹴り、その踵がこめかみを狙う。
「野蛮な道士だね!
飛び退きながら空いている側の手を腰帯の下へ潜らせ、鞭を引き放つ。一拍遅れて繰り出された蘭香の柳葉刀を横から弾いた。もぎ取られはしなかったものの、腕が痺れて怯む蘭香。その脳天へ鞭の第二撃が襲いかかる。
「やめろ!」
元林宗の蹴り技が鞭を受ける。バシィッ、と破裂音と共に元林宗の服が弾けた。左脚の脛、しかし血肉は飛んでいない。破れた服の下から見えたのは黒黒とした金属の脛当てだ。
「それはもしや――そうか、お前は紫衫天人の弟子なんだね! これは重畳! アッ!」
女は突如叫ぶや苦悶の表情を浮かべる。女児が遮二無二その腕に噛み付いたのだ。引き剥がそうにももう一方の腕は鞭を手にしている。女は鞭の柄で女児を打とうとした。が、元林宗が飛び出し掌打を繰り出す。受けぬわけにもいかずこれに応じた女だが、その間にも女児はさらに強く噛みつく。そうこうしている間に蘭香までもが持ち直して攻めてくる。
「ええい、お止め!」
誘拐犯の女はとうとう女児を放り出した。しかし女児は最後まで噛み付くのをやめなかった。ビリッ、と袖が破けた。後退した女の、その腕を押さえた下からは血が滲み出る。肉は噛み千切れずとも肌を裂いたようだ。女の表情が悲痛に歪む。しかしそれは痛みに対してというよりは、裏切りを憎むかのようである。
「親に楯突いて傷つけるなんて、お前はなんて親不孝なんだい! こんなことをされたら……躾なきゃならないじゃないか!」
哀切の嘆きとともに、なんと涙まで流すではないか! 呆気にとられた一瞬、鞭が唸る。先端が女児に向かって伸びる。躾どころではない。あんなものを喰らえば女児の体など簡単に弾け飛ぶだろう。
パァン! 間一髪、横から飛び込んだ蘭香が女児を抱えて飛び退く。鞭の先端は地面を穿った。が、巻き上げられた土塊が蘭香の肩を直撃した。あっと叫んだ瞬間、その腕から女児が転げ落ちた。しかも、蘭香が飛び退いた先には池があった。二人揃ってどぶんと落水した。
「蘭妹!」
元林宗は一瞬躊躇した。蘭香を助けに行きたいが、それでは敵に背を向けることになる。無防備を晒すわけにはいかない。だが、それは杞憂だった。女児誘拐犯こそがその一瞬の間に背を向け、また何処ともなく逃走して行ったからである。女児が解放された今、元林宗に深追いするつもりはない。それよりもまずは蘭香だ。
「林哥哥、大変よ!」
だがこちらも杞憂。蘭香は泳ぎができた。問題は女児の方だった。腕を取り引き上げると力なくぐったりとしている。落水した瞬間に大量の水を飲み込んでしまったらしい。ゲエッとひとしきり水を吐き出し息は取り戻したものの、そのまま意識を失ってしまった。
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