第十三節 優鉢羅花の池

 どれほど走ったか知れない。月の光も遮られた竹林の中をただひたすらに駆け続け、もはや狼どもの遠吠えは背後に遠い。それでもなお前後も分からず駆け続けて、不意に視界が開けたところでようやく二人は足を止めた。

「ここは……」

 言葉を発しようとしても呼吸が乱れて続かない。隣を見れば李白もまた同様に肩を上下させているが、同じく目の前の光景に驚いているようだ。ふらふらと側の松木に寄りかかりつつ顔面は喜色に溢れている。

「いやはや、これほどの……いはやはなんともはや」

 そこまで言って一度言葉を切り、息を整えて背を伸ばすとやおら朗々と吟じる。


犬吠水声中 桃花帯露濃

樹深時見鹿 渓午不聞鐘

野竹分青靄 飛泉挂碧峰

無人知所去 愁倚両三松


「――ふふふ、なかなかの出来栄えじゃわい。あの犬っころどもには感謝せねばなるまいな。さもなくばここへたどり着くこともできず、かような良詩を詠むこともなかったであろうよ」

 不空はそんな李白をぎろりと睨めつけ、そうだな、とぞんざいな相槌を返す。元はと言えば、お前がこんな夜中に出歩かなければ死にかけるような思いもしなくて済んだのに、と。

(しかし、この山にこんな場所があっただなんて。随分長く住んでいたけれど、全く知らなかったな)

 二人の目の前に広がっていたのは、仙境と見紛うような桃園だった。辺り一面、桃の木が群生している。その枝には大きく白い果実が宿り、心休まる芳香を漂わせていた。

 ふらふらと立ち上がった李白はその一つを手に取っておもむろに頬張った。じゅるりと果汁が溢れ、その甘さに今までの疲れも吹き飛ぶようだ。

「ふひゃあ、ふまひふまひ」

 一度に二個も三個も頬張る李白。それを横目で見ながら、不空も地面から起き上って手近な果実を一つ手に取った。

 がぶ、じゅる。なるほど、いくらでも食べたくなる味だ。

「おい、不空。こっちへ来い。これはもっと凄いぞ!」

 既に桃園の奥へと進んでいた李白が突然叫んだ。何事かと思ってそちらへ走って、眼前に現れた光景にさしもの不空も息を呑んだ。

 それは池だ。決して大きくはなく、その外周は百歩もせずに歩けるだろう小さな池だ。しかしながらその水面は、大量の水花によって埋め尽くされていたのだ。青い花弁、黄色のしべ、それらがほのかな月明かりの中ゆっくりと蕾を開こうとしている。

「――たとえば月光のく一切の優鉢羅花うはつらけをして開敷鮮明かいふせんめいならしむるが如し。いやはや、よくも言ったものよ」

「え?」

 李白の突然の言葉に、不空は驚いた。その様子を見て李白はふふんと鼻を鳴らす。

「何じゃあお主、坊主のくせに「涅槃経」も知らぬのかぁ~?」

 寺に住まう以上知らないわけではないが、すらすらと諳んずるほどではない。むしろなぜお前が知っているのかと問いたいがそれは些末事だ。不空が気にしたのは、もっと別のところにある。

「お前、今「優鉢羅花」と言ったのか? これが「優鉢羅花」というものなのか?」

 それは確か、梁翡蕾が探し求めていた薬草の名であったはずだ。それがどのようなものであるか詳しくは知らない。しかしもしもこの水花がその優鉢羅花であるならば、これだけの量だ、きっと梁工の病を治すこともできるのでは?

「あ? 知るかそんなもん」

 それが期待させておいてこれである。不空はあまりのことに思わず李白の背中を池に向かって突き飛ばすところだった。が、それはすんでのところで思いとどまった。水縁を歩いて近づくその人影に気づいたからだ。

「――来たか。待っていたぞ」

 二人の眼前に現れたのは、橙の僧衣に身を包んだ人物。言わずもがな、金剛智である。

若人わこうどよ。何を求めてここへ来た?」

 穏和な笑みを浮かべて金剛智は問う。当然ながら、李白は声を張り上げてこれに答えた。

「寝ぼけておるのか、それとも耄碌もうろくしておるのかこの老いぼれ坊主が! わざわざわしがこんな所にまでご足労したのは、当然ながら紅袍賢人の武芸書を得るために決まっておる! さあ大人しく書を渡せ、さもなければ力づくじゃ」

 そうして不躾に手を差し出す。しかし金剛智は微笑みを浮かべたまま頭を振った。

「かの紅袍賢人の武芸を求める者か。しかし李小施主、そなたはなぜ武芸を求める? それで一体何を成す?」

「それが貴様に何の関係がある? つべこべ言わずに渡さぬか!」

 言うや否や、李白は諸手を掲げて金剛智へ飛びかかった。しかし金剛智はついと一歩引いてその手を逃れる。李白の手は空を掴んだ。

「逃げても無駄じゃぞ!」

 李白の両足が地面を滑る。空を掴んだ拳がそのまま突きとなる。金剛智はこれを振り上げた手で打ち払った。その手はただ掲げられたように見えたが、李白の腕は大きく横に開かれさらに蹈鞴たたらまで踏む。見かけ以上の威力のようだ。

「やはり、それは紅袍賢人の「谷下風鳴こっかふうめい」に相違ない。大師はそれをいかにして学んだ?」

 払われた左手を腰へ引き溜め、同時に右手は下腹を狙う。金剛智はこれもまた払いのけた。李白も今度は蹈鞴こそ踏まないが、やはり相当な威力のようだ。上体が大きく傾く。

「そう来なくては!」

 李白は満面の笑みを浮かべ、溜めていた左拳を真っ直ぐに打ち出す。金剛智がこれを払う、しかし今度は弾き飛ばすことができず、わずかに上体を逸らして回避させられる。

「――む」

「戯けが。その程度の技、このわしにかかれば破るなど容易いものよ。さあ、次は何をご教示願おうか!」

 言うなりの跳躍、ぐっと膝を胸まで持ち上げ蹴りを二連続で繰り出す。ところが金剛智はこれをまたも下から振り上げた両手で払いのける。李白の体はぐるりと縦に一回転し、ぐしゃっと音を立てて後頭部から地面に落下した。

「ぎゅべっ!」

「「狼狼連環腿」の欠点は体の支えを失うことにある。まあ、大抵の相手には有効であろうが」

「うぅ~、うっさいわボケ!」

 立ち上がった李白、続けざまに三連続の突きを繰り出す。肩と胸とわき腹を狙う。しかし金剛智はこれらを払い、受け、掴んで止める。掴んだ腕をそのまま捻り上げれば李白の体はぐるりと一回転、またも地面に叩きつけられた。

「ぐへぇっ」

「まだ続けるかね?」

「当ったり前じゃ、いくらだって続けてやるわい」

 バンと地面を打ちつけ、その反動で跳ね起きる。間髪入れずに拳を繰り出す。左拳と同時に右足では膝を狙う。しかし金剛智はこれを予期していたかのように全く同じ動きを鏡合わせに行った。拳と拳は打ち合い、足も狙いを逸れて地面に踏み込む。右掌で腹を狙えば、金剛智の左掌とぶつかってパンッと音を鳴らす。

「その技は「明鏡止水」か!」

 言いながら右腕を曲げて肘打ちに転じる李白。しかし金剛智はここで距離を取るように半歩下がろうとする。肘打ちならば間合いを取って避けるが得策と見たのか?

「甘い甘い甘ぁ~いっ! 舌がべとつくほどに甘々じゃあ!」

 空を切る肘、李白はその勢いのまま一回転。経の短い独楽こまはより速く回転する。瞬く間に前後を転換し、体幹から鋭く拳を打ち出す。実に素早い一撃だ。

 が、金剛智はこれをひょいと撫でるようにして受け流し、さらに李白の踏み込んだ足をパシッと蹴り込む。李白は自信の突きの勢いそのままに宙に浮かび、どしゃっと腹から地面に落ちた。ついでに顔面もしたたかに打ちつけた。

「ぴゲーッ!」

 慌てて起き上がろうとするのを、金剛智は払った腕の関節を固めつつ背中を押さえることで制する。李白はもう一方の腕と両足をじたばたさせてもがいたが、もう動けない。

「さて、施主に問おう。施主は既に紅袍賢人の武芸を会得しておられる。さもなければ貧道の技を見てその名称を言える道理がない。それ以上に何を望まれるのか?」

「それを知ったところで何とする? さっさと離さぬかこのボケが! そこまで分からず屋であれば敢えて言ってやろう、わしが真に求めておるのは「天問牌」じゃ! 武芸などその踏み台に過ぎぬ。紅袍賢人の武芸が何するものぞ!」

 その言葉に、金剛智はふむと言って顎に手を当てた。そうして数秒何事かを考えたかと思えば、ついでにやりと笑みを浮かべる。

「天問牌……なるほど天問牌か! 得れば幸福を授かる、誰もが知らぬうちに探し求めている秘宝、か。なるほど、実に理に適っている!」

「わかったら放さんかいボケがぁー!」

 金剛智の抑え込みを押しのけようと李白は地面に掌打を打つ。すると、全く同時に金剛智は李白の背中から離れた。抵抗を一切受けなくなった李白の体は予想外に飛び上がり、綺麗な弧を描いて頭から池の中へと突っ込んだ。盛大な水柱を上げた後、ぱらぱらと水滴が水花の葉を打つ。

「――さて、次はそなたの番じゃ。不空よ、何を求めてここへ来た?」

 一連のやり取りを茫然として見ていた不空は、問いかけられてはっとした。

「自分は、自分は……」

 正直を言えば、ただ李白に連れられてやって来たに過ぎない。何を求めて来たわけでもない。――しかし、何も求めていないわけではない。それに今やっと、気付いたのだ。

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