第十二節 真の終焉

 一体どれだけの距離を走っただろうか。背後を振り向けば凶刃が迫るようで、足を止めれば胸を貫かれそうで、ただただ一心不乱に走り続けた。しかしもう限界だ。黄昏が樹林の合間を縫って目を射抜き、眩んだ瞬間に足元を取られて転倒した。

 静かだった。たださわさわと葉が揺れ、どこからか虫の鳴き声がかすかに聞こえるだけ。そんな中でひとしきり深い呼吸を繰り返し、ようやく身も心も落ち着きを取り戻した。上体を起こして地べたに座り、張飛鉾を握り締めていた手を開く。その掌中は汗でぐっしょりと濡れていた。

 ふっ、と知らず自嘲が漏れる。

(中天幇会の舵主ともあろう者が、こうも無様に逃げ回るとは)

 しかし、逃げなければ殺される。

 殺されれば、張飛鉾を奪われる。

 張飛鉾を失えば、それが中天幇会の終焉となるのだ。

 だから己は生きなければならない。どんなに無様でも、卑怯でも、たとえ他人を犠牲にしてでも逃げ延びなければ。それだけが、生き残った者の使命というものだ。

「そうだ、俺は生き延びる」

 言い聞かせるように呟いた。そしてその言葉を聞いた自身の耳が、自身の声でない音を拾った。

「私のかわいい子供たち、もうすぐ日が暮れるころ。早く帰っておいでなさい、おいしいご飯が待っているわ――」

 これは子守歌だ。誰かが子供をあやしているのだろうか。しかしすぐさまそれは違うと思い至る。こんな山奥の黄昏時、一体どこの親がこんな場所を訪れる? それに、この声には聞き覚えが――

 ぞっと羅錦威が身を凍りつかせるのと同時、さあっと一陣の風が吹きつける。否、風ではない。軽功で何者かが急接近したのだ。羅錦威が振り向こうとした瞬間、その何者かはさっとその頭上を飛び越えた。

 薄紅色と白の衣装。結い上げた長い髪。ふわりと宙に靡くそれらを見るなり、羅錦威は自身の恐ろしい予感が現実のものとなったことを知った。現れたのは鬼子母神こと範琳だ。しかしすぐさまさらに恐ろしい事実に羅錦威は気づいた。範琳の腕に抱えられたその姿に。

「珠児!」

 背中を向けて降り立った範琳がゆっくりと振り向けば、その腕の中に捕らわれているのは紛れもない羅錦威の娘、羅珠である。

「お、お父様……」

 すでに泣き腫らして真っ赤になった目元にさらに涙を溜め、羅珠は声にならない声を発する。バカな、と知らず羅錦威は漏らしていた。羅珠はあの夜、事前に妻と一緒に義父の元へ送り出したはず。それがなぜ、範琳と共にいるのだ!?

 にいっ。範琳の桃色の唇が冷酷な形に歪み、頬に接吻するかのように羅珠を引き寄せる。

「お前の父親はひどい奴だねぇ。お前も、お前の母も、みんな見捨てて逃げて行ったよ。薄情にもほどがあるってものさねぇ」

「やめろ、娘に手を出すな!」

 羅錦威の声は自身でも情けないと思えるほどに弱弱しいものだった。範琳はそんな声など聞こえぬとばかり、さらに頬を摺り寄せ囁く。

「お前、愚図で腰抜けの父親なんか要らないだろぅ? 元よりお前は捨てられたんだ。私の子におなりよ。たっぷり可愛がってあげるからねぇ」

 フフフ、と笑声を漏らしながら頬を摺り寄せる範琳。しかし羅珠は両手で押し退ける。

「嫌よ、嫌! 助けてお父様!」

 非力な子供の精一杯の抵抗。すると範琳の表情は一転、眉を吊り上げ鬼の形相へと変貌する。さっと右腕が動き、羅珠の細い首を鷲掴んで吊り上げた。小さな目が見開かれ、手足が壊れたように暴れだす。

「可愛げのない子だね! あたしの言うことをお聞きよ!」

 ――瞬間、羅錦威の中で何かが弾けた。するりと張飛鉾の包みが解かれ、気づけば羅錦威は範琳へ突きかかっていた。

「娘を放せぇぇぇぇっ!」

「ハッ! 腰抜けが何を今さら!」

 範琳の腕が弧を描き、無造作に羅珠を投げ捨てる。そのまま腰に手を伸ばし、帯下に潜ませていた長鞭を引き放った。先端がまるで意思を持つかのように張飛鉾へと絡みつこうとする。そのまま突き込めば鉾を奪われることは明らか。しかし、羅錦威は止まらなかった。

「娘をお前なんぞに渡してなるものか!」

 鞭を巻き付けたところで刺突を止められるわけではない。範琳はさっと軽功で間近の樹上に飛び移る。羅錦威が追撃しようとするのをさっと隣に飛び移って躱しざま、ぐいと鞭を引き寄せる。手中から張飛鉾が飛び出そうとするのを羅錦威はしがみつくようにして堪えた。が、突如として引き寄せる力が消失する。あっと叫んで背中から転倒する羅錦威。その眼前に範琳が迫る。打ち付ける掌風に対し、羅錦威は遮二無二腕を突き出して応じる。両掌が打ち合いパァンと破裂音が耳を貫く。

 内臓が裂けた。どっと口から鮮血が溢れる。単純な掌力であれば羅錦威に分があったが、範琳は後退することで反動を逃がすことができた。しかし地面に転がった状態の羅錦威にそれはできない。受けた衝撃を殺すことができず、たちまち深い内傷を負ったのだ。

「――罪人、羅錦威。一幇会の舵主の位にあるにも関わらず、その任を放棄し、情義を忘れ同胞を死地に捨てた罪により、死刑に処す」

 ぎょっとして顔を上げれば、範琳は一枚の書状を手に薄ら笑いを浮かべている。しかしひらりと裏返された書面には何も書かれていない。

 アハハハハ! 範琳の嘲笑が耳に刺さる。

「天吏獄卒がお前のような小物のためにいちいち判決書を書くものかね。――でも、張飛鉾を持って逃げた罪は重いよ。それは宗主様が必要とされているのだからね」

 すうっ、範琳の目が細くなる。ただそれだけだ。ただ目を細めただけ、それだけなのに。

 羅錦威の足が竦む。体が硬直する。ただの的となり果てた。

 気づいた時にはもう、羅錦威の首には長鞭が巻き付いていた。あっと声を上げる暇もない。範琳が腕を振れば、羅錦威の体はびゅうんと宙を飛んで大樹の幹に打ち付けられる。さらにもう一度、もう一度。打ち付けるたびに巻き付いた鞭はぎゅうぎゅうと首を締め上げる。次第に呻き声すら上げられなくなった。

「どうしたね? もうお終いかい?」

 どっと地面に倒れ伏した羅錦威。その手のほんの少し先、震える小さな靴が見えた。顔を上げれば愛しい娘の姿が。

「珠児、逃げ……」

 直後、鞭に引かれ宙を飛ぶ。今度は幹に打ち付けられるのではなく、斜め上に投げ上げられた。落下するその途中に枝。鞭が引っ掛かり、羅錦威の体は地面に衝突するよりも先に急停止する。グキッ、鈍い音とともに羅錦威の首がわずかに伸びた。その手からするりと落ちる張飛鉾。ドスンと地面に突き立った。

「アハハ! ようやく手放してくれたねぇ。よくも最期まで後生大事に握り締めていたものだよ」

 範琳は地面に突き立った張飛鉾を引き抜き、それから鞭を緩めた。どっと力なく落ちる羅錦威の体。頸はあらぬ方向に捻じれ、ピクリとも動く様子がない。

「お父様、そんな……お父様!」

 羅珠が震えて役に立たなくなった足を引き摺り父親の亡骸にすり寄った。二度と動かない胸に顔を埋め、わんわんと泣き出す。範琳はそれを畜生を見るような視線で見下ろした。腕を伸ばし後ろ髪を掴むや、無情かつ無造作に父子を引き剥がす。

「やめて、何をするの! 私はお父様と一緒にいるの! 殺すなら殺して!」

 喚き散らす羅珠を、範琳は一切迷うことなく大樹の幹に顔面から叩きつけた。ぐりぐりと押し付けられること十数秒、ようやくべろりと引き剥がす。羅珠の顔は涙と鼻血とでぐちゃぐちゃになっていた。範琳はその顔にそっと口づけを施す。

「可愛そうな子だねぇ。でも子供はいつか親元を離れて生きるんだよ。お前を二親と同じ場所で死なせやしないさ」

 その時、がさがさと茂みを揺らして一人の少年が現れた。胸を押さえていた少年はちらりと地面に転がった羅錦威に視線を向けるや、つかつかと歩み寄ってその心臓に懐から抜き放った匕首を突き立てる。すでに絶命していることは明らかなのに、まったく意味のない行為だ。しかしそれを見て範琳は破顔する。

「いい子だねぇ、風児ふうじ。お前はいつだってちゃんと母の言うことを聞いてくれる」

 風児と呼ばれた少年は範琳の前に歩み寄り、そっと頭を彼女の胸に摺り寄せる。範琳はよしよしと言ってそれを抱きしめようとしたが、ふと両手が張飛鉾と羅珠とで埋まっていることに気づく。

「風児や、まずは山を下りようね。宿に着いたら思う存分に甘えていいからね」

 こくり、頷く風児。二人は揃って軽功で駆け出し、瞬く間に姿を消した。

 残されたのは羅錦威の遺体と、その胸に突き立った匕首のみ。それらはやがて朽ち果て、大地に還るだろう。中天幇会の威信も、情義も、名誉も恥も――すべてこの場所で消え失せた。

 あるいは、そんなものは最初から存在したのだろうか。


(了)

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