第五節 誘拐事件

 場所は再び花園のちん。しかし辛悟はすっかり蚊帳の外だった。別に、羨んでいるのではない。ただいつもの輪の中に自分はおらず、別の何者かが自分の席を占めている。しかもこちらはその光景をただ見つめるしかないのだ。何だか胸がモヤモヤしても当然というものだ。

「なるほど、それは興味深い! その「長短経」とやら、わしも一目読んでみたいところじゃ」

「なにを言うか。この趙蕤、これほどまでに意気投合した相手は他におらぬ。しかも、李弟のような若者にはな。良かろう! 我が傑作「長短経」全九巻、すべて李弟に贈呈しよう」

「おやおや、随分と太っ腹ではないか! ワハハハハ!」

「李白よ、どうせお前のことだ。受け取ったその足で古本屋へ向かうのだろう?」

「おいおい東兄、それはまだ秘密じゃ。言ってはいかん」

 そうして李白、東巌子、趙蕤の三人は揃って笑声を発し、酒杯を傾ける。先ほどからずっとこんな調子だ。

「調子の良いことだ。先ほどまで互いに罵り合っていたのは誰だったか」

 自分でも不機嫌だなと分かるほどその声音は苛立っている。辛悟は茶を一口含んで杯を卓に打ち付けた。隣に立つ柯高が苦笑いを浮かべた。

「しかし李居士が趙蕤殿と意気投合しなければ、あのまま言い争いは続き、東楽士もどうなっていたことやら。それが円満に解決したのです。一安心ではありませんか」

「それは、そうだが」

 趙蕤は縦横家であり、まつりごとを語り始めると止まらない。すると李白がその話題に乗っかり、あれよあれよと話が弾み、趙蕤は始めの怒りなどどこへやら。とうとう「李弟は我の知古だ。噂はまことであった」とまで言うようになってしまった。別に、それは何の問題もないのだが。

「しかしどうしてまた、二人は共に東巌子の号を名乗っていたのでしょう? 見たところ東楽士の方が年上に見えますが、趙蕤殿はこれが初対面と仰っておりますし」

 柯高は東巌子がその姿を偽っていることを知らない。実際は東巌子の方が親子の差ほども年下だ。それに東巌子はその名を今は亡き師父から与えられたと言っていた。その師父に確かめる術がない以上、その来歴を知る術はない。つまり考えるだけ無駄だ。

「理由など、知るか」

 なので、辛悟はとうの昔にそれについて考えることを放棄していた。柯高の問いに対してもぶっきらぼうな返答だ。柯高は特に気分を悪くするでもなく肩を竦めた。いつもの輪から外れてしまったことを拗ねているのだろう、と勝手に解釈していたのだ。そしてそれはあながち間違いでもなかった。

 さて、そんなやり取りが行われていると、やにわに辺りが騒がしくなってきた。邸の中を何人もの人間が駆け回っている。

「何やら騒がしいのう。何か事件でもあったかな?」

 趙蕤が呟いたとき、花園に何者かが駆け込んできた。子供だ。仕立ての良い服を来ているが、その服は泥だらけ。今も花園に駆け込んだ瞬間に躓いて盛大に胸から転んだ。趙蕤と東巌子がさっと立ち上がって駆け寄ろうとするのへ、それより早く子供の後を追ってきた者がいる。

 む、と声を発したのは趙蕤と李白か。駆け込んできたのは十四、五ほどの少女だったのだが、その容貌は花園の花々が見劣りするほどに美しかったのだ。

「小しょう、どこへ行くの? そんなに走っては怪我をするわ」

「ほっといてよ! おれは役立たずなんだ。おれは男じゃないんだ。そんな奴のことなんて放っておけばいいだろう!」

 立ち上がってまた駆け出そうとするのを、少女は後ろからひしと抱き締める。子供はなおも暴れようとしたが、いくらなんでも体格差がある。逃れることはできなかった。

「おい辛悟、あの二人は何者じゃ?」

 声を潜めて李白が問う。もちろん辛悟は二人を知っていた。

「あの娘はこの屋敷の主、楊玄琰殿の次女、楊玉瑶ぎょくようだ」

「喚いておるガキは?」

「少し前から俺と同じくここに逗留している楊家の縁者で、確か名は楊釗だったか」

 その楊釗は逃げられないと観念したのか、手足をばたつかせるのを止め、やがてグズグズとすすり泣きを始める。

「怖かったんだ、おれも怖かったんだよぅ。あいつが小環を無理やり引きずって、おれも助けようとしたけど蹴り飛ばされて……お前なんか要らないって睨まれて、それで、それで……」

「あなたが要らないだなんて、見る目がないわね」

 少女玉瑶は優しく楊釗の頭を撫でた。

「小釗は何も悪くないわ。いつだって悪いのは大人。小環が攫われたのだって、あなたは何も悪くないのよ。悪いのは全部あいつ――鬼子母神きしもじんよ」

「なに、鬼子母神だと!」

 辛悟らは思いがけず、全員が同時に声を発した。思いがけぬ大唱和に玉瑶と楊釗は飛び上がらんばかりに驚いた。この花園に他に誰かがいるなど思いもしていなかったのだ。ぎょっとして楊釗を抱えて後退る。しかしすぐに姿を現した中に辛悟の姿があるのを見て安堵の息を吐いた。

「どなたかと思えば、辛様ではありませんか。そちらの方はご友人の方ですね」

「脅かしてしまってすまない、楊姑娘。しかし何があったのか聴かせてもらっても良いだろうか。鬼子母神が云々、とは?」

 玉瑶は楊釗を地に降ろすと目元を微かに潤ませながら頭を振った。

「おぞましいことです。あの鬼子母神がこの地に現れたばかりか、よりにもよって四妹を攫って行ってしまったのです」

「それはいつ、どこで?」

 なぜ辛悟がそんなことを気にするのか玉瑶は不思議に思ったことだろう。もちろん彼女は辛悟らが以前に鬼子母神範琳はんりんと因縁を結んだことなど知らないのだ。

 問いに答えたのは玉瑶ではなく、泣きっ面を拭った楊釗だ。

「ついさっきのことだよ。変な占い師に騙されたんだ。小環は友達がいなくなったからって、その行方をその占い師に聞いたんだ。そうしたらそのインチキ占い師が小環をわざと町はずれに向かうよう仕向けて……」

「占い師?」

 辛悟と東巌子は顔を見合わせた。もしやその占い師というのは……。

 楊釗は悔しさがまたこみ上げたのか言葉が続かない。その頭を撫でながら玉瑶は優しく声をかける。

「大丈夫よ、大丈夫。その占い師ならついさっき、兵府のお役人様が捕まえてきてくださったわ。きっと鬼子母神の行方もすぐにわかるわ。そうなれば小環だって――」

「なに? いやそんなはずは」

「よーし! その占い師とやら、どんなツラか拝みに行こう!」

 辛悟の言葉を遮って、言うなり花園を飛び出す李白。その声はやや上ずっており何やら都合の悪い事実を隠そうとしているように感じられた。しかしそれはともかくとして辛悟らもその占い師とやらは気になる。玉瑶と楊釗をその場に残し、揃って大殿へと向かった。

 そして案の定と言うべきか。そこで縄を掛けられ跪かされていたのは見覚えのある顔だった。

「だから俺じゃねぇ! 俺は確かに占いを生業としているが、そんなお嬢さんになど会ったことはねぇ!」

 間違いない。李白に身ぐるみはがされた挙句、幟も筮竹ぜいちくも拝借された占い師、張看星ではないか。

「何を言うか! お前が我が娘を攫ったのだろう! さあ、この警悪刀けいあくとうがその首を断つ前に、阿環の居場所を言え!」

 楊玄琰は相当取り乱しているようだ。普段の落ち着いた様子はどこへやら、その手に煌めく宝刀を掲げて今にも張看星に斬りつけようとしている。それを武官でもない役人が血相を変えて左右から抑えている。

 辛悟の予想は的中したのだ。先ほど楊釗が言っていたインチキ占い師とは、張看星を装った李白に間違いない。

「おおっとここでわしは唐突に用事を思い出したのであったぁー! それでは皆の衆さらばまた会う日まで」

「逃げるな、コラ」

 くるりと踵を返して遁走しようとする李白の首根っこを捕まえる辛悟。首元がキュッと閉まって李白はカエルのような呻き声を発した。するとそれに気づいて張看星が振り返る。瞬間、ぱっと顔を輝かせた。

「あぁっ! 太白星の化身ではないか! こんなところで出会えるとは何たる幸運! おい、おい、俺にその顔相を見せてくれ。手相を見せてくれ。占わせてくれぇ!」

 やにわに暴れ出した張看星を左右の武官が慌てて押さえつける。それでもなお張看星は「占わせてくれ」を叫び続けるのであった。自ら取り調べを行っていたらしい楊玄琰はすっかり呆気に取られて茫然とし、説明を求めるかのように辛悟らへと視線を向けた。

 ただ一人趙蕤を除いて、誰もが視線を逸らした。しばしの間、大殿は張看星の叫び声だけが響いていた。

「占わせてくれよぉぉぉぉぉぉ! 太白ぅぅぅぅぅぅ!」


(了)

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